2001年ヨシュア記第3講

ヨルダン川の水をせきとめ

御言葉:ヨシュア記3

要 節:ヨシュア記3:13「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

今日の御言葉はヨシュアが数百万のイスラエル人とヨルダン川を渡る事件です。神様の約束に従ってカナンの地に入ろうとするイスラエル人の前に、ヨルダン川が障害として立ちふさがっていました。四十年の荒野の旅が終って、今、エリコ偵察から帰って来た斥候たちから、すでにエリコの人々に動揺が起こっているという知らせを聞いて勇気百倍したイスラエル人は、橋のないヨルダン川という難関に直面しました。しかし、その難関は無益なものではありませんでした。神様はイスラエル人が難関を乗り越えることによって神様がどんな方であるかを知り、神様に対して正しい姿勢を持つことを願われました。イスラエル人と同じく私たちも人生の中で難関に直面する時があります。神様は私たちがその難関を乗り越えることとそれによって神様がどんな方であるか知ることを願っておられます。今日の御言葉を通して私達の前に立ちふさがっているヨルダン川を渡るためにどんな姿勢を持つべきかについて学ぶことができるように祈ります。

第一に、朝早く起きなければなりません(1)。1節をご覧ください。「ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。」斥候の報告を聞いたヨシュアは、翌朝早く、ヨルダン川の川岸まで行って、そこで三日宿営します。ヨシュアは神様がカナンの地を与えてくださると約束したので安逸に陥っていませんでした。彼は神様が与えてくださった地を所有するために朝早く起きました。彼が朝早く起きたのは、霊的に目を覚まして神様の御前で全身全霊を尽くしたことを意味します。彼は朝早く起きて神様の御前に出て行き、ひざまずいて祈りました。ヨシュアはこの日だけ朝早く起きたのではありません。6:12、7:16、8:10節にもヨシュアが朝早く起きたことが記されています。彼は神様から委ねられたカナンの地を占領する使命のために朝早くから最善を尽くしました。

ヨシュアだけではなく神様に用いられた偉大な主のしもべたちは朝早く起きて朝の時間をよく活用しました。詩篇119:147、148節で著者は「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。」と言っています。イエス様もこの世に来られ福音を宣べ伝える時に朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから一日を始められました(マルコ1:35)。ことわざに「朝早く起きる鳥が虫を取る。」とあります。朝遅く起きて慌てながら一日を始めることと朝早く起きて主に祈ることから一日を始めることとはかなり違います。神様は朝早く起きて祈る人に目を留められ祝福してくださいます。ですから、人生の成功と失敗は朝の時間にかかっていると言っても過言ではないでしょう。朝早く起きて主との霊的な交わりをする時に勝利の人生を送ることができます。朝早く起きて祈る人は直面した難関を乗り越えることができます。私たちがヨシュアのように朝早く起きて祈ることによって私たちの前に立ちふさがっている難関を乗り越えることができるように祈ります。

第二に、神様の導きがなければなりません(2-4)。いくら朝早く起きても神様の導きがなければヨルダン川を渡ることができません。ヨルダン川は北のヘルモン山から南の塩の海まで流れる川です。ヨルダンという名前は「永遠の川」あるいは「流れが速い川」という意味から来たそうです。イスラエル人は今からこの川を渡らなければなりません。それも軍隊だけではなく、女、子供、老人をも含む大人数が川を渡らなければなりません。神様の導きがなければこんな人数がヨルダン川を渡ることは不可能なことです。それでは神様はどのように彼らを導いてくださいましたか。2-4節をご覧ください。三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じて言いました。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」主の契約の箱は主の御臨在の象徴なので主の契約の箱が先頭に立つのは、主が彼らを導いてくださることを意味します。主の戦いにおいては、いつも主が先立たれます。そして、民は主の導きの通りに進まなければなりません。ところが、主の契約の箱とイスラエル人との間には、約二千キュビトすなわち、約九百メートルの距離をおいて進むようにしました。なぜでしょうか。それは民が神様への恐れをもって進むべきであることを教えてくれます。イスラエル人は神様が導いてくださることを信じて神様への恐れを持って進まなければなりません。すると、主は彼らの行くべき道を知らせてくださいます。「それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」イスラエル人は今までこの道を通ったことがありません。ですから、彼らには不安と恐れがあったでしょう。もし彼らが何度もヨルダン川を渡ったことがあればそれほど不安や恐れはなかったでしょう。彼らはどうやって立ちふさがっているヨルダン川を渡ればいいかわかりませんでした。彼らはヨルダン川を渡ったこともないし、舟も持っていませんでした。子供たちは今まで通ったことがない道を行こうとすると不安を感じます。しかし、親と手をつないで行くと安心してその道を通ります。そのように神様は彼らの親となられ、彼らを導き、彼らを守ってくださいます。イスラエル人は初めて行く道ですが、主の契約の箱が先頭に立ち、そのうしろを進んで行けばいいのです。私たちが主の御言葉に聞き従うと迷わず正しい道に行くことができます。

私たちの人生の旅路においていつも不安と恐れを感じるのは、自分が進むべき道を知らないからです。ヤコブは次のように言いました。「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」(4:14)。また、箴言27:1節は言います。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」私たちは明日何が起こるか知らないので将来のことを考えると不安と恐れを感じます。アブラハムが75歳の時に生まれ故郷を出て、神様が示す地へ行くことはやさしいことではなかったでしょう。不安と恐れがあったと思います。しかし、彼は信仰によって、主の御言葉に従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました(ヘブル11:8)。主に頼る時、心強くなります。なぜなら、主は私の進むべき道を知っておられるからです。主は私のよい牧者となられ、一番良い道に導いてくださいます。ですから、難関に直面した時に主から目を離さないで主の導かれることが大切なことです。信仰の戦いはいつも新しい道であるから、神様の導きがなければ、人間の知恵と力によっては迷うのみです。私たちがすべてのことを主にゆだねて主に導かれるように祈ります。

第三に、身をきよめなさい(5)。5節をご覧ください。ヨシュアは民に言いました。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」イスラエル人にとって一番急ぐ問題はヨルダン川を渡ることでした。彼らは岸まで溢れるヨルダン川を見ながらどうすればこの川を渡ることができるかをひたすら考えていたでしょう。しかし、神様はまずイスラエル人に身をきよめなさいと言われます。

私たちは進学問題、就職問題、職場問題、学校の問題、アルバイト問題など直面している現実問題が早く解決できることを望んでいます。私たちが仕えている兄弟姉妹達がよく成長することを願っています。しかし、神様は問題を解決する方法や戦略よりまず私たちの身をきよめることを願っておられます。私たちは「私の生活は神様の御前で正しいのか。」「私は恥じることのない働き人として、自分を神様に捧げているのか。」「私は神様の子供らしく生きているのか。」「私は神様に使われるきよい器、聖霊に満たされた器となっているのか。」と常に自分を顧なければなりません。私たちが優先的にやるべきことは神様の御前で自分の身をきよめることです。きよめることは罪を捨てて聖なる生活をすることです。具体的には御言葉に自分を照らして見て自分の罪を悔い改めることです。ヨシュアはヨルダン川という障害を前にしてまず心をきよめるようにしました。

神様は私たちとともにおられ私たちのうちで不思議を行われます。5節をご覧ください。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」神様はイスラエル人のうちに不思議を行われると言われました。イスラエル人は主が行われる不思議を期待しながら眠れなかったでしょう。不思議を行われる神様を考える時に彼らは力と喜びが生じたでしょう。私たちが神様を信じて生きることは不思議を行われる神様を期待して生きることです。私たちは主に祈っていることがあります。今年ぜひ聞いてもらいたい祈り題目があります。アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。神様は彼の望み通りに不思議を行われました。それは彼がおよそ百歳になって時に、子供を与えてくださったことです。それだけではなく彼をあらゆる国の人々の父とならせてくださいました。私達が神様を信じるならそのような不思議を期待しなければなりません。しかし、私たちが神様に用いられる器になってなければ神様が使うことができません。私のうちに不思議を行なうことができません。アメリカで奴隷の問題で戦争が起こった時に、リンカン大統領に補佐官が質問しました。「閣下。この戦争で神様は私たちの側に立ってくださるでしょうか。」すると、リンカンは次のように答えたそうです。「神様が私たちの側に立ってくださるかどうかで悩んではいけない。私たちが神様の側に立っているかどうか、それが問題なのだ。」神様が私の側に立っておられるかが問題ではなく私が神様の側に立っているかが問題です。私が神様に使われる器になっているかどうかが問題です。?テモテ2:21、22節は次のように言っています。「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」神様の家には様々な器があります。金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。神様はこのような様々な器をふさわしいところに使います。器の存在目的は主人に尊く使われることです。それが器として幸せなことです。ですから、自分は小さい器であると自虐する必要がありません。それは神様の主権の属することです。神様は格好悪い器でも小さい器でも尊く使うことができます。しかし、神様が使うことができない器があります。それは罪によって汚れた器です。たといそれが金の器や大きな器だとしても汚れているなら使うことができません。しかし、罪によって汚れたとしても絶望する必要はありません。なぜなら、いくら罪によって汚れた器でもイエス・キリストの尊い血によってきよめられれば尊く使うことができるからです。イエス・キリストの血はどんな罪もきよめる力があります。私たちはイエス・キリストの血によってきよめられ、神様に尊いことに使われる器となるために励まなければなりません。

第四に、神様の力を信じなければなりません(6-17)。ヨシュアは祭司たちに命じて契約の箱をかつがせ、先頭を進み行かせました。そして、ヨシュアはイスラエル人に言いました。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。」(9,10)。ヨシュアは民を呼んで、神様が今からしようとしておられることを告げます。その大いなるみわざにより、彼らは、主なる神が生ける神であることを知るようになります。主が生きて働いておられる生ける神であることを知ることは大切なことです。私たちは神様が私たちのうちに生きて働いておられることを知らなくて現実問題に縛られ悩む時があります。また、神様から目を離して人に頼るので自立信仰を持つことができず、受動的になる場合が多くあります。私たちのうちに神様が生きて働いておられることを考えてみてください。その時、私達は些細なことに縛られず、神様を仰ぎ見るようになります。私たちとともにおられる神様を仰ぎ見る時、無益な葛藤から離れて真の平安を得ることができます。さらに神様が私に願われることが何かを考えて神様に喜ばれる者となるために励みます。使徒パウロは些細なことで互いに葛藤していたピリポの聖徒達に次のように勧めました。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2:13,14)。神様は全地の主です。世界が神様に属しています。私たちがこの神様を信じて頼る時、神様は私たちのうちに働いてくださいます。

11,12節でヨシュアは神様がヨルダン川をせきとめられることを信じて民に具体的な準備をさせます。ヨルダン川は水深が3-4メートル、幅が30メートルくらいです。この出来事があったのは四月上旬です。四月の刈入れから五月にかけて、ヨルダン川は、ヘルモン山の雪解けと、春の雨とで、岸まであふれるのが普通でした。ですから、イスラエル人が川を渡るためには舟を造ったり、橋を造ったりしなければなりません。しかし、このような方法によっては60万人の成人した男性と子供や女性や老人や数多くの家畜が渡ることは不可能なことでした。彼らがヨルダン川を渡るためにできることは何もありませんでした。私たちにも渡らなければならないヨルダン川があります。学生には勉強が、職場の人には職場の生活があります。しかし、このような外的なものより私たちのうちにあるヨルダン川がもっと問題になります。罪を楽しむ心、使命なしに安逸に暮らしたい心があります。また、私達が究極的には神様の国に入るために必ず死の川を渡らなければなりません。このようなヨルダン川は信仰がなければ溺れて死ぬしかありません。ヨルダン川はただ信仰によって渡ることができます。

13節をご覧ください。「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」この御言葉は「祭司たちが、ヨルダン川の前にとどまると、ヨルダン川の水がせきとめられるので、その後渡りなさい。」という意味ではありません。水が岸まであふれていますが、信仰によってヨルダン川の水の中に入ると水がせきとめられるということです。すなわち、神様の栄光を見せてくれるなら信じるということではなく、信じるなら神様の栄光を見るということです。人々は「見せてください。そうすれば、信じます。」と言います。しかし、神様は「信じるなら、見せてあげる。」と言われます。何の解決の兆しも見えなくても主を信頼し、信仰によって進めば神様が道を開かれ、すべての問題を解決してくださいます。

民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいました。岸まであふれるヨルダン川の水は彼らを飲み込めるような勢いでしたが、彼らはただ信仰によって進みました。その時、どんな奇蹟が起こりましたか。15、16節をご覧ください。「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。」アダムから塩の海まではおよそ33キロメートルの距離です。岸いっぱいあふれていたヨルダン川の水が33キロメートルも乾いた地になりました。イスラエル人に出エジプトの時と全く同じ奇蹟が起こりました。主の契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸った時、奇蹟が起こりました。そして、200万人を超えるイスラエル人はヨルダン川の中に設けられた道を賛美しながら渡りました。

ヨルダン川がせきとめられる奇蹟はどうやって起こりましたか。神様の御言葉に絶対的に聞き従った時に起こりました。ヨシュアは神様の御言葉を信じてその御言葉に聞き従いました。そして、民にも信仰を持つように助け、神様の御言葉に聞き従うように助けました。その時、彼らは奇蹟を体験することができました。神様の御言葉に聞き従って見なければ神様の力を体験することができません。神様の御言葉に絶対的に聞き従う人だけがヨルダン川を渡ることができます。

それでは神様がそのような大きな奇蹟を通してイスラエル人に教えようとしたことは何でしょうか。第一に、主はイスラエル全体の見ている前で、ヨシュアを大いなる者とされました(7)。ヨシュアが主の契約の箱をかついだ祭司たちに川の中に入るように命じた時、民は心配していたでしょう。「いったい何をしようとするのか。私たちを皆殺しにしようとするのか。」ところが、祭司たちがヨシュアの命令に従った時、ヨルダン川の水はせきとめられました。この事件によって神様はヨシュアをイスラエル人の上に指導者として堅く立てられました。

第二に、神様はイスラエル人にカナンの地を与えてくださることを信じるようにされました。9,10節を見ると、ヨルダン川の水がせきとめられる奇蹟を通して神様はご自分が生ける神であり、全地の主であることを知らせてくださいました。ヨシュア記1章で神様はヨシュアにその地に対する約束の御言葉を与えてくださいました。2章では遊女ラハブの言葉を通してその地に対する確信を与えてくださいました。3章ではヨルダン川の水がせきとめられる奇蹟によってその地に対する確信を与えてくださいました。神様はまず彼らに信仰を与えてからその地を与えてくださいました。なぜそのようになさったのでしょうか。信仰がなければ民は最後まで前進することができないからです。信仰がなければ障害に出会うとうしろに退くようになります。40年前イスラエル人は約束の地を目の前にしていましたが、信仰がなくて入ることができませんでした。ですから、彼らにその地を神様が与えてくださったという信仰がある時、続けて前進することができます。私たちの前にあるカナンの地も信仰がある時に前進することができます。信仰生活の時に信仰がなければうしろを振り向くようになります。私たちが目指して進むべきカナンは神の国です。その国に対する確信がある時に私たちはどんな障害に会っても信仰の道を歩むことができます。

私たちは約束の地に入ろうとする時にヨルダン川のような障害に会って絶望したり、落胆したりしやすいです。しかし、私たちが信仰によって進む時に主は道を開いてくださいます。私たちはその障害によって生ける神様、全地の主である神様の力を体験することができます。私たちが現在直面しているヨルダン川を信仰によって渡ることができるように祈ります。そのために朝早く起きて祈りましょう。神様にすべてのことを委ね、神様の導きに従いましょう。そして、自分をきよめることによって神様に用いられるきよい器になりましょう。すると、私達はどんな障害も乗り越えて勝利の人生を送ることができます。