1998年 ヨハネの福音書 ?部第8講

 

よみがえられたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書20:1ー31

要 節:ヨハネの福音書20:17

「イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。

わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちの

ところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、

わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」と告げなさい。」

 

 今年、神様が私たちにヨハネの福音書の御言葉を通してイエス様が神の子キリストであることを、信じるようにしてくださったことを感謝致します。また、信じる者に永遠のいのちを与えてくださったことを感謝します。今日は、ヨハネの福音書の最後の講義としてよみがえられたイエス様について学びたいと思います。キリスト教の中心は、私たちの罪からの救いです。その罪からの救いの土台となるものは、イエス・キリストの十字架上の死と、それに続く復活です。ですから、十字架と復活は重要です。それで四つの福音書はこのイエス・キリストの十字架上の死と復活を記録しています。イエス様の復活は罪の赦しに対する確信を与えてくれます。イエス様の復活は究極的な勝利を約束してくれます。イエス様の復活は神の国に対する生ける望みを与えてくれます。ヨハネは空の墓を復活の証拠として提示しています。よみがえられたイエス様は泣いているマリヤに喜びを、恐れている弟子たちに平安を、疑い深いトマスに確信を与えてくださいました。私たちが復活信仰を持つ時、喜びと平安、確信に満ちた信仰生活を送ることができます。この時間、御言葉を通してよみがえられたイエス様に出会い、私たちの心のうちにあるすべての悲しみと恐れと疑いが喜びと平安と確信に変わり、私たちがイエス様の復活の証人になることができるように祈ります。

 

?。空の墓(1ー10)

 

 1節をご覧下さい。週の初めの日、つまり日曜日の朝でした。その日は、イエス様は死者の中からよみがえられた栄光の日、勝利の日でした。その日まで、人類は死の力に支配されて来ました。権力者であっても、金持ちであっても死の力の前では無力でした。しかし、イエス様は死の力に打ち勝ち、死者の中からよみがえられました。キリストの復活によって人類を支配していた死と死による悲しみ、絶望の夜が退かれ、希望に満ちた輝かしい歴史が始まりました。しかし、この世の誰も、この福音を知りませんでした。マグダラのマリヤもそれを知らずに朝早くまだ暗いうちに悲しみを抱いてイエス様を葬った墓に来ました。ところが、墓の近くまで行くと、墓から石が取り除けてあるのを見ました。イエス様が葬られた時、その死体が盗まれないように大きな石で墓の入口を塞ぎ、ローマ兵士たちが見張りをしていました。それなのに、マリヤが見ると兵士たちはおらず、石は取り除けてあったのです。マリヤはびっくりしたでしょう。それで、走って、シモン・ペテロと、ヨハネとのところに来て、言いました。「誰かが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」彼女は誰かがイエス様の死体を盗んだと思ったようです。

 そこでペテロとヨハネはびっくりして外に出て来て、墓のほうに行きました。ふたりは一緒に走りましたが、ヨハネがペテロよりも速かったので、先に墓に着きました。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中に入りませんでした。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエス様の頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見ました。泥棒が部屋の中を整理し、ものを片付けてから逃げることは考えられません。ところが、墓の中は、人が寝てから起きて布団を片付けて置いたような様子でした。これはいったい何を意味するのでしょうか。それは、イエス様が普段、言われた通りに三日目によみがえられたことを明らかにしています。もし誰かがイエス様の死体をどこへか運んだなら、こんな手間のかかることをするはずがなかったでしょう。体だけがなくなている空の墓、これはイエス・キリストの復活の確かな証拠です。イエス様は私たちの罪と咎のために、十字架につけられ死なれ、葬られました。しかし、イエス様は、聖書に従って死者の中から三日目によみがえられたのです。イスラエルにあるイエス様の墓の前には「イエス様はよみがえられた。ここにはおられません。」と書いてあるそうです。そうです。イエス様はよみがえられたので墓はありますが、死体はありません。イエス様は死者の中からよみがえられて復活の主、勝利の主となられました。イエス・キリストの復活によってこの世界には新しいいのちの歴史、勝利の歴史が始まりました。

 

?。マリヤに現われたイエス様(11ー18)

 

 弟子たちは墓の中にイエス様の死体がないのを見て、自分の所に帰って行きました。しかし、マリヤはそのまま帰ることができませんでした。彼女は二日前に葬った主の遺体が無くなってしまったことに、悲しくなって、外で墓のところにたたずんで泣いていました。彼女がどんなに深くイエス様を愛していたのかが伺えます。彼女は泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込みました。ところが、その時、何を見ましたか。

 12節をご覧下さい。ふたりの御使いが、イエス様のからだが置かれていた場所に、ひとりは頭の所に、ひとりは足の所に、白い衣をまとってすわっているのが見えました。しかし、彼女の目には、それが御使いであることは分かりませんでした。彼らは彼女に言いました。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言いました。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

 マリヤはなぜそれほど泣いているのでしょうか。マリヤは過去七つの悪霊につかれていました。彼女は七つもついている悪霊のために非常に苦しんでいました。人々はそのような彼女を蔑視し、遠ざかっていました。しかし、イエス様は彼女を哀れみ、七つの悪霊を追い出して下さいました。彼女はイエス様によって新しい人生を始めることができました。そして主の恵みのために心を尽くし、力を尽くして主と福音のみわざに仕えました。しかし、イエス様が十字架につけられ死なれた時、彼女は生きる意欲や希望を失ってしまいました。愛するイエス様の死は彼女を限りなく悲しませました。彼女の悲しみの原因は死です。人はいくら元気で能力があるとしても結局死ぬという事実の前では悲しくなります。死はすべてのことを無にし、すべての価値を否定し、すべての存在を抹殺してしまいます。ですから、復活されたイエス様に出会わなければ根本的に悲しい人生の問題を解決することができません。信仰生活をしながらも心の奥底に悲しい問題のために感謝がなく、むしろ心が暗くなっている時があります。暗く見える現実の問題のためにつぶやいたり、ため息をつく場合もあります。しかし、いくら大きい問題でも復活信仰を持って考えてみると何の問題にもなりません。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものだからです(ローマ8:18)。マリヤは誰よりもイエス様を愛し、福音のみわざのために熱心に働きました。しかしよみがえられたイエス様に出会わなかった時、悲しい信仰生活をするしかありませんでした。ではイエス様は悲しんでいるマリヤをどのように助けてくださいましたか。

 14節をご覧下さい。マリヤは御使いと話し合ってから、うしろを振り向きました。すると、イエス様が立っておられるのを見ました。しかし、彼女にはイエス様であることがわかりませんでした。彼女は十字架につけられたイエス様ばかり考えていたので、目の前にイエス様が立っておられたのに分からなかったでしょう。あるいは涙のためによく見えなかったかも知れません。イエス様はこのような彼女に言われました。「なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。」この御言葉はもう泣く必要がないのになぜ泣いているのかという質問です。マリヤは今泣くべきではなく、喜ぶべきであるのに、泣いていました。人はしばしば喜ぶべき時に喜ぶことができず、悲しむ時ではない時に悲しむ時があります。この時のマリヤはまさにそうでした。ですから、主は、「なぜ泣いているのですか。」と言われたのです。

 しかし、彼女はイエス様さえも園の管理人だと思って言いました。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」その時、イエス様は彼女に「マリヤ。」と彼女の名前を呼ばれました。これは聞き覚えのある御声でした。これはマリヤをよく知ってその羊の名前を呼ばれる良い牧者イエス様の御声でした。この御声は十字架につけられる前も、よみがえられた今も少しも変わらないイエス様の愛の声でした。何よりもこの御声は死の力に打ち勝ち、よみがえられたイエス様の御声でした。この御声は彼女の涙を拭い取ってくださる御声でした。マリヤはこの御声を聞いた時、やっとイエス様だと分かりました。それで彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生。)。」とイエス様に言いました。よみがえられたイエス様に出会った時、マリヤの涙は止まり、悲しみは喜びに変わりました。よみがえられたイエス様に出会う時に悲しい人生の問題が解決されます。

 17節をご覧下さい。イエス様は彼女に言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」と告げなさい。」マリヤはイエス様から離れたくありませんでした。しかしイエス様は彼女に兄弟たちの所に行って、このすばらしい主の復活を知らせる使命を与えてくださいました。ここでイエス様は弟子たちのことを兄弟と呼んでくださいました。同じく主は私たちを選び、兄弟と呼んでくださるのです。主が私たちをすばらしい主の復活のメッセージを伝える器として選び、さらに兄弟と呼んでくださるとは何と大きな恵みでしょうか。マリヤはすぐに主の命令に従って弟子たちのところに行って、イエス様のよみがえりを証ししました。18節をご覧下さい。「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げました。彼女の証しは喜びと確信と希望に満ちていました。マリヤがよみがえられたイエス様に出会った時、悲しみは喜びに変わり、絶望は希望に変わりました。彼女はこれ以上悲しみのマリヤではなく喜びのマリヤとなりました。

 

?。弟子たちに現われたイエス様(19ー31)

 

 一方、弟子たちは何をしていましたか。19節をご覧下さい。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて戸をしめていました。男らしさはその勇気にあります。しかし、弟子たちは恐れのために何もできず、部屋に閉じこもっていました。恐れが生じると頭の回転が止まり、働く意欲も失ってしまいます。また、恐れは心の扉をしめてしまうので、自分だけの世界に落ち込んでしまいます。恐れが生じると心が狭くなり、声も小さくなります。考えることも自己中心的になります。それで、恐れのために能力があるのにもかかわらず、無気力になっている場合もあります。まさに弟子たちがそうでした。イエス様は恐れている弟子たちをどのように助けてくださいましたか。

 第一に、平安を与えてくださいました。よみがえられたイエス様は恐れおののいている弟子たちのところに来られ、彼らの中に立って言われました。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエス様は、その手と脇腹を彼らに示されました。その手とわき腹には私たちの罪と咎のために十字架につけられた傷跡が鮮明に残っていました。私たちのために十字架上で御血を流されたそのイエス様がよみがえられて弟子たちに平安を与えられたのです。弟子たちは、主を見て喜びました。人々はお金や権力など、目に見えるものを確保して置かなければ不安になります。ある人は自分のポケットの中にお金が入ってなければ何だか不安になって外出ができないと言います。しかし、お金があっても罪と死の問題が解決されない限り、本当の平安はありません。大抵、相続財産のことで家族が争うのは金持ちの家です。物質と権力は争いの種になる場合が多いのです。真の平安は私たちの罪のために十字架につけられ死なれ、また、死者の中からよみがえられたイエス様だけが与えてくださる神様の賜物です。

 第二に、世界宣教の使命を与えてくださいました。21節をご覧下さい。イエス様はもう一度、彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」イエス様は弟子たちを全世界に遣わしながら世界宣教の使命を与えてくださいました。それでは弟子たちが果たすべき使命の内容は何でしょうか。23節をご覧下さい。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」弟子たちが果たすべき使命の内容は罪の赦しのみわざです。人々には多くの問題があるようですが、その根本問題は罪の問題です。罪のために多くの家庭が破壊され、子供たちは苦しみ、うめいています。イエス様はこの罪の問題を解決するためにこの世に来られ、十字架につけられ死なれ、よみがえられました。そして誰でもイエス様を信じるなら罪と死の勢力から救われ、永遠のいのちを得るようになります。ところが、この喜びの知らせ、つまり、福音を伝える人が必要です。イエス様は弟子たちを復活の証人として立てられました。ですから、弟子たちは罪が赦され、人が生かされるこの福音を宣べ伝えなければなりません。この使命こそ、この世の中で最も急ぐことで、最も大切なことです。では弱い弟子たちがどうやってこの驚くべき使命を果たすことができますか。

 22節をご覧下さい。イエス様は弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」聖霊は使命を果たせる力の源です。聖霊を受ける時、恐れが消え去ります。彼らが聖霊を受ける時、力を受けて大胆に福音を宣べ伝えることができます。私たちも聖霊によってこの国のキャンパスの学生たちに大胆に福音を宣べ伝えることができます。

 24?31節をご覧下さい。十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエス様が来られた時に、彼らと一緒にいませんでした。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言ったら、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言いました。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいました。戸が閉じられていましたが、イエス様が来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われました。それからトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」すると、トマスは答えてイエス様に言いました。「私の主。私の神。」イエス様は彼に言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」イエス様はトマスのために再び来られ、彼に復活の信仰を植え付けてくださいました。信じないということはやさしいことです。信じることが本当に難しいことです。信じないことは赤ん坊でもできます。信じる者になりなさいという言葉は、トマスに対してだけでなく、同じように疑いやすい私たちに対しても言われた言葉だと思います。トマスはその後、疑い深い者から確信に満ちた主のしもべとなってインドの宣教師として働き、そこで殉教したそうです。30,31節は弟子たちが福音書を記録した目的が記されています。それは、イエス様が神の子キリストであることを、信じて、イエス様の御名によっていのちを得るためです。

 

 結論、イエス様は墓の中に葬られましたが、墓を破ってよみがえられました。よみがえられたイエス様は悲しんでいるマリヤに喜びを、恐れている弟子たちに平安を、疑っているトマスに確信を与えてくださいました。私たちも困難や苦しみや悲しみの中に立たされ、そこが墓場のように思われる時があります。しかし、復活の主イエス・キリストのゆえに、墓が破られ喜びと平安、確信に満ちた信仰生活をすることができます。墓を破られた主が私たちとともにおられる時、どんなに希望のない世界に置かれても、そこに閉じ込められることはありません。よみがえられた主によって私たちは圧倒的な勝利者となるのです。私たちが復活信仰によって弟子養成、世界宣教のみわざに励むことができるように祈ります。よみがえられた主を讃美します。