1998年 サマーバイブルキャンプ

御言葉:ヨハネ19:1―30

私たちの罪のために死なれたイエス様

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。

そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」(30)

昨日第2講では、罪に定めないイエス様について学びました。それでは今日、第3講では、「私たちの罪のために死なれたイエス様」について学んでいきたいと思います。

ところで、私たちには平等に与えられているものがあります。何だと思いますか? それは「死」です。 一度生まれた人間は、必ず、死ぬようにされています。例えばそれは病気であったり、思わぬ事故によるものだったりします。しかしイエス様の死は、特殊な死でした。なぜならイエス様は、私たちの罪のために、十字架で死なれたからでした。このお方の死によって、私たちの魂には救いが与えられるようになりました。そして永遠なるいのちの世界へ導かれるようになったのです。まさに主は十字架の死によって、全人類の救いの御業を完了されました。それではこの時間、私たちの罪のために死なれたイエス様について学んでいきたいと思います。どうか十字架の御前で罪が照らされますように。悔い改めて、神の赦しをいただきますよう祈ります。

?.イエス様の苦しみ(1?16)

ヨハネの福音書18章には、イエス様が宗教指導者たちに捕らえられたことが記されています。そして夜どうし尋問されながら、神を冒涜した罪で死刑宣告を受けられました。しかし当時ローマの植民地にあったユダヤ人には、死刑を執行する権限がありませんでした。そこで宗教指導者たちはイエス様をローマ総督ピラトに引き渡しました。この総督は主を尋問しましたが、何の罪も見つけることができませんでした。ですから当然、無罪を宣告して釈放すべきでした。ところが彼は群衆を恐れました。

1節をご覧ください。「そこでピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。」ここで、むち打ち、とありますが、この刑はローマ市民には禁じられていました。あまりにも残酷だったからです。このむちには六つの革ひもがついていて、その先端には鉛や青銅、先のとがった骨などがついていました。それでたたかれれば、たちまち皮膚は破れ、時には肉や内臓まで飛び出すことがあったと言われています。それを、何の罪も認められないイエス様が、120回お受けになられました。もはや肉は飛び出し、全身は血まみれになっておられました。兵士たちはいばらの冠をかぶらせました。そして紫色の着物を着せてあざけりました。私たちはこの指先にとげ一つ刺さっただけでどれほど気になることでしょう。それを、主の頭には、いばらが張りめぐらされました。食い込んだとげの先からは、いく筋もの尊い御血が流されました。

一体こんな王様がほかのどこにいるというのでしょうか。ピラトはこの姿を群衆に見せ、それで満足させようとしました。あるいはいくらか同情するかもしれない、と考えました。ところが、祭司長や役人は、イエス様を見て激しく叫びました。「付けろ、付けろ。」「十字架に付けろ。」「十字架で殺せ。」 群衆は狂気に満ちていました。すべての者の罪の声が、神の御子を殺そうと叫んでいました。総督ピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとしました。しかしユダヤ人たちはピラトの弱点を利用して言いました。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」 結局彼はイエス様を、十字架に引き渡しました。

?.イエス様の死(17?30)

(1)十字架を背負われたイエス様(17)

17節をご覧ください。「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」 当時囚人は、自分の十字架を処刑場所まで背負っていくことになっていました。それはもちろん、人々への見せしめの意味がありました。そして囚人にとっては、更に肉体的、精神的な苦痛を増やしました。しかしイエス様の十字架は、計り知れない特殊な重みを含んでいました。なぜならそこには、ありとあらゆる人間の、過去と現在、未来に渡るすべての罪が込められていたからでした。この重荷を、主は背負われました。十字架は、歩くたびに、むちで裂かれた肉体に食い込んでいきました。そして、体中から御血がほとばしり、赤い足跡さえ残していきました。汗も血も目に入り込み、まわりはぼやけていきます。倒れては起こされ、また倒れては十字架をかつがれました。もうろうとした意識の中、主は何を思われていたのでしょうか。イエス様は祈っておられました。呼吸も苦しくあえぎながら、ひたすら救いの御業が為し遂げられることを祈っておられたのでした。こうして負うべき十字架を負われ、苦難の道を歩いて行かれました。

(2)十字架に付けられたイエス様(18?22)

18節をご覧ください。「彼らはそこでイエスを十字架に付けた。」 現代においては、死刑そのものが見直される方向にあると言われています。この日本では電気ショックによるものがほとんどです。それもできるだけ早く死ねるように配慮が為されています。それでは、イエス様の付けられた十字架刑とは、どんな刑罰だったのでしょうか。それは、生きたままの囚人が手足に釘を打ちつけられました。そしてぶらさげておかれる、という実に単純な方法がとられました。しかしながらこの刑罰は、いかに囚人を懲らしめて死なせるか、考え出された死刑方法だったのです。長ければ2、3日、囚人は釘にぶらさがりました。体は自分の重みで裂かれていきます。呼吸するだけで肉がちぎれるようなのです。このため、ローマの市民権を持っている者は、十字架に付けてはならないと決められていました。しかも異邦人でさえ、よほど極悪な犯罪人かローマ皇帝にそむく政治犯でなければ、この刑に処せられることはありませんでした。ところがイエス様は、何の罪も認められないまま、この刑に処せられたのです。

やがて、主はゴルゴタの丘にたどり着かれました。そして両腕を開かれ、十字架に仰向けになられました。兵士は釘を突き立てます。「カーン。カンカン。」 激しいうめき声、気絶しそうな痛みが全身をめぐりました。「カーン。カンカン。」 まさにこの時、罪と死の勢力が十字架につけられたのです。 これほどの苦しみを、なぜイエス様が受けなければならなかったのでしょうか。 それは、私たちの罪のためでした。それほど人間の罪がひどく大きかったことを意味していました。弟子のひとりシモン・ペテロは、その時、苦しみの意味がよく理解できませんでした。しかし後で悟り、次のように語りました。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(?ペテ2:24) そしてこれらは、旧約の時代、預言者イザヤによって、預言されていました。 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)  19節をご覧ください。 ピラトは罪状書きを書いて十字架の上に掲げました。そこには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と記し、政治犯として処刑されたことを示しました。またそれは、ユダヤ人のためにヘブル語、ローマ兵のためにラテン語で書かれました。そして当時広く使われていたギリシャ語でも書かれました。このように、この罪状書きは誰にも分かるように記されていました。そのことは、すなわち、イエス様がすべての人々の王であられることを証ししていたのです。

(3)「完了した。」と言われたイエス様(23?30)

兵士たちはイエス様を十字架に付けると、その下で何をしていましたか。 23、24節をご覧ください。彼らは着物を分け合い、下着にはくじを引こうと夢中になっていました。この兵士たちは、目先のことに心が奪われていました。そして、すぐ上に誰がおられるのか目が向けられませんでした。ところが十字架のイエス様は、彼らの目の前におられたのです。 このような姿は、そのまま、今日の私たちを照らしていました。人は誰でも罪による苦しみから逃れることはできませんでした。しかしその苦しみが大きいため、そこから逃げようとするのです。耳の痛い話には顔をそむけます。傷つくことを恐れて、本当の自分を見つめようとはしません。ただ楽しいこと、面白いことを求めます。あるいは、自分は自分、人は人、自分さえよければそれでいいのです。 ところが、本当にそれで満足しているのでしょうか。 何ともいえない安らぎと喜びの中で生きることができるでしょうか。 それは違うはずです。 罪は私たちの心を騒がせます。親しい友達さえ妬むようにさせます。ひそかに自分の体で楽しむようにさせます。誰も愛してくれない、と孤独感を植え付けます。人と比較して、喜んだり落ち込んだりさせます。うわべを飾ったり、過剰な自意識を植え付けます。 私たちは罪に支配されて、実は苦しんでいます。傷ついています。 そしてイエス様は、このような私たちのために十字架上で祈られました。「父よ。 彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34) イエス様は赦しておられました。イエス様は私たちを赦しておられました。 どうしても罪を犯してしまう、その弱さをご存じでした。そしてイエス様は、私たちが主の元へ立ち返るのを待っておられました。ところがあの兵士たちのように、自分で何をしているか、気が付かないのでした。 私の罪がイエス様を十字架に付けました。そして私たちの罪のために、イエス様は十字架で死なれました。 目を上げて見てください。  十字架のイエス様は目の前におられます。どうかこの時間、イエス様を、見上げる時とされますよう祈ります。十字架のイエス様は、すでに私たちを赦しておられます。  主の御もとには、ほかに、イエス様の母と母の姉妹と、クロパの妻マリヤ、マグダラのマリヤが立っていました。そして主は、そばに立っていた弟子のひとりに、母親のことを頼まれました。こうして耐えがたい苦しみの中、母親の痛みを担われました。

その後イエス様は、すべてのことが完了したのを知られました。そして聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われました。 それでは、十字架上のイエス様は、この世の最後に何と言われましたか。 30節をご一緒に読んでみましょう。 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」 イエス様は「完了した。」とおっしゃいました。 ではここで、「完了した。」という御言葉にはどんな意味がありますか。

第一に、救い主への旧約の預言が、すべて成就されたことを意味していました。ここで、旧約聖書全体には救い主に対する預言に満ちていました。この約束と預言とがイエス・キリストによって成就されたのです。まさにイエス様の生涯は、旧約の預言を成就する生涯でした。

第ニに、人類の救いの御業が完全に為し遂げられたことを意味しました。「完了した。」という言葉には、終わった、とか、完成した、という意味があります。ですから父なる神様の御計画が、これで完成し、終わったのだ、ということを示しました。すなわち、十字架のキリストの死によって、救いの御業が完了されたのでした。人は誰でも罪を犯せばそれを償わなければなりません。そして聖書で言われる罪の代価は「血」によるものでした。血を流していずれは死を迎えることでした。なぜならすべての肉のいのちは血の中にあるとされているからです。(レビ記17:11) そこで旧約の時代には、やぎと小羊の血を流して、犯した罪を償いました。このため、人間は罪を犯すたびに贖いの祭壇を気づかなければなりませんでした。しかし父なる神様は、世の罪を取り除く神の小羊をお与えになられました。そしてただ一度、十字架上で尊い御血を流されました。これにより、永遠の贖いを為し遂げられたのです。すなわち、イエス・キリストの汚れない御血が、私たちのすべての罪を洗い聖めてくださったのです。

それでは救われるために、一体何をすればよいのでしょうか。 神様はどんな良い行ないも望んではおられません。神様が喜ばれるのは、十字架上のイエス様を見上げることです。そうすれば、主ご自身が罪を照らしてくださいます。そして照らされた罪を認めることです。イエス様がその罪のために十字架で死なれたと信じることです。信じて自分のことばで罪を言い表すのです。 するとどうなりますか。 これまで苦しめられた罪から、解放されるようになります。心の底から自由を感じます。傷もだんだん癒されていきます。そして神様から赦されたことを確信するようにされます。私たちは罪と死の勢力から救い出され、恵みから恵みの世界で生きるようにされるのです。何故ならイエス様が救いの御業を完了されたからです。 どうか主の御もとへ出て行ってください。十字架のイエス様を、心にお迎えしましょう。このお方を信じれば救われるのです。永遠なる赦しの世界が、目の前に広がっています。

第三に、イエス様はご自分の使命を最後まで担われました。実に十字架の死に至るまで、苦難の道を歩まれました。それにより、父なる神様の御栄光を現し、勝利を治められました。主の十字架は、勝利の十字架、栄光の十字架でした。

ここに、神様の愛が示されました。父なる神様は、ご自分のひとり子を遣わされるほどに、この世を愛されました。そして御子なるイエス様は、あざける者たちのために苦難の道を歩まれました。しかも十字架でいのちを捨てられるほど、私たちを愛してくださいました。それは人々が初めて目にした、神の愛による死でした。やがてこのお方の愛に触れた者は、神様の愛によって生きるようにされました。みなさんは第二次世界大戦中、アウシュビッツで何が行われたかご存知ですね。そこではポーランド人やユダヤ人に強制労働がさせられました。そして衰弱していく者たちは次々とガス室へ送られました。ある日、鉄線を越えて脱走しようとする人々がでました。それに対しナチは特別に、飢餓死という残酷な刑を与えました。するとひとりの神父が前に出ました。彼は、おびえて泣いている脱走犯のために身代わりとなって死ぬことを願い出たのです。自分には妻も子どももいない、直接悲しむ人がいないからこの人を助けて欲しい、そう言ったそうです。やがて飢えてみんな死んでいきました。が、どういうわけかこの神父さんだけ生き残りました。結局ナチは彼に、石炭酸の注射をして死なせました。 ここで、この人が特別に長く生き残ったことを取りあげたいのではありません。何が彼をそうさせたのか、それを問いたいのです。 十字架のキリストの愛は、確かにこの神父の中で生きておられました。 これらを一部始終見ていた別の囚人は言いました。 「世界はどうしてこんなに美しいのだろう。」と。

神様の愛は奇蹟を生み出しました。例えばです。例えば非常に自己中心的に生きてきた人がいるとします。そんな人が、心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛したいと願い始めたら、それは奇蹟にも近いと言えませんか。 実は私がそんなひとりでした。 幼い頃から家庭に争い事が多くありました。いつの頃からか母親にさえ愛されていないと思うようになりました。だんだん、自分の道は自分で切り開くのだと考えるようになりました。私はひたすら自分のために生きました。しかしどうにもならない孤独感に苦しみました。いつか自分は狂ってしまう、と恐れるようになりました。精神科医も4人変わりました。そんな中、大学生になってUBFに導かれるようになりました。そして聖書勉強をしながら一言の御言葉に出会ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」 気が付くと十字架上のイエス様が私のために祈っておられました。そしてその御手に釘を突き刺したのが、母に対する憎しみであることを知るようにされました。それなのに、イエス様は何も言わずに私のことを赦してくださいました。十字架上で苦しまれながら、赦してくださったのです。こうして私はこのお方を、生ける神の御子キリストと告白するようにされました。神様との関係性が回復されると、母との関係、また家族との関係が回復されるようになりました。また、あれほど私を苦しめていた、狂ってしまう、という恐れはまったく消え失せました。何故なら十字架上のイエス様が、狂った私さえ変わらずに愛してくださると信頼できたからでした。私は神様を愛するようにされました。 ところが、今回、「完了した。」という御言葉の前で、罪が照らされるようになりました。すでに救いは完了されたのに、まだ罪に支配されていました。それは、自分のために生きる、ということでした。このため、自分とは合わないと思う人を避けようとしました。私はひとりのクリスチャンを、心から避けるようになっていました。彼女とは、聖書勉強、所感発表、所感闘争、しかも生活の場所も一緒でした。共に過ごしながら、特に、自分は静かにしていたいのに、次から次へと話されることに不快感を持つようになりました。ついこの間も、職場から帰ってくると、彼女がいました。疲れ切って早く寝ようとすると、食事はしたのかどうか、どこかに寄ってきたのか、いつもこの時間帯に帰って来るのか、疲れているのかどうか、続けて質問されました。私は耳をふさいで逃げ出したくなりました。何か言葉で思い切り、傷つけたい気持ちに駆られました。しかし、神様はこのような私をご覧になっておられました。そして十字架上のイエス様に、目を向けるようにしてくださいました。彼女が嫌味で話したなら、それはすぐに分かります。しかし彼女が思いやりから話すことさえ、拒んでいました。何故なら、自分のペースがくずされる、と感じたからでした。自分の思う通りに進めようとするからでした。それはまさに、神の御心を離れようとする罪の本性でした。自分勝手な道を行く本性でした。そしてそれがイエス様を、また、十字架に付けるのでした。それでも、神様が赦しの世界へと導いてくださいました。そして悔い改めて、罪を言い表すように助けてくださいました。後で彼女は私のところへきて、ありがとう、と言いました。自分も同じ気持ちを持っていた、と話してくれました。こうして神様が愛の中で、互いに真正面から向き合うようにしてくださいました。そして小さなことでも話し合おうと、心を通わせてくださいました。十字架のイエス様は、こんな愛の奇蹟を私たちの日常に与えてくださいました。彼女を避けていた時、職場に近い教員住宅に住みたいと願う心がありました。今は通勤で90分かかっています。しかし、十字架上のイエス様を覚えて、改めて、教会の近くに住むことを心に決めました。そうしながら生活の場所で、神と隣人とを愛していきますように祈ります。神を愛するから人を愛します。神の任されたキャンパスの姉妹を、主の言葉によって、主の愛によって仕えますよう祈ります。また、神様が7月から、新しい部屋で共同生活をするようにしされました。そして、新しくひとりの姉妹を導いてくださり、感謝します。どうか次々と、多くの姉妹の方々が導かれますように願います。

結論的に、イエス様は私たちの罪のために死なれました。そしてこのお方の死によって、救いの御業が完了されました。主は多くの苦しみを通して、私たちに愛を示してくださいました。まことに神様の愛は、永遠に限りなく完了されているのです。どうかこの時間、十字架のイエス様の御もとへ、出て行く時とされますように。照らされた罪を、認めることができますように。そしてその罪を言い表し、神の赦しをいただきますよう祈ります。