1998年ヨハネの福音書?部第3講

 

まことのぶどうの木イエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書15:1ー27

要 節:ヨハネの福音書15:5

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、

わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

 

 先週私達は道であり、真理であり、いのちであるイエス様について学びました。今日はまことのぶどうの木であるイエス様について学んでみたいと思います。クリスチャンと呼ばれる人の中でも、実を結ぶ生活をしている人と、ほとんど実らしい実を結んでいない生活をしている人がいます。どこにその違いがあって、どうしたら、実を結ぶ生活をすることができるようになるでしょうか。今日の御言葉は神様が願われる実を多く結べる秘訣が何かを教えてくれます。

 

?。人がわたしにとどまり(1ー8)

 

 1節と5a節をご覧下さい。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」この御言葉は神様とイエス様と弟子達の関係についての詩的な表現です。この三者の関係は切り離そうとしても切り離せない密接な関係です。旧約聖書の中には、イスラエルの民のことを、ぶどうの木に、神様をぶどう園を管理する農夫にたとえている個所がたくさんあります。神様はイスラエルの主だけではなくこの世を造られた方としてこの世の主となられる方です。この世は神様のぶどう園であり、神様はこのぶどう園を管理する農夫です。イエス様は神様がそのぶどう園に植えられたまことのぶどうの木であり、弟子達はその木の枝です。イエス様はどんな点でまことのぶどうの木ですか。それはイエス様だけが神様が願われるいのちの実を結ぶことができる唯一のぶどうの木になるからです。また、イエス様だけがすべてのよい実を結ばせる完全なぶどうの木になるからです。

 2節をご覧下さい。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」この御言葉から私達は実を結ばない枝と実を結ぶ枝があることがわかります。ぶどうの木において大切なことは、実を結ぶか結ばないかということです。実を結ばない枝は病気にかかった枝や死んだ枝です。このような枝は何の役にも立たないから農夫はそれを取り除きます。それは神様の裁きを意味します。農夫が願っているのは実です。主は、私たちに実を結ぶことを期待しておられます。しかも、多くの実を結ぶことを望んでおられます。神様はイスラエルに甘いぶどうを待ち望んでいました。ところが、彼らは、主の期待に背いて、酸いぶどうを結びました。結局彼らは神様に裁かれました。神様は実のない個人や集まりや民族を必ず裁かれます。 

 反面、実を結ぶ枝はもっと多くの実を結ぶために何をしますか。どうすれば多くの実を結ぶことができますか。

 第一に、刈り込みをします。2b節をご覧下さい。「実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」ぶどうの木は刈り込みをしないとよい実を結ぶことができません。これをしないと、余分な枝に栄養分が行ってしまって、貧弱な実しか結ばないからです。農夫はよい実を得るために惜しくても刈り込みをします。これは、私たちクリスチャンにとっては、訓練を意味し、具体的には苦難や試練という形で、私たちの身の上に起こってまいります。ですから、私たちは、自分の身の上に苦難や試練が襲って来た時、誰かを恨んだり、自暴自棄になったりすべきではなく、むしろ主が、私にさらに多くの実を結ぶために与えられたのだということを知って、感謝しなければなりません。神様は私たちを愛し良い実を結ぶことができるように試練を与えて下さいます。実を結ぶ可能性があるから人の杖や人生の鞭などを通して刈り込みをなさいます。神様は病気や身近な人の死の試練を通して純粋な信仰を持つようにして下さいます。そして神の国に対する生ける望みを持つ霊的な人として成長させて下さいます。神様に用いられた信仰の人はみな様々な試練の中を通りました。

 3節をご覧下さい。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」この御言葉はイエス様が弟子達を何によってきよくしてくださったかを言っています。弟子達はイエス様の御言葉によってきよくなりました。福音書に現れた弟子達の姿は霊的にまだ子供のような状態でした。ところが使徒の働きに現れた弟子達は成熟した信仰と祈りの人々でした。彼らがこのような変わったのはイエス様が3年間神様の御言葉によって彼らをきよくしたからです。イエス様が弟子達をきよくしてくださったことを見ると最初には人間的な情やよくない習慣を切るようにされました。その後、弟子達の心の中に生じた人間的な野心や夢の枝を切りました。弟子達は過去偉大な人になることは考えもしませんでした。ところがイエス様に従いながら夢を持つようになりました。彼らはイエス様を通して外務大臣や大蔵大臣になろうとする野心を持つようになりました。そのために彼らは互いに激しく競争しました。イエス様はこのような彼らに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)という御言葉と「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ 10:45)という言葉などを通して彼らをきよくされました。それを通して彼らは聖なる望みを持つ神様の人として変わりました。ぶどうの木の枝はすぐ出てきます。このように私達の心の中にも高慢の枝、情欲の枝など世の枝が絶えず出てきます。このような枝は刈り込みをしないと神様が願われるよい実を結ぶことができません。イエス様は弟子達を真理の御言葉によってきよくしてくださいました。神様は私達がよい実を結ぶように御言葉によって刈り込みをしてくださいます。

 第二に、イエス様の御言葉の中にとどまる時に実を結ぶことができます。4,5節をご覧下さい。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことが出来ません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ここで「とどまる」とはキリストに結び付くことを意味します。私たちが実を結ぶ秘訣は、幹であるキリストに堅く結び付く以外にはありません。それでは、具体的に主に堅く結び付くとは、どういうことを指しているのでしょうか。私たちは、主の十字架上の身代わりの死によって、霊的に死んでいたところから、霊的ないのちが与えられ、生かされました。それは、枯れ枝のような存在であった者が、いのちの主であるぶどうの幹に結びつけられたことです。しっかりと幹にくっついていれば、幹から流れ出てくる栄養分によって、どんどん育ち、実を結ぶことができます。つまり、私たちがしなければならないことは、幹に堅く結び付いていることです。そうすれば、実を豊かに結ぶことができます。実を結ぼうと努力すらする必要がありません。キリストに堅く結び付いていると自然に実を結ぶようになります。

 7a節をご覧下さい。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」この御言葉はイエス様にとどまることは具体的に御言葉にとどまることであることを教えてくれます。御言葉にとどまっていなければ罪の勢力に負けてしまいます。しかし御言葉にとどまっているなら勝利の人生を送ることができます。

 第三に、御言葉に基づいて祈らなければなりません。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7)。御言葉なしに祈ると神様の御心を知らず、自分なりの祈りを捧げるようになります。その時、私達は一方的に神様に請求書ばかり取り出しやすいです。このような祈りには答えてくださいません。祈りが答えられるためには主の言葉が私達にとどまらなければなりません。その時、私達は神様の御心を知り、その御心に従って祈ることができます。主の御言葉が私達にとどまり、御言葉に基づいて祈る時、それがか

なえられます。その時、私達は神様に喜ばれる多くの実を結ぶことができます。

 以上から私達は実を結ぶためにはイエス・キリストにとどまる生活をしなければならないことを学びました。具体的には刈り込みをすること、御言葉にとどまること、御言葉に基づいて祈るこの三つのことです。信仰生活に喜びがなく、疲れている人はいないでしょうか.罪の勢力に負けてしまって苦しんでいる人はいないでしょうか。実を結べないことで悩んでいる人はいないでしょうか。この時間、自分がイエス・キリストに堅く結び付いているかどうかを考えて見ましょう。毎日の生活の中で自分はどれほど主との交わりの時間を持っているかを顧みてみましょう。そして自分が主から離れていることに気づいたら毎日主にとどまる生活を始めましょう。とどまることはとどまり続けることです。枝は木にとどまり続ける時に栄養分を供給してもらって実を結ぶことができます。しかしとどまっていなければ枯れてしまいます。ですから主にとどまり続け主から栄養分を供給してもらわなければなりません。そのようにすると、水路のそばに植わった木のように時が来ると実がなり、その葉は枯れません。何をしても栄えます。感謝と恵みに満ちた生活をします。私達がイエス・キリストにとどまりつづける生活を通して主に喜ばれる多くの実を結ぶことができるように祈ります。

 それでは私達が多くの実を結べば誰が栄光を受けるようになりますか。またどんな者として認められるようになりますか。8節をご覧下さい。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

 第一に、神様が栄光をお受けになります。子供が勉強がよくできて賞をもらうと親が栄光を受けるように、神様は子供である私たちが実を結ぶと栄光をお受けになります。

 第二に、イエス様の弟子として認められるようになります。イエス様の弟子の特徴は実を結ぶことです。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のような内的な実と御言葉を伝えることを通して得る外的ないのちの実です。内的な実を結ぶようになると自然に外的な実も結ぶようになります。

 イエス様は続けて実の中で最も大切な愛の実について話してくださいます。

 

?。互いに愛し合いなさい(9ー17)

 

 9節をご覧下さい。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」この御言葉は父なる神様と、御子なる神様との親しい交わりと同様な交わりを私達が御子イエス・キリストと持つことを勧めています。イエス様の愛は私たちの罪のためにご自分の尊い命を与えてくださった愛です。イエス様の愛の中にとどまることはどんな場合にもその愛を疑わないことです。私達は健康で仕事が順調な時には主の愛を確信することができます。ところが病気にかかったり仕事が順調に進まない時には神様の愛を疑いやすいです。しかし私達に与えられる様々な試練は神様が私を愛するから与えてくださるものです。私達は試練を通して主との深い愛の関係性を結ぶことができます。使徒パウロは福音を伝えるうちに多くの苦難を受けました。しかし彼はどんな場合にも主の愛の中にとどまり、勝利の歌を歌うことができました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35?37)。

 私達がイエス様の愛の中にとどまる時、愛の実を結ぶことができます。その時、驚くべきことが起こります。私達の心の中に働いていたすべての憎しみや怒りが消えて神様の愛に満たされるようになります。その時私達はどんな人も愛することができるようになります。そして、私達の心は喜びに満たされるようになります。

 それでは私達はどのようにしてイエス様の愛の中にとどまることができるでしょうか。10節をご覧下さい。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」互いに愛し合う時、真の喜びがあります。誰もイエス様の愛を知らなかった時には満足も真の喜びもありませんでした。イエス様の愛を知らない人は不幸です。私達がイエス様の戒めを守るなら、キリストの喜びにあふれた毎日を送ることができるのです。力にあふれた生活をすることができます。

 13節をご覧下さい。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」本当の友を持っているということは、人生において実にすばらしいことです。本当の友とは、その人のためなら何でもして上げることができる人のことです。喜びも悲しみもいつも共にしうる人、それが本当の友です。イエス様は弟子達を友とされ彼らのためにいのちを捨てられました。イエス様は私たちをしもべとされず、友とされました。私たちはイエス様が命じることを行うなら、イエス様の友になることができます(14)。私達は、キリストを主と信じ、キリストの尊い血によってキリストのものとして買い取られた者たちです。つまり、キリストの奴隷です。どんな人でも、悪魔の奴隷か、さもなければキリストの奴隷かであって、このどちらでもない人はいません。しかし、主は私達を奴隷ではなく友としてくださいました。何と大きな特権でしょうか。この特権を知る時、神様の同労者として自発的に主と福音のために働くことができます。

 16節をご覧下さい。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」私たちがイエス様を選んだと思うと過ちを犯したら首になるのではないかと恐れます。しかし主が私を選び任命されたので責任を負って下さいます。もし私が過ちを犯したとしても変わりがありません。ですから主が私を選ばれたのは恵みです。イエス様が私達を選んだのは、実を結ぶ祝福の人生を過ごせるためです。

 

?。もし世があなたがたを憎むなら(18ー27)

 

 イエス様はこれから弟子達に世に対して持つべき姿勢について言われます。私達がイエス様にとどまっているなら、多くの実を結び、喜びに満たされた生活をするようになります。ところが同時に世から憎まれ、迫害されるようになります。世の人々は私達が彼らと同じく罪悪な生活をせず、きよい生活をするので憎み、迫害します。その時、私達が覚えなければならないことは何でしょうか。18節をご覧下さい。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」世の人々が私達を憎むのは根本的にイエス様を憎んでいるからです。世は神様に背き、神様に敵対しているのでクリスチャンのこの世での戦いは避けられません。世と妥協して信仰生活をすると迫害を受けませんが、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(?テモテ3:12)。ところが迫害は私達をだめにしてしまうのではなくむしろ有益を与えます。迫害は強い風のようです。強い風が吹くと幼い木は左右によく揺れます。しかし木は風のゆえにもっと深く根を降ろして大きな木に成長します。しかしこのように私達を迫害する人だけではなく私達の伝える福音に従う人もいます(20b)。

 人々が私達を迫害するのは神様を知らない霊的な無知のためです。イエス様がこの世に来られすべてのことを明白に言われたので彼らは弁解の余地がありません。イエス様を憎んでいる者は、神様をも憎んでいるのです。彼らは理由なしに主を憎んでいるのです。私たちが迫害を受ける時に少しも恐れる必要がないのは聖霊が私たちとともにおられるからです。弟子達はイエス様を証する使命が与えられました。ですから迫害の中でも積極的にイエス様を証する生活をしなければなりません。

 結論、私達は過去神様から離れて何の役にも立たない酸いぶどうを結び、ついには神様のさばきを受けるしかありませんでした。しかし神様の大きな恵みによってまことのぶどうの木であるイエス様に結び付くようになりました。これから私達が励むべきことは枝としてまことのぶどうの木であるイエス様にとどまることです。私達がイエス様にとどまることによって神様に喜ばれる多くの実を結ぶことができるように祈ります。