2001年主題講義第28講

王子のための結婚の披露宴

御言葉:マタイの福音書22:1?14

要 節:マタイの福音書22:2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」

 今日の御言葉は天の御国に対するたとえ話です。イエス様は天の御国を王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえています。このたとえには人々を天の御国に招いておられる神様の愛とその招きを拒む人々が受ける裁きについて言っています。神様は天の御国の宴会を設けて人々を招いておられます。「さあ、何もかも整いました。どうぞ救いの宴会にお出かけください。」この時間、私達を招いておられる神様の招きに応じて天の御国の宴会に参加することができるように祈ります。

?。どうぞ宴会にお出かけ下さい(1?7)

 1節をご覧ください。イエス様はもう一度たとえをもって彼らに話されました。これはマタイの福音書21章を背景にしている御言葉です。イエス様は宗教指導者達の心がかたくなになって神様が遣わした預言者達を迫害し、殺し、ついに神様の一人子イエス様も殺そうとすることを悟らせるために二つのたとえを話されました。しかし、彼らは悔い改めるどころかますます心がかたくなになってイエス様を捕えようとしました。それでイエス様はもう一度たとえをもって彼らに話されました。2節をご覧ください。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」王子の結婚の披露宴は王においても民においても大切な意味を持っています。王は王子の結婚を通して後継者を立てることになります。披露宴を一番盛大にして王としての威厳を現わすことも自分の民に好意を施すこともできます。ですから王は心を尽くして結婚の披露宴を用意したでしょう。王室の一流料理人達はおいしい料理を準備しました。ウィーン・フィルハーモニーオーケストラも招きました。世界的テノール歌手のプラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パバロッティ、ホセ・カレーラスを招き、お祝いの歌をお願いしました。王は愛する息子のために盛大に披露宴を用意しました。王は披露宴に招いた人々がみな満足するようにすべてのものを用意しました。8月に寺崎アブラハム牧者とマリヤ宣教師の結婚披露宴がありました。寺崎アブラハム牧者のお父さんはそこで何度も楽器を弾きながら歌を歌いました。私はアブラハム牧者のお父さんが一生懸命に愛する息子や招いたお客たちを喜ばせようとする姿を見ることができました。それでは宴会の用意ができると王は何をしましたか。

 3a節をご覧ください。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしました。

ユダヤでは結婚の披露宴に招く人々に前もって招待状を送ります。時刻は知らせず、準備が整えてから当日にしもべたちを遣わして招きます。ユダヤ人は結婚の披露宴に招かれてから拒むことはありえないことです。もし招いたお客がそれを拒否することは招く人を侮辱することになります。王はすでに招待状を送って王子のための結婚の披露宴があることを知らせました。またすべてのものが用意できると招いておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしました。王子の結婚の披露宴には誰でも参加できるのではありません。ですから王子の結婚の披露宴に招かれたのは大きな恵みであり、特権でした。招かれた人は披露宴に参加し、喜びと幸せを分かち合うことができました。ところが招待しておいた人々の態度はどうでしたか。彼らは来たがりませんでした。彼らはその披露宴に関心がありませんでした。それでも王は寛容と忍耐を持って招き続けました。もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わしました。『お客に招いておいた人達にこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』王は宴会がどれほど盛大であるかを強調してもう一度丁寧に彼らを招きました。王は彼らがぜひその宴会に参加することを望みました。

 このたとえで王は神様です。また、王子はイエス様です。しもべたちは旧約の預言者たち、バプテスマのヨハネ、キリストと使徒達を指します。招待しておいた客はユダヤ人たちや宗教指導者達です。結婚の披露宴は救いの宴会、神の国です。神様は多くの預言者達を遣わして救いの宴会のことをユダヤ人達に知らせました。バプテスマのヨハネを遣わして救い主イエス様の来られる道を整えられました。そして、この救いの宴会はイエス様がこの世に来られたことによってすべてが用意されました。イエス様は「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから。」と言われました。天の御国を結婚の披露宴にたとえたのは天の御国の喜びと幸せを表わすためでした。誰でもこの神様の招きに応じれば喜びと幸せに満ちた人生を過ごすことができます。

 ところが、招かれた人々の反応はどうでしたか。彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者達は、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまいました。王のしもべたちが何度も招くからそれを怒って殺してしまったようです。彼らは王の招待より自分の仕事や商売にもっと関心がありました。彼らは真に大切なものが何であるかを知ろうとしませんでした。イスラエルの歴史を見るとユダヤ人は神様が遣わされた多くの預言者達を迫害し、殺しました。そして神の御子イエス・キリストも殺してしまいました。これは王に対する反逆でした。王は今度こそ多くのお客が来るだろうと思っていました。ところがしもべたちはひどいけがをして戻って来ました。あるしもべたちは殺されてしまったことを聞きました。

 王は彼らをどのようにしましたか。7節をご覧ください。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払いました。これは神様の招きを拒み、神様のしもべたちとイエス・キリストを殺したユダヤ人達に対する神様の裁きに関する警告の御言葉です。この御言葉通りに紀元70年にローマ軍隊によってエルサレムは破壊され、神殿は略奪されたのちに焼き滅ぼされ、町は最後の石にいたるまで破壊されて荒地となりました。その時、百万人以上のユダヤ人達が殺されました。イスラエルは国を失い、1948年独立するまで1900年間も世界をさ迷いながら蔑視を受けるようになりました。これは神様の招きを拒む人々に臨む怒りの裁きです。神の子が来られたとき、これを認めようとしなかった者達に徹底的な破壊がおとずれました。これは歴史的な事実です。また、これはかたくなに神の招きを拒む者にやがて下るさばきを警告する御言葉でもあります。神様は恵みと哀れみが豊かな方です。愛と寛容を持って罪人が悔い改めることを待っておられる方です。しかし、いつまでもイエス様を拒み続ける人には裁きが訪れます。

?。選ばれた者(8ー14)

 8ー10節をご覧ください。王はしもべたちに言いました。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人達は、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになりました。大通りに行って、出会った者は罪人や異邦人です。ですからこの御言葉はユダヤ人の拒絶によって、招待が異邦人や罪人に移ることを示します。神様は招待されておいた人々が拒んでも天の御国の宴会を行うことを決してやめませんでした。ユダヤ人が宴会に参加することを拒むと異邦人に参加の機会が与えられました。彼らは王子の結婚の披露宴に招かれるなど夢にも思っていませんでした。ここで良い人は道徳的に良い人です。悪い人は取税人や遊女達のような人々です。神様の招きは道徳的な資格を問いません。神様の御前では義人は一人もいないからです。この世には自分が良い人だと錯覚している罪人と自分が罪人であることを知っている罪人がいるだけです。ユダヤ人達は自分達が義人だと思っていました。異邦人の中でも自分は良心に従って生きていると思う人もいました。ところが、神様の招きは人の行ないや人間の条件によるものではありません。救いの門は誰にでも開かれています。誰でも神様の招きに応じればその宴会に参加することができます。

 神様は今も救いの宴会にすべてのものを用意して切なる心を持って人々を招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)。良い人でも悪い人でも招きに応じる人は天の御国の宴会に参加することができます。アメリカ人でもイスラム教の人々でも関係ありません。社会的な地位も関係がありません。道徳的に真面目な人であるかそうでないかも問題になりません。誰でもキリストの招きに応じればその人は天の御国の宴会に参加することができます。王子の結婚の披露宴で受けるすべての喜びと幸せを得ることができます。そこで罪の赦しの恵みを受けることができます。ところが、今日もユダヤ人達のように神様の招きの声を拒む人々が多くいます。神様が遣わした人々の話に耳を傾けようとせず、最初から断る人もいます。ある人は招くと自分は仏教の信者だと言って拒みます。ある人は自分はアルバイトや勉強やサークルのことで時間がないと言います。ある人は話をかけただけで怒る人もいます。人はよく、その日のことに忙しすぎて永遠のことを忘れることがあります。また、見えるものに心を奪われて見えないものを見失うことがあります。この世の要求に耳を傾けて静かな声で呼びかける神様の招きを聞きのがすことがあります。これは悲劇です。今は救いの時です。しかし、いつかはその救いの門が閉ざされる時が来ます。救いの門が閉ざされるともう入ることができません。イエス様も招きを断る当時の人々を見てノア時代の人々のように食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていることだけに関心があることを嘆息されました(ルカ17:26、27)。私達がユダヤ人のように霊的な無関心と神様に逆らう心を捨てない限り、結局神様の厳しい裁きを免れることができません。

 王の披露宴に誰でも参加できるようになりましたが、どんな条件を満たさなければなりませんでしたか。11節をご覧ください。「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。」日本では結婚の披露宴に招かれると大抵黒い服に白いネクタイをして参加します。また招待された人だけが参加することができます。当時ユダヤ地方では王子の結婚の披露宴に来るお客には王が用意した礼服を入口で配って上げました。この礼服は高価で華麗なものです。どんな人でもこの服を着ていると尊く見えます。宴会に招かれた人々の中には取税人も遊女もホームレースもいたでしょう。しかし、彼らも王から与えられる礼服を着るとすっかり変わります。それを着るとその人が過去取税人だったかパリサイ人だったか全くわかりません。ホームレースもその礼服を着ると王子のように見えます。ところが、礼服を着ていない人が一人いました。これは王に、また祝宴に対する侮辱行為です。

 王は礼服を着ていない人にどんな質問をしましたか。12節をご覧ください。「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。」しかし、彼は黙っていました。なぜなら彼は故意的に礼服を着ていなかったからです。彼はなぜ礼服を着るのを拒んだのでしょうか。彼は王子の結婚の披露宴で礼服を着ることがどれほど大切なことであるかを知りませんでした。王は何の資格もない人々を招き、何も要求しませんでした。ただ礼服だけ着ているとそれでVIPとしてもてなすつもりでした。しかし彼はこの一つの要求さえ拒みました。彼はとても自己中心的でした。彼は自分の着ている服を誇るために礼服を着なかったかも知れません。また、自分の服を脱いで礼服を着るのを面倒だと思ったかも知れません。彼は「なぜこの礼服を着なければならないですか」と反発する心があったかも知れません。結局彼はどうなりましたか。13節をご覧ください。「そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。」彼は宴会場から外の暗闇に放り出されました。彼は宴会場のごちそうを食べることも、ともに喜ぶこともできませんでした。他の人々がみなすばらしい礼服を着て喜んでいる時に、彼は外の暗闇で泣いて歯ぎしりしました。

 以上のたとえで結婚の披露宴に招かれた人々は今日の教会の人々を指します。それでは礼服は何でしょうか。これはキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められることを意味します(ガラテヤ2:16)。これは神様が用意してくださった救いの服です。この礼服はお金を払って買うことができません。誰でもこの礼服を着ると宴会に参加することができます。イザヤ預言者はこの礼服について次のように預言しました。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)。この御言葉によるとこの礼服は、救いの衣であり、正義の外套です。この礼服は信仰によって与えられるキリストの義の衣です。私達がどうやって天の御国の宴会に参加するようになりましたか。私達が真面目だったからでしょうか。何か招かれるような資格を持っていたからでしょうか。いいえ。そうではありません。私達は元々何の資格もない異邦人でした。神様からの律法も知らず、偶像を拝んでいました。不信仰と淫乱なこの時代に流されていました。心の中から人々を妬んだり憎んだりしました。このような私達を神様は一方的な恵みによって招いてくださいました。そして、礼服を与え、それを着ると神様の子供として天の御国の宴会に参加するようにしてくださいました。信仰によって着る義の服を見て神様は私達のすべての罪を赦し、過去のことを問題にされませんでした。そして、永遠のいのちを与え、神の国を相続する人にしてくださいました。パウロはローマ13:14で「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と言いました。私達はこの世でイエス・キリストを着るだけではなくそれにふさわしい者として生きるべきです。人はキリストに出会ったのちも、以前のような生活を続けることはできません。誰でもキリストのうちにあるならその人は新しく造られた者になります。これからは聖徒としての道を歩むようになります。

 それでは礼服を着ていない人はどんな人でしょうか。教会には通っていますがイエス様の義の衣を着ていない人です。その人は光より闇を愛します。パリサイ人のように自分の行ないを誇り、自己義を主張します。ところが、イザヤは自己義を主張する人々に向かって言います。「私達はみな、汚れた者のようになり、私達の義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)。いくら道徳的に正しいと思っている人も神様の側から見ると不潔な着物を着ていることと同じです。礼服を着ない人はイエス様の十字架の恵みを無視し、血の力を否認する人です。神様はこのような人を終わりの日にさばかれます。黙示録21:8には次のように書いてあります。「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」ですから私達は必ず礼服を着なければなりません。そのためには不潔な着物を脱ぎ捨てなければなりません。高慢と情欲によって汚れている服、不従順と反抗心によって汚れた服、律法と自己義による服を脱ぎ捨ててただキリスト・イエスの服を着なければなりません。イエス・キリストの尊い血によってきよめられる時に私たちは天の御国の宴会に参加することができるのです。

 この結婚の披露宴のたとえの結論は何ですか。14節をご覧ください。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」神様の切なる願いは多くの人々が天の宴会に参加することです。神様は今もなおしもべたちを送って切なる心を持って人々を招いておられます。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会に出かけてください。」この時間、罪人を招かれる神様の招きに応じて神様の前に出て行くことができるように祈ります。肉の欲のために心を用いることなく、主イエス・キリストを着て天の御国の宴会に参加することができるように祈ります。11月3,4日に行われる弟子修養会が悔い改めと罪の赦し、恵みと喜びが溢れる宴会となるように祈ります。