2001年マタイの福音書第27講

礎の石イエス様

御言葉:マタイの福音書21:23?46
要 節:マタイの福音書21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

先週、私たちはエルサレムに入場されたイエス様が宮を清められたことを学びました。宮清めの事件は日本語でさらさらさらさらと読んでいくと、まさにその状況もさらさらです。しかし、そんなことではありませんでした。宮清めの事件を境として、イエス様と宗教指導者たちとの対決が頂点に達しています。
 まず祭司長たちはキリストに対し、何の権威によって宮清めをするのかと詰問します。いったい誰の許可を得てそんなことをするのか、と言うのです。それに対し、イエス様は彼らに二つのたとえを語られて、イスラエルの指導者たちの不信仰と、神様に対する背信行為とを激しく糾弾されます。
 一つは二人の兄弟の譬から、父なる神様のみこころに従う者が誰であるかを明らかにされます。次に、ぶどう園の譬から、イスラエルが神様のしもべなる預言者たちを、いかに取り扱って来たかを明らかにし、ついには神様のひとり子を殺してしまう事を名言されます。
これらの譬はイスラエルの宗教指導者たちに語られたことですが、広くは私たち人間に与えられた譬です。ですから、私たちはこの譬を通して神様が私たちに願っておられることは何なのか、また、私たちが神様に対して持つべき姿勢は何かを学ぶことができます。

?. 二人の息子のたとえ(28-32)

23節をご覧ください。「イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」とあります。ユダヤの国会議員を背負っている三階級の人たちは、祭司長、長老たち、律法学者たちです。つまり、祭司長、民の長老たちとは、国家の権威というものをバックにして、ユダヤのサンヘドリン議会といわれる国会の正式な人たちです。そんな人たちが、イエス・キリストを取り囲んで、迫っているのです。「何の権威によって、おまえはこんなことをしているのか。ふざけるな。このやろう。だれが、てめえにそんな資格を与えたのか。何の資格で、誰の許可をもらって、こんな所で教えているのか。」もう頭から陽気を立たせて、彼らが迫っています。
イエス様は彼らにどのように反論されましたか。24,25節を見ると「イエスは答えて、こう言われた。わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」とあります。すると、彼らは困って、互いに頭を寄せ合って、論じ合いました。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。もし、バプテスマのヨハネが天からの権威をもって来たと認めれば、バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指さして、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と繰り返して紹介しました。そして、そのバプテスマのヨハネはイエス・キリストをさして、「私はその方の足もとにひれ伏して、そのサンダルのひもを結ぶ資格もない。」と言いました。ですから、もし、バプテスマのヨハネが天から来たということを認めるとすれば、なぜ彼を信じなかったのかと迫ってくるにちがいない。もし、カイザルから出た、地上から出た、彼は人間の権威を持って語っていた、と言うとすれば、群衆が恐い。群衆は皆、ヨハネを預言者と認めているのだからと彼らは思ったのでしょう。イエス・キリストを十字架で殺すためには、どうしても群衆をかかえこんでおかなければならない。今、群衆に背を向けられたら、イエス・キリストを殺すということが難しくなるかも知れないという計算がそこで働いているわけです。そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言いました。イエス様もまた彼らにこう言われました。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」そして、彼らに譬を語られました。
28-30節をご覧ください。28a節を見ると「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。」とあります。聖書の場合は、兄さんと弟の二人がでてくる時にはだいたい、兄さんがだめですね。はじめはいいのですけど、最終的には兄さんがどうもだめなんです。弟の方はじめは悪いのです。だいたい、どれもこれも弟が良かったというケースはないでが、あとがいいのです。このたとえもそのままです。
お父さんが「忙しい、忙しい。雨期が近づいているから、早くぶどう園の収穫をしなければならない。」「おい、畑に行ってくれ。」と言いました。兄は答えて、「行きます、お父さん。」これは実に優等生的な答えです。しかし、それは建前だけ形式だけであって本当は行きませんでした。弟はどうでしたか。弟はお父さんに答えて「行きたくありません」と言いました。彼は「いやだよ。行かないよ。」と言ったのです。しかし、この弟は、あとから悪かったと思って出かけて行きました。
イエス様はこの譬を解説して語られました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」イエス様はここで兄をイスラエルの宗教指導者たちに当てはめ、弟を収税人や遊女たちに当てはめていることが分かります。宗教指導者たちは「あんな収税人が救われるはずがない。あんな汚い遊女が救われるはずがない。」と思っていました。しかし、そうではありません。彼らは後になって悪かったと思って、悔い改めて信じています。人々は救われるとしたら、祭司長、民の長老たちが神様の前に一番近いのだ。ああいう人から順番に救われ、ああいう人の祈りから順番に聞かれるにちがいないと思います。私たちも自分でそのように考えているかもしれません。「はい、主よ。行きます、主よ。」と歌うだけで神の国にはいると思ってしまいがちなのです。しかし、イエス様は「主よ、主よ、というものがみな神の国にはいるのではなく、天にいますわたしの父のみこころを行なう者がはいるのである。」と言われました。
ですから、イエス様は痛む心を持って、愛をこめてこの宗教的指導者たちに悔い改めを迫っておられるのです。今からでも遅くない、今からでも遅くないので悔い改めるように、本音に立ち帰るように勧めておられるのです。この弟のような本音、弱さは弱さとして、衰えは衰えとして、苦しみは苦しみとして、お互いに本当に出し合える、そういう交わりでありたいと思います。

?。ぶどう園の農夫のたとえ(33-46)
イエス様は宗教指導者たちが悔い改めなかったので彼らを助けるためにもう一つの譬を語られました。イエス様はこの譬を通して彼らの問題は何であり、彼らに向けられた神様は愛がどのようなものであるかを悟らせてくださいました.
33節をご覧ください。一人の、家の主人が丹精をこめて美しいぶどう園を造りました。彼はよく肥えた山腹に土を掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植えました。また、泥棒や獣が入り込むことができないように垣を巡らし、見張りのためにやぐらも建てました。主人は農夫たちが働きさえすれば肥えた土地のぶどう園で甘いぶどうの収穫ができる環境をつくったのです。
 ここにある家の主人とは神様ご自身であり、ぶどう園とはイスラエルの人々です。そして、農夫とは宗教指導者たちを指しています。広い意味ではぶどう園はこの世界を、農夫は人間を指します。神様は人間を創造して荒野のような地をそのまま開拓するようにしませんでした。神様は人間のためにとても美しいエデンの園を設けられ、それを管理し、守るし使命を与えてくださいました。人間は御言葉に従い、霊的な秩序を守るだけでエデンの祝福、幸福を享受できました。
また、神様はイスラエルを祭司の国として選ばれ、彼らがその使命を担えるようにすべての霊的環境をつくってくださいました。ローマ人への手紙9:4、5節を見ると神様が彼らに与えられた霊的祝福が並べられています。神様は彼らを養子にし、彼らのうちに住まわれ、栄光を現わされました。彼らと契約を結び、鏡のような律法を与えて彼らを守ってくださいました。それだけではなりません。彼らにアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、サムエル、ダビデのような立派な信仰の先祖たちを許してくださり、信仰を学び、成長するようにしてくださいました。何よりも大きな祝福はイエス・キリストも人としては彼らから出られたことです。神様がこんなに大きく祝福してくださったのは、彼らが神様を敬い、あらゆる国々の人々を抱いて仕える祭司の務めをよく担わせるためでした。
神様は私たちにも実を結ぶ環境をつくってくださいました。特に神様は私たちに美しいキャンパスぶどう園を与えてくださいました。キャンパスには純粋で真理を愛し、限りなく成長する可能性を持っている若者たちがいます。一国の未来は青年たちの力と斬新な知識にかかっていると言えるでしょう。早稲田大学を創立した大隈設立者は国家発展の基礎は近代的な立憲政治の社会をつくり出すことにあり、その担い手は青年たちの若い力と斬新な知識であると痛感して早稲田大学を創立したそうです。神様は私たちに青年たちの若い力と斬新な知識があるキャンパスをぶどう園として与えてくださいました。また、神様は私たちにいのちの御言葉を与えてくださいました。御言葉は私たちを罪の死の力から救ってくださいます。また、神様の御言葉は世の中で疲れ、傷ついている私たちを癒し、本当の満足と喜び、安らぎを享受するようにしてくれます。神様はこのいのちの御言葉によって私たちを救ってくださり、やがてこの国と世界の社会を新しくつくり出す青年たちに仕える使命を与えてくださったのです。これは実に神様が私たちに与えてくださった大きな祝福です。
ぶどう園の主人はぶどう園を農夫たちに貸して旅に出かけました。主人が農夫たちに貸してあげたのは彼らを愛し、信頼していることです。主人は彼らが神様から与えられた創造的な知恵を発揮して自立的に働けるように経営権を与えました。それは彼に資格があったからではなく、主人の一方的な恵みによるものでした。ですから、彼らはいつも主人の恵みを覚えて感謝の心を持って働ければなりませんでした。しかし、彼らの現状はどうでしたか。
34節をご覧ください。歳月は流れ、ぶどうの木から実が取れる収穫の時が近づきました。私の田舎の家にはぶどうの木がありますが、木を植えて3年後に実を結び始めます。主人はその収穫の時が近づいたので自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。農夫たちは主人からの使者たちを丁寧に迎え、豊かに接待してから収穫の分け前を送るべきでした。しかし、農夫たちは接待するどころか、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。何とひどいことでしょう。しかし、主人は我慢してもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしました。しかし、農夫たちは主人を無視し、また同じような扱いをしました。彼らは自分たちがぶどう園を管理し実を結ぶまで死ぬほど働いたのに主人は何もしないで、ただ分け前だけを取ろうとする収税人のようだと思ったでしょう。
ここで、しもべたちは旧約の預言者たちを指します。預言者たちは神様の御言葉を伝え、民たちが神様と正しい関係を結ぶように悔い改めのメッセージを伝えました。しかし、イスラエルは預言者のメッセージに耳を傾けず、預言者たちを迫害し、殺しました。では彼らの問題が何ですか。
第一に、彼らは神様の恵みを忘れ、感謝しませんでした。彼らがぶどう園をあずかるようになったときは、神様の恵みに感激して感謝の涙を流したでしょう。しかし、時間が流れていくにつれて恵みを忘れ、自分たちがぶどう園で働けるようになったことは当然なことのように思いました。彼らは生活ができるようになると、過去罪の中でさまよい、仕事もなかった時の惨めさを忘れてしまいました。彼らは基本的な救いの恵みさえ忘れてしまいました。すると神様との関係性が破壊され、霊的な目が遠くなりました。
私たちも同じです。私たちが過去どんなに惨めな状態から救われて、神様のぶどう園で働くようになったのかを覚えて感謝しないとき神様との関係性が破壊され、役に立たない者になってしまいます。信仰生活において基本的な救いの恵みを常に新しく覚えて感謝することはとても大切です。恵みを覚えて感謝する人には神様がさらに祝福してくださいます。いつも御手がともにあり、わざわいから遠ざけて私たちが苦しむことのないようにしてくださいます。しかし、恵みを忘れてしまい、感謝しない者は救いの恵みを受ける前よりもっと惨めになってしまいます。
第二に、彼らは貪欲に陥ってしまいました。37節をご覧ください。主人はついにたった一人の息子を遣わしながら『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と期待しました。しかし、農夫たちは無情にもそれさえ踏みにじってしまいました。農夫たちはその子を見てこう話し合いました。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまいました。農夫たちは分け前を送らなかったのですが、その貪欲はどんどん大きくなって主人のぶどう園を丸ごと自分たちのものにしようとしました。その貪欲のために主人と同じである主人の息子まで殺してしまいました。彼らはものに対する貪欲を捨てないで持ちつづけてとき、殺人の罪まで犯してしまったのです。
ではこの譬の中に現われた神様はどんな方ですか。
第一に、神様は愛です。もう一度37節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。」とあります。『私の息子なら、敬ってくれるだろう』この言葉には農夫たちに対する主人の忍耐と愛がよく現われていますが、この主人の心は神様のみこころです。神様がひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたのは、神様の見こみちがいのように見えます。しかし、決してそうではありません。神様は、私たち人間が数多くの神のしもべたちを迫害し、殺した頑ななであって、御子をこの世に送れば、この世はこぞって御子をにくみ十字架につけてしまうことを、十分ご承知でした。それにもかかわらず、それでもなお何とか心を翻してはくれまいか、『私の息子なら、敬ってくれるだろ』と最後まで望みをかけてくださったのです。ここに神様の愛の深さがよく示されています。私は本文の御言葉を準備しながら「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と望みをかけてくださる神様の忍耐と愛の深さに感動しました。何だかこの御言葉が神様の愛の深さを示すお言葉として、まことに貴くありがたく心に響くのです。
 私は今年にはいってから主のみわざに対する意欲も、霊的な力も衰えて来たので、霊的に闘争する宣教師の働きより学校の教師として、父親としての仕事にもっと力を入れている者でした。学校では補習を6時間も担当し、時間があれば、テニスをやったり、囲碁をやったりしながら過ごしていました。家でも子どもたちと遊ぶ時間が前より増えていました。病と罪のために苦しみ、さまよっていた者を救われ、宣教師として遣わしてくださった神様の恵みを忘れて自分勝手な道に進んでいたのです。神様の一方的な恵みによって安定的な職場、幸せな家庭が与えてくださったのに、それを感謝して主のみわざに励むよりそれらを楽しんでいたのです。それにもかかわらず、神様はもう一度私に望みをかけて「メッセージ」を伝える恵みを与えてくださいました。自分の足りなさ、これから担うべき自分の十字架を考えると肩が重くなり、恐れも生じますが、ただ私のような者にも望みをかけて導かれる主の愛と哀れみに頼って立ち上がり、神様が私に与えてくださったぶどう園キャンパス宣教、世界宣教のために励むことができるように祈ります。
 第二に、神様は公義の神様です。40、41節をご覧ください。イエス様は譬を言われてから宗教指導者たちに聞かれました。「このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエス様に言いました。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」この答えは満点です。しかし、彼らは正しい答えを出しながら、その情け容赦なく殺さなければならない悪党どもが、自分たちであることに気づいていませんでした。(あとになって、この章の最後の節ではじめて『気づいた』のですが、)結局、彼らはAD70年に滅亡し、ぶどう園は謙遜に祝福を担う他の民、福音を受け入れる異邦人に与えられました。ガラテヤ6:7節は言います。「 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。・・・」神様はひとり子をお与えになったほどに私たちを愛してくださいますが、御子イエス様を受け入れず、最後まで悔い改めない者は必ずさばかれる公義の神様です。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

イエス様は宗教指導者たちが譬の意味をまだよく悟らないのを見て詩篇118:22,23節を引用して彼らの霊的な無知を悟らせました。42節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』とあります。この預言のとおり、人々が捨てた石、私たちが十字架につけて殺した主イエス様が新しい神の国の礎の石となり、イエス様によって世界全人類に罪の赦しが与えられ、新しい神の国が建てられることになりました。したがってこの新しい神の国の礎であり王である主にさからう者はみじんに砕かれることは当然のことです。

以上において、私たちはいかなる者が真に神様のみこころにかなう者であるかを、はっきりと知らなければなりません。私たちは今、収税人ザアカイやマグダラのマリヤの心をもっていつも神様に感謝し、キリストに従う者とならなければなりません。私たち神の国の礎であるイエス様に頼って神様が私たちに与えてくださったぶどう園で豊かな実を結び、神様にささげることができるように祈ります。