1998年ヨハネの福音書?部第2講

 

道であり、真理であり、いのちであるイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書14:1ー31      

要 節:ヨハネの福音書14:6

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、

いのちなのです。わたしを通してでなければ、

だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

 

 私たちは、先週の礼拝のメッセージを通してイエス様が弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われた新しい戒めを学びました。今日学ぶ御言葉は、イエス様が心を騒がしている弟子達に神様に対する信仰と天国に対する望みを与えてくださる御言葉です。私たちは、弱い者達です。何かあると、すぐに心を騒がせてしまう者達です。これは、その人の立場や地位や環境とは関係ありません。どんな人もそうです。そういう弱い私たちに対して、イエス様は実に強く確かな約束と励ましの御言葉を与えてくださいます。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。このイエス様を信じる時、これ以上心配したり迷わずいのちの道を歩むことができます。今日の御言葉を通して私達の心の中にある心配と恐れを退け、確信と希望と喜びに満たされた信仰生活を送ることができるように祈ります。

 

?。神様のみもとに行く道(1ー14)

 

 1a節をご覧ください。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」この御言葉は弟子たちが心を騒がしていたことを教えてくれます。彼らはなぜ心を騒がしていたのでしょうか。それはイエス様が最後の晩餐の時、深刻なことを言われたからです。13:36節を見ると、シモン・ペテロがイエス様に言いました。「主よ。どこにおいでになるのですか。」その時、イエス様は答えられました。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」すなわち、イエス様は弟子達に別れを告げられました。そのために、イエス様に地上メシヤとして希望をかけていた弟子たちの心には心配と不安の雲が襲ってきました。今までイエス様は彼らの先生であり、友であり、主でした。彼らは子供が母親に頼るようにイエス様に頼って来ました。その時、すべての問題が解決されました。それなのにイエス様が今自分達から離れて行くと言われたので心を騒がしていたのです。しかし、彼らが心を騒がす主な理由は世のものに対する欲と人間的な野心のためでした。弟子達は今までイスラエルの回復という大きな希望を持って何もかも捨ててイエス様について来ました。彼等はイエス様が地上メシヤ王国を建設されると、自分たちは外務大臣や大蔵大臣などになるだろうと確信していました。しかし、イエス様が自分達から離れて行かれるなら、その夢は一瞬にして壊されてしまいます。さらに、何もかも捨てて従って来た彼らにとっては、新しく就職することも、事業をはじめることもなかなか難しいことです。そういうわけで、彼らの心は暗くなり、不安と心配に陥りました。イエス様が彼らが来ることのできない所へ行かれると言ったので心配になりました。近い将来に弟子達が心を騒がせるようなことが起きて来ることを、イエス様は考えて弟子達に力付けるために言われました。心騒がせることは、もちろんイエス様が十字架につけられ、死なれることです。弟子達にとって、尊敬しており、また頼っているイエス様がいなくなることは大きな不安でした。

 どんな人でも、心を騒がせることに当面する時があります。将来の進路の問題で心配する人もいます。家族の健康の問題で心配する人もいます。人々は目に見えるもの、手に入れる確かなものがなければ不安を感じます。霧の中にいるようで、先が見えないところに不安と心配が起こってくるわけです。しかしいくら目に見える確かなものがあるとしても人々は根本的に保障されてない不確実な未来のために不安な人生を過ごしています。それではイエス様は心を騒がしている弟子達をどのように助けられましたか。  

 イエス様は彼らにまず信仰を植え付けられました。1b節をご覧ください。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」心を騒がせずにはいられない時、その最も良い解決は神様を信じ、イエス様を信じることです。「信じる」という言葉は英語でtrustですが、この言葉は信頼する、頼る、任せる、委託する、信じるなどの意味を持っています。ですから、イエス様は弟子達がイエス様に信頼し、その生活を主に任せ、委託するように言われたのです。神様は天地を創造された全能の方です。私たちの良い牧者としてベストの道に導いてくださいます。ですから、私達はまず、神様の御力と愛、その導きを信じなければなりません。神様を信じる時、心の中の心配、不安、恐れの問題を克服することができます。神様は将来の問題で不安になっていたアブラハムに「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創15:1)と言われました。子供が親を信頼してすべての問題を安心してゆだねているように私達が全能の神様を信頼してすべての問題を主に委ねる時、心の中に平安が訪れます。後にペテロは迫害を受けているクリスチャン達に次のように激励しました。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(?ペテロ5:7)。私達の心を騒がしている問題をすべて主に委ねましょう。

 イエス様は弟子達に信仰を植え付けて下さってから神の国に対する望みを植え付けてくださいました。2節をご覧ください。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」ここで「父の家」とは神の国を指しています。家賃が高い東京に住んでいる私達は広い部屋がほしい時があります。狭い借家で子供と一緒に住んでいる方はせめて都営住宅でも入ることができたらと思います。イエス様は、天国には、私たちのために住まいが十分用意されている言われました。英語ではマンションがたくさんあると言っています。このマンションは2LDKとか3LDKのようなマンションではなく数多くの部屋がある宮廷のような邸宅を意味します。しかも、すばらしい庭園に美しい花と木がある邸宅です。もちろん家賃を払わなくてもいいです。そこには空気が汚染されてないし、病気も死も悲しむこともありません。ウーロン茶を飲む前に毒物が入っているかどうか缶を調べる必要もありません。そこはいのちと平和と自由と喜びと愛が満ちたところです。そこは私達が永遠に安息できるところです。この世で忙しくてなかなか休めない人は神の国に行けば十分休むことができます。

 イエス様はさらにこう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(3)。天国とは、主が私達のために用意していてくださる所であり、そこは、主とともにいる場所です。どんなに天国が光り輝く所であり、快適な暮らしができる所であるとしても、主がおられないのであれば、それはじきに飽きてしまいます。たとえ、快適な場所であっても、人間はそういう所を永遠に住まいとしたら、必ず退屈してしまいます。そして今度は、もっと粗末でも、目先の変わった生活を望むようになるはずです。しかし、主がともにおられる所であれば飽きることがありません。私達の魂は、場所や環境の快適さによって満足するのではありません。私達の魂を満足させて下さるのは、主ご自身です。 

 そして、イエス様は、天に帰られた後、私たちをそこに迎えるためにまた来てくださいます。イエス様は十字架による救いのみわざを完成し、復活され天の御国の門を開かれ、愛する弟子達をそこに導こうとされました。これはなんとすばらしいことでしょうか。主はご自分の十字架上の死によって開かれた神の国に私達を導いてくださるのです。ですから、私たちは心を騒がせる必要がないのです。この世のものは決して私達が永遠に暮らせる住まいではありません。今年の洪水で何億円もする高級住宅がごみだらけになっている写真を新聞で見たことがあります。この世の人生は旅人がしばらくの間泊まって行く所です。私たちの故郷は朽ちることも汚れることも、消えていくこともない神の国です。私たちにこの生ける望みがあるとき、主と福音のために喜んで自分を犠牲にすることができます。また、どんな苦難や逆境の中でも絶望せずに、賛美しながら聖なる巡礼者の道を歩むことができます。

 4?14節は天国へ行く道について教えてくれます。4節をご覧ください。イエス様は弟子達に対して、「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と言われました。イエス様はご自分が神の御子であり、天から降りて来られて、私達の人間の罪を背負い、十字架につけられ死なれるのだということを教えられました。それから三日目に復活して、天に帰られるのだということ、そして天に帰られたら、弟子たちのためにその住まいを用意して、また迎えに来てくださるということも教えられました。だから、彼らはイエス様の道を知っているはずなのです。しかし、これを聞いたトマスは、どうもよく理解できなかったらしく、こう答えています。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私達にはわかりません。どうして、その道が私達にわかりましょう。」そこで、主ははっきり言われました。

 6節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」イエス様は、はっきりと、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。それは、イエス様こそ「道であり、真理であり、いのち」だからです。

 古来多くの人々がこれこそ、道であると言って、道について語ったり、道を指し示したりしました。また、ここにいのちに至る方法があると言いました。しかし、それらはことごとく人間によって切り開いて来た道や、人間の定めた真理であったり、人間によって作り出されたいのちへの方法にすぎませんでした。しかし、イエス様が父なる神様のみもとに至る唯一の道であるわけは、神様が遣わされた真理そのものであり、いのちそのもの自体であられるからです。神様のみもとに行こうと思うなら、この神様が決められた方法でしか行くことができません。神様は、イエス様をこの世に遣わされ、この方によってご自分のところに来る道を用意されました。ですから、イエス様だけが道であり、父なる神様のみもとに行くためには、この方を通してでなければ、誰一人行くことができないのです。

 神様から離れた人間はさ迷っています。?ペテロ2:25節はそのことを言っています。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」人々はいのちの道、正しく生きる真理の道、幸せに暮らせる幸福の道を探しています。しかし神様から離れた人間は闇の中にいるのでどこからもその道を見つけることができません。人は主のもとに帰る時にいのちの道、真理の道、幸福の道を見つけることができます。なぜならイエス様だけが十字架と復活によって人々の根本問題である罪と死の問題を解決されたからです。イエス様は神様と人との間の唯一の仲介者となられる方です(?テモテ2:5)。イエス様は私達が神様のところへ行ける唯一の道なのです。

 さらに主は言われました。7節をご覧ください。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ところが、今度はピリポがこう言いました。「主よ。私達に父を見せてください。そうすれば満足します。」そこで、イエス様は、父なる神様と主イエス・キリストとがひとりの神様であられることを語られました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私達に父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」イエス様は、見えない神様のかたちとして、神様の御姿を完全に啓示されました。何よりもイエス様ご自身が神様であることを証されました。イエス様が語られたのは神様の御言葉だから私達に罪の赦しを与え、魂を生き返らせます。ですから、私たちはイエス様が語られた御言葉を信じなければなりません。さもなければ、イエス様が行われたわざによって信じなければなりません。イエス様は旧約聖書に預言された通りにメシヤのわざをなさいました。イエス様は神様が遣わされた証拠として多くの奇跡を行われました。イエス様は盲人の目を開けられ、足なえを歩かせ、らい病人をきよめられ、死人を生き返らせる奇蹟のわざを行われました。ですから、このメシヤのわざによってでもイエス様を信じなければなりません。それではこのイエス様を信じる人は、どれくらい大きなことをするようになりますか。

 12節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」信仰によってイエス様が行われたわざを行うことができるし、それよりもさらに大きなわざも行うことができます。後にペテロは一度説教した時に三千人が信じるようになりました。また、生まれつき足のきかない人をイエス様の御名によって歩かせました。主の約束の御言葉が成就されたのです。今日世界中に福音が宣べ伝えられていて、多くの人々が主を信じるようになっているのもまた、主の約束の成就にほかなりません。

 イエス様は信仰の能力に引き続き、祈りの力についても教えられました。13,14節をご覧ください。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」私達は、父なる神様に対して信用のない罪人なのですが、イエス・キリストは絶対的な信用のある方です。ですから、その御名によって祈れば聞き入れていただけるのです。また、「わたしの名によって求める」とはイエス様の御心に従って求めるということです。主の御心にふさわしい祈りなら、どんな祈りでも必ず主は聞いてくださるのです。ですから、弟子達は信仰の祈りによって大きなわざを行うことができるのです。祈りは信仰の現れです。私達は神様のみわざに仕える時、限界にぶつかる時が多くあります。その時、全能の神様を信じて祈るなら、限界を乗り越えることができます。祈りの力を体験したヨハネはこう告白しました。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(?ヨハネ5:14)。祈りは天の宝庫を開く鍵です。イエス様は私達が祈り求めることによって逆境と不可能なことを乗り越えて大きなわざを行うことを願っておられます。

 

?。助け主、聖霊(15ー31)

 15節をご覧ください。弟子達がイエス様を愛する証拠は、イエス様が与えられた新しい戒めを守ることです。すなわち、互いに愛し合うことです。16,17節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」この御言葉は聖霊に対する驚くべき約束です。イエス様はご自身がこの世を去って行かれる時、「助け主」を送ってくださるというすばらしい約束を与えてくださいました。助け主は英語でcounselor、comforter、helperと訳されています。というのは助け主はカウンセラーとして私たちに必要な知恵を与え、慰め主として私たちを慰め、励ましてくださる方です。その助け主は「真理の御霊」です。イエス様は地上生活においても助け主でした。しかし、聖霊の助け主は、人となられたイエス様の場合とは違います。地上を歩まれたイエス様の場合は今イスラエルにおられれば、日本にいる私達を助けることができません。しかし、聖霊は、いつ、どこにでもおられて、助けを必要としているクリスチャンを助けてくださることができます。聖霊は神様の御心をわきまえる知恵、聖書を正しく理解する知恵を与えてくださいます。聖霊は私達が悲しんでいる時、私達を慰め、涙を拭い取ってくださいます。私達は不完全な人間ですから、傷つけたり、傷つけられたりします。その時、聖霊は傷ついた心を慰め、癒してくださいます。弱くなっている人を励まし、立ち上がる力も与えてくださいます。聖霊はいつまでも私達とともにおられます。さらに、私達のうちに住んでくださいます。

 22節をご覧ください。イスカリオテでないユダはイエス様に不満を言いました。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」イエス様は彼に答えられました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」イエス様を愛する人はイエス様の言葉を守ります。イエス様はまだ弟子達が霊的な目が開かれてないのを知って聖霊の働きについて教えられました。26節をご覧ください。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は私達の聖書先生となって私達に霊的世界を教えてくださいます。ですから、私達が挫折することなく、勝利の人生を過ごすために必ず聖霊の働きを信じて聖霊に頼らなければなりません。そうすると、マンツーマン聖書勉強をしてもなかなか分からないほど霊的に鈍い人でも聖霊が臨まれると立派な聖書先生になることができます。

 結論、今日は不確実性の時代です。私達の人生は不確実であり、私達の未来も不確実です。それで人々は確かに目に見えるものをつかもうとします。しかし私達に一番確実な保障となるのは道であり、真理であり、いのちであるイエス様だけです。このイエス様が私達に二つのすばらしい約束を与えてくださいました。ひとつは主が私達を天の住まいに連れて行ってくださることです。もうひとつは私達が生きている今この所において、主が来て住んでくださるという約束です。私達はこの約束を受け入れ、天の御国への望みと、私達のうちに住んでおられる聖霊に対する信仰を持って生きる時、力強い信仰生活をすることができます。私達に輝かしい神の国に対する望みを与えられ、聖霊を送って私達のうちに住まわせてくださった神様に感謝と賛美を捧げます。