1998年ヨハネの福音書?部1講

 

新しい戒めをお与えになったイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書13:1ー38       

要 節:ヨハネの福音書13:34

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、

そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 

 先週私たちは一粒の麦であるイエス様について学びました。今日の御言葉は弟子達へのメッセージです。イエス様は弟子達の足を洗ってくださってから「互いに愛し合いなさい」と新しい戒めを与えてくださいました。この時間、イエス様の新しい戒めが私たちに与える意味は何かを学ぶことによって恵みを受けることができるように祈ります。

 

?。弟子達の足を洗われたイエス様(1ー17)

 

第一に、弟子達を愛されたイエス様(1?5)。1節をご覧ください。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」イエス様はご自分が十字架につけられ死なれる時が間近に迫っていることを知っておられました。人は自分の死が間近に迫っていると思ったら絶望したり、身の回りを整理したりします。ところが、イエス様は何をされましたか。イエス様は世にいる自分のものを愛されました。「自分のもの」とはイエス様がご自分の血の代価を払って買い取られたことを意味します。人々は自分のものは大切にします。イエス様は弟子達をご自分のものとされたので大切にし、愛してくださいます。イエス様は弟子達に対する愛を残るところなく示されました。それは最後まで変わらず愛してくださったことを意味します。人間の愛はよく変わりますが、イエス様の愛は決して変わりません。ヘブル13:8節は次のように言っています。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス様の愛は永遠です。イエス様は十字架上の死と復活というご自分の尊い犠牲によって私たちへの愛を示して下さいました。人々を罪からきよめ救ってくださるということ、これこそ主の愛の極地なのです。

イエス様の変わらない愛とは対照的に悪魔は、既にイスカリオテ・ユダの心に、働いていました。2節をご覧ください。「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、」時は夕食の間のことでした。悪魔はすでにイスカリオテ・ユダの心に、よくない思いの種を蒔きました。彼は12弟子の一人として選ばれ、三年の間、主の弟子として歩み、主の奇蹟を見、主の教えを受け、主のなさった数々の恵み深い御業を体験しました。しかし、彼は悪魔にとりつかれ、破滅へと向かって行きました。なぜユダが悪魔の標的になったのでしょうか。それは彼がイエス様よりお金を愛したからです。イエス様に従う動機が純粋ではなかったからです。そのために悪魔は彼の心に働き、彼を奴隷としてしまいました。汚い所にバイキングが発生するように心の中が汚い時に悪魔が働きます。悪魔はいつも私たちの心の考えを通して働きます。ですから私たちは悪魔が働かないように自分の心の考えを治めなければなりません。

 3節をご覧ください。「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、」これはイエス様のご自分に対する認識です。イエス様は父なる神様から天と地のすべての権威が与えられた絶対主権者であることを認識されました。また、イエス様はご自分が神様から来て神様に行く方として本来神様であられることを認識されました。イエス様は全ての人々から尊厳と栄光と誉れを受けるにふさわしい方です。イエス様はご自分がどれほど高く尊い存在であるかをご存じでした。このようなことがわかると高慢になりがちです。それでもイエス様は、夕食の間に弟子達のために何をされましたか。4、5節をご覧ください。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子達の足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」当時イスラエルでは普通お客として人々を食事に招く時には、食事の前にしもべがこのようにしてお客の足を洗いました。しかもそのような仕事は、異邦人の奴隷のすることであって、ユダヤ人の奴隷はしないことになっていたようです。つまり、極めて卑しい仕事と考えられていたわけです。イエス様は本来神様です。すべての人々から仕えられるにふさわしい方です。しかし、イエス様はしもべとなられ弟子達の足を洗ってくださいました。弟子達の中では誰も仕えようとしませんでした。彼らの中には誰が一番偉いのかと争っていました。やがてイエス様がこの世を支配される時、自分が要職につきたい野心が彼らの心の中にありました。兄弟達二、三人だけが集まっても足のにおいが臭くて耐えにくいですが、12人も集まっていたのでどれほど耐え難いことだったでしょう。臭い足のにおいが部屋の中に満ちていましたがそれでも弟子達は我慢していました。誰も自尊心のために自分を低くして仕えることができませんでした。もしそんなことをすれば自分の存在が卑しくなると思いました。イエス様はこのような彼らをよく知っておられました。イエス様は彼らを叱ることもできました。しかし、神様の御子イエス様は自らご自分を低くして弟子達の汚い足を洗ってくださいました。

第二に、人格的な愛の関係性(6?9)。6節をご覧ください。こうして、イエス様はシモン・ペテロのところに来られました。その時、ペテロはイエス様に言いました。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。決して私の足をお洗いにならないでください。」先生であるイエス様が弟子達の足を洗おうとしたのですから、弟子達の驚きは大変なものであったろうと思います。それでペテロはイエス様が自分の足を洗ってくださることを拒みました。なぜペテロは、拒んだのでしょうか。彼の足に水虫があったからでしょうか。それは分かりませんが、とにかく彼の言葉の中には強い自己義がありました。彼は自分の足は自分が洗うべきだと思いました。自分は他の弟子達とは違うと思いました。それだけではなく彼にはイエス様の第一の弟子としての悩みもあったでしょう。もしイエス様が低くなられ他の人の足を洗ってくださると、イエス様の第一の弟子である自分もそのようにしなければならないからです。彼は自己義のためにイエス様に仕えられることを拒みました。

 その時、イエス様は彼に何と言われましたか。8節をご覧ください。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」「何の関係もない」これは恐ろしい言葉です。この御言葉は私たちがイエス様に汚い足を出して洗っていただく理由が何かを教えてくれます。イエス様と弟子の関係は先生と弟子の関係だけではなく根本的に救い主と罪人の関係です。私たちは罪人であり、イエス様は罪人を救うために来られた救い主です。私たちがイエス様と正しい関係性を結ぶことができる唯一の道は私たちの汚い足をイエス様に出して洗っていただくことです。イエス様を罪から私たちを救ってくださる救い主として信じなければ何の関係もありません。私たちの足は汚いです。高慢と情欲、ねたみと利己心、憎しみと肉の欲、とがと過ちによってにおいがします。イエス様はこのような汚い足を洗うことを願われます。

ところが私たちは自分の汚い足を出すことをいやがります。恥ずかしく思います。汚い足を出すと罪に定められるのではないかと恐れます。しかしイエス様は私たちがきれいな足を出すことを願われるのではなく罪によって汚くなった足を出して洗ってもらうことを願われます。ですから私たちはただ主の哀れみと愛を信じて自分の汚い足をありのまま出せばいいのです。

9節をご覧ください。イエス様の「何の関係もない」という御言葉に、ペテロはびっくりしました。それで彼は「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」と言いました。ペテロは子供のように感情的でした。しかし彼の動機は子供のように純粋でした。彼にはイスカリオテ・ユダのような二重心がありませんでした。10節をご覧ください。イエス様は彼に言われました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」「水浴する」とは罪を悔い改めてイエス様をキリストとして信じて聖霊によって新しく生まれることを意味します。これは一生一度しかないことです。「足を洗う」ことは日常生活の中で犯した罪を悔い改めることです。これは一生続くことです。私たちは肉体を持っているので心ならず罪を犯す時があります。私たちは罪を犯すたびにその罪によって苦しみます。しかし私たちが真実に自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。

 第三に、模範を示してくださったイエス様(12?17)。イエス様は、弟子達の足を洗いおわり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われました。12?15節をご覧ください。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」イエス様は先生であり、主ですから弟子達に仕えられるにふさわしい方です。ところがイエス様は奴隷のすることをなさいました。ここで私たちはイエス様の偉大な教育方法を学ぶことができます。イエス様は弟子達にいくらでも命令したり指示することができました。しかしイエス様はむしろ低くなられ彼らに仕えてくださることによって仕える模範を示してくださいました。

それでは互いに足を洗い合うことは何を意味するでしょうか。それは相手に深い関心を持って仕えることです。主に倣って、謙遜に愛を持って仕え合うことです。相手を尊く思い、弱点をになうことです。人々には誰にも長所を持っている反面短所も持っています。たとえばある人は体を動かす仕事は得意ですが、じっと座って勉強することは苦手です。ところがある人は学者のように勉強がよくできますが、体を動かして働くことはよくできません。一般的に人々は長所はねたみ、短所は無視したり、罪に定めます。しかし、イエス様の弟子は相手の長所を生かし、学び、短所は堪え忍びながら仕えるべきです。私たちは兄弟姉妹達には深い関心を持って仕えますが、信仰の同労者達に対しては要求する心が多くあります。同労者には自尊心のために先に低くなって仕えることが難しいです。一番愛し合うべき同労者を時には妬んだり憎んだりする時もあります。どうしても愛することのできない同労者もいます。しかしその同労者のためにもキリストはいのちを投げ出して愛を示しておられます。私たちがいくら多くの兄弟姉妹達に仕えていても一番近くにいる同労者に仕えることができなければ聖霊の器を作ることも神様の祝福を受けることもできません。ですから私たちは一番近くにいる信仰の同労者からまず深い関心を持って仕えることが大切です。

16、17節をご覧ください。イエス様は弟子達に祝福される秘訣を教えてくださいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」人々は仕えられることを好みます。しかし仕えられることを願っている人には不平不満が多く真の喜びがありません。反面イエス様に見習って自ら自分を低くして仕える人には真の喜びがあります。また、その人は、主から大きな祝福を頂くことができるのです。

 

?。新しい戒めをお与えになったイエス様(18ー38)

 

 第一に、イスカリオテ・ユダが悔い改めるように助けられたイエス様(18?30)。18?30節にはイスカリオテ・ユダの問題が出ています。18節をご覧ください。ユダが裏切ったのは聖書に書いてあることが成就することです。イエス様が前もってユダの裏切りを弟子達に話された理由は何でしょうか。それはイエス様がイスカリオテ・ユダの裏切りによって死なれるのではなく神様の御旨によることであることを悟らせるためでした(19)。彼の裏切りによって弟子達の間には疑いと不信が働き、共同体が壊れやすいでした。イエス様は彼を通して入ってきた悪魔と戦われました。イエス様はイスカリオテ・ユダに「わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」と言われました。イエス様はイスカリオテ・ユダのことで霊の激動を感じ、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」と直接的に言われました(21)。弟子達は、それを聞いてショックを受けて、互いに顔を見合わせていました(22)。そこで、シモン・ペテロがヨハネに合図をして「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」と言いました。ヨハネがイエス様に質問すると、イエス様は「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」と答えてからパン切れを浸し、取って、イスカリオテ・ユダにお与えになりました(26)。しかし弟子達は誰もイエス様が言われたのが何のことか知りませんでした(28,29)。彼らはそれほどお互いに無関心でした。彼らはイスカリオテ・ユダが何を考えているのか全然知りませんでした。イエス様がイスカリオテ・ユダにパン切れを浸して与えたのは彼が悔い改めるように助けるためでした。その時、イスカリオテ・ユダはパン切れをもらわず、悔い改めるべきでした。しかし、彼は悔い改めず、パン切れを受けると、その時、サタンが彼に入りました。30節をご覧ください。「ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。」彼はやみの子供となりました。彼は、主の最後の愛の訴えを聞いても、悔い改めて主のみもとに帰る最後の機会を放棄してしまいました。

第二に、新しい戒めをお与えになったイエス様(31?38)。31節をご覧ください。ユダが出て行った時、イエス様は言われました。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」「人の子は栄光を受けました」とか、「神は人の子によって栄光をお受けになりました」と言っておられるのは、具体的に十字架上の死を指しています。神様が私たち人間の罪を御子イエス・キリストの十字架上の死によって処理してくださった出来事は、神様の栄光のための出来事ですから、それによって御子も御父も栄光を受けられるのです。イエス様はイスカリオテ・ユダの問題を失敗としてご覧にならず、神様の御旨がなしとげられることとしてご覧になりました。イエス様は十字架を通して来る復活の栄光をご覧になりました。

 イスカリオテ・ユダの問題は互いに愛し合うことに障害物になりました。それでイエス様はそれを取り除き、新しい戒めを与えてくださいました。34節をご覧ください。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」主はこれを「新しい戒め」と言っていますが、どうしてこれが「新しい戒め」なのでしょうか。旧約聖書の戒めでは、「あなた自身のように愛しなさい」でした。つまり、自分を愛するのと同じ程度に愛しなさいということでした。しかし、主の新しい戒めでは、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というのです。主は弟子達の足を洗われました。主は愛を実践なさいました。その主に見習うようにというのが、主のこの新しい戒めの特徴です。主のように自己犠牲の愛を持って、兄弟姉妹達に仕えることです。この愛は生まれながらの人がいくらまねをしようとしてもできるものではありません。必ず行き詰まってしまいます。それは、キリストの十字架上の死によって示された神の愛を頂いた者にだけできる愛です。愛することは感情の問題ではなく信仰の問題です。ですから私たちはイエス様の御言葉に聞き従わなければなりません。その時に愛らしくない人も愛することができます。

35節をご覧ください。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」弟子達は互いに争ったり、競争したりする対象ではなく、互いに愛し合う対象です。ペテロとヨハネは互いに激しく競争する相手でした。しかし彼らはイエス様の新しい戒めに従って互いに愛し合い、同労する対象となりました。彼らの美しい同労によって使徒の働きのみわざが起こりました。使徒ペテロは愛の秘密を悟って迫害によって散らされているクリスチャン達に次のように言いました。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(?ペテロ4:8)。また著者ヨハネもペテロのことでいつもセカンドマンとなることで苦しんでいましたが、後に愛の使徒となって次のように勧めました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」(?ヨハネ4:7)。

 結論、私たちが住んでいるこの世は多くの問題を抱えています。しかし何よりも深刻な問題は愛の問題です。私たちがイエス様の新しい戒めに聞き従うとき、勝利の人生、実を結ぶ祝福の人生を過ごすことができます。そして真に幸せな人生を過ごすことができます。主が私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われた御言葉を実践できる力を与えてくださるように祈ります。