2001年マタイの福音書第23講

天の御国で一番偉い人 

御言葉:マタイの福音書18:1?35

要 節:マタイの福音書18:4「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」

 今日の御言葉は真に偉い人はどんな人であるかを教えてくれます。人は誰でも偉くなりたいと思っています。私たちも偉い人になることを願います。この時間、どんな人が一番偉い人であるかについて学び、私たちも真に偉い人になることができるように祈ります。

?.天の御国で一番偉い人(1-14)

1節をご覧ください。そのとき、弟子たちがイエス様のところに来て言いました。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そのときは宮の納入金の出来事に引き続いてのことです。納入金を集める人がペテロに質問して来たのは、彼らがペテロを弟子たちの指導者と認めていたからでしょう。このことは、「誰が一番偉いのでしょうか」という質問のきっかけになったと考えられます。マルコの福音書によると、この議論はすでにカペナウムに来る途中で起こっていたので、納入金の件はそれをさらに刺激する結果になりました。弟子たちはみな偉くなりたいと思いました。ペテロはペテロなりに、ヨハネはヨハネなりに、ヤコブはヤコブなりに一番偉くなりたいと思い、互いに激しく競争していました。「誰が一番偉いか」この弟子たちの質問はすべての人々が持っている質問でもあります。神様は天地万物を創造し、万物を治める者として人を造られました。それで人は誰でも偉い人になりたい欲望を持っています。一般的に人々が考えている偉い人とは、人々の上に君臨して命令する人です。弟子たちもこのような世の価値観に従って偉くなりたいと思っていました。彼らはメシヤ王国での自分の席に強い関心を持っていました。

それではイエス様は、どんな人が天の御国で一番偉い人である、と言われますか。2-4節をご覧ください。そこで、イエス様は小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」イエス様はまず弟子達が悔い改めて子供たちのようにならない限り、決して天の御国には、入れないと言われます。天の御国に入る門は狭い門ですから、自分を低くしなければ入れません。悔い改めては方向転換をする意味です。子供たちは単純であり、従順します。心が純粋であり、真実です。子供たちは自分の弱さを知っているので親に頼ります。自分の足りなさを知っているので絶えず聞いて学びます。子供たちは一言で謙遜です。弟子たちは偉くなりたいと高慢になっている心を変えて子供たちのように自分を低くしなければなりません。「自分を低くする者」についてマルコの福音書には、「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(マルコ9:35)とあります。天の御国では自分を低くする者が、一番偉い人です。自分を低くするためには自分が神様の御前でどれほど惨めな罪人であるかを深く悟り、悔い改めて聖霊の力によって生まれ変わらなければなりません。それは本質的な変化であり、人格の変化です。このように人格が変わって自分を低くする者が、真に偉い人です。この謙遜の奥義をイエス様は身を持って示されました。使徒パウロは偉くなりたいと争っているピリピの教会の人々に次のように勧めました。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:5?9)。謙遜こそ天の御国への入国条件であるとともに、そこでの席次を決める基準です。

誰が一番偉いのかと考える弟子たちは、子どものような小さい者を無視しやすいです。しかしイエス様は彼らが小さい者たちの一人に対してどのようにすることを願われますか。5節をご覧ください。「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」子どもには長所があるとともに受け入れにくい短所もあります。子どもは無力であり、軟弱な者です。子どもは相手の状態がどうであれ、自分に関心を持ってくれることを願います。親が疲れていてもおんぶして抱っこしてくれることを願います。掃除したばかりの部屋をすぐ散らかしてしまいます。子どもはとてもうるさいです。私たちは子どもたちをかわいがっていますが、弱点ばかり見えると受け入れにくいです。特に子どもに要求する心があれば小さな弱点も受け入れることができません。だれでも、このようなこどものひとりを、イエス様の御名のゆえに受け入れる者は、イエス様を受け入れることになります。「小さい者たち」とは、信仰を持って日の浅い子供の信徒、パウロの表現によるなら「信仰の弱い人」また「弱い人」を含みます。

これらの者たちを受け入れる代わりにつまずかせる、すなわち罪を犯させて不信仰や背信に陥れることに、イエス様は鋭い警告を与えます。6,7節をご覧ください。「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。」「大きい石臼」は、ろばに引かせて回転させる重い石臼のことです。この「大きい石臼」という表現は、人に罪を犯させることの恐ろしさ、その罰の大きさを示しています。「湖の深みで溺れ死んだほうがましです」は、その罪深さをさらに強調します。したがって、人を罪に陥れる者は忌まわしいものです。イエス様はこのように個人の責任を示すと同時に、世そのものが人を罪に陥れるものであることを指摘しています。文明社会と言われるものの中に人のつまずきとなる石は数え切れないほどです。したがって、この世もイエス様に、忌まわしいものとして非難されます。では、私たちは他の人につまずきを与えないために、自分に対してどれだけ厳格でなければなりませんか。8,9節をご覧ください。「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」個人の生活においても、教会においても、人を堕落させ、罪に誘惑するものは、苦痛を忍んでも断固として取り除かなければなりません。

10?14節は私たちが小さい者たちを、ひとりでも見下げてはいけない理由について言っています。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」この御言葉は父なる神様の小さい者たちへの特別の愛とあわれみを示されます。イエス様は迷える羊のたとえ話を通して小さい者、ひとりに対する神様のみこころを示されます。「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」イエス様は美しい迷える羊のたとえ話を話されます。羊がユダヤの高原の牧草地から迷い出し、谷に落ち込んで死ぬことがよくありました。こうした迷い出た羊を、羊飼いたちはその足跡をたよりに遠くまで捜しに行き、急斜面や岩の危険を冒し全力を尽くして捜し出し、連れ戻します。一匹の羊を捜すためにこれほど苦労することは愚かなことのように思われます。このたとえは、百匹の中の一匹の羊の値打ちは決して百分の一ではなく、やはり一匹としての値打ちがあること、すなわち一個人の尊厳と価値を示しています。

迷い出る小さい者たちは必ず出ます。しかし、その一人でも滅びることは神様のみこころではありません。一人一人神様の前にはかけがえのない存在だからです。エゼキエル33:11は次のように言っています。「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」イザヤ43: 4節は次のように言っています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」これが神様のみこころです。私たちは弟子養成をするので小さい者、ひとりを大切に思わない危険性があります。立派に見える人や丈夫に見える人だけに関心を持ちやすいです。しかし、弟子養成は罪によって弱り果てている小さい者をイエス様に導き、育てることです。私たちが迷える小さい者、ひとりを捜し出すことができるように祈ります。私たちの集まりが小さい者たちが生かされ、癒される集まりとなるように祈ります。

?.兄弟を赦しなさい(15-35)

クリスチャンの信仰生活の中で罪を犯した兄弟を赦すことは大切なことです。兄弟を赦す人は真に偉い人です。イエス様は罪を犯した者に対してとるべき態度を教えてくださいます。15節をご覧ください。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」イエス様はここで、罪を犯した兄弟にそのあやまちを認めさせ、その兄弟を回復させるために、あらゆる努力を尽くすべきことを勧め、その手順を示されます。まず第一に、行って、二人だけのところで忠告することです。忠告は、兄弟愛の配慮をもって、一対一で静かに、しかも厳粛にしなければなりません。私たちが罪を犯した兄弟のところに行くことはやさしいことではありません。そのためにはイエス様の赦しの愛と勇気が必要です。もし兄弟が聞き入れたら、その兄弟を得たことになります。

この第一段階の忠告が聞き入れられない場合は、第二段階として、二、三人の証人を連れて行って忠告します。これは、忠告が個人的な中傷でないことを相手に悟らせ、罪に気づいて悔い改めるよう導くためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、第三段階として、教会に告げます。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人や取税人のように扱います。すなわちキリスト者になる前の状態に逆戻りした者として扱います。このように教会から除名処分にしても、それは悔い改めて神に再び立ち返ることを祈って与える愛のむちです。

ここで見ると、教会は最終的権威を持っていることがわかります。18節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」神様は聖徒たちの集まりである教会に権威を与えてくださいました。その権威は聖徒たちが心を合わせて祈る祈りを通して現われます。19、20節をご覧ください。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」この御言葉は神様の御旨を熱心に求める者たちにイエス様は臨まれるという約束です。そして、御旨にかなった祈りは聞かれます。特にふたりでも三人でも、心を一つにして祈る祈りには力があります。初期UBFの信仰の先輩たちはよく心を合わせて祈りました。当時韓国では夜中には通行禁止になっていました。定期小会が遅くなり、通行禁止時間になってしまうと、先輩たちはそれが解除される夜中四時まで心を合わせて祈りながら夜を明かしました。このように心を合わせて祈る祈りは今日のようにUBFが成長する原動力になりました。小さい者が一人でも滅びることは神様のみこころではありません。ですから、迷える兄弟、罪を犯した者の回復のために心を合わせて祈る時に主はその祈りを聞いてくださいます。これこそ兄弟を得る道です。壊れた器に水を入れても無駄なことです。私たちが足りなくても心を合わせて祈る時に驚くべき聖霊のみわざが起こります。二学期の御業も心を合わせて祈る時に罪を犯した兄弟姉妹たちが悔い改めて新しく生まれ変わる御業が起こることを信じます。

21節をご覧ください。そのとき、ペテロがみもとに来て言いました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」罪を犯した兄弟を得ることは、赦しの問題につながります。ペテロは罪を犯した兄弟を赦すべきことを知っていました。彼は当時ユダヤ教のラビたちが教えていた三度まで赦すことをはるかに超えて、「七度まででしょうか」と言いました。彼はきわめて寛容な態度を表しています。だから彼は今度こそイエス様からほめられると期待していたでしょう。ところがイエス様は何と言われますか。22節をご覧ください。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」イエス様は「七度を七十倍するまで」と言われます。わー!7×70=490度。これは、回数を数える赦し方をやめて無限に赦すことが真の赦しであることを示しています。このような赦しこそクリスチャンの交わりの特徴です。私たちがどうやってこのようなことができるでしょうか。またなぜそのようにしなければならないでしょうか。イエス様は赦しに関する教訓を与えるために、一つのたとえを話されました。

23?27節をご覧ください。「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」一タラントは六千デナリです。一デナリは当時の農作業や労働の一日分の労賃に相当します。したがって一万タラントは、一般労働者には一生働いても儲けることのできない巨額の金です。イエス様は、人間一人一人が負っている罪の負債の大きさ、またそれが自分の持っているものすべてをもってしても償い切れないものであることを示されます。この負債はただ一方的な神様のあわれみによって赦されるほかありません。王はあわれみによって一万タラントの借りのあるしもべを赦し、借金を免除してやりました。しもべはまるで死刑宣告を受けた者が自由になったような心だったでした。彼は王から一生返しても返すことのできない恵みを受けました。

ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会いました。百デナリは一万タラントの六十万分の一です。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ。」と言いました。彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。」と言って頼みました。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れました。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話しました。そこで、主人は彼を呼びつけて言いました。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡しました。一万タラントの借金ですから、返済できる可能性はなく、彼は一生牢に入っていなければなりません。兄弟を赦さないことはそれほど大きな罪です。このたとえ話を言われたイエス様は結論として言われました。35節をご覧ください。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」兄弟を赦さない者は自分も赦しを受けることができません。

このたとえ話は私たちが神様に一万タラントの借りのある者であり、兄弟が私たちに対して持っている借金は百デナリに過ぎないことを教えています。この借金は罪を意味します。私たちが神様に対して犯した罪は私たちの力によってはどうしても返すことができない大きいものです。私たちはこの罪の借金によって一生苦しみながら生きるしかありません。ミッション・バラバのメンバーである鈴木牧師はヤクザの時に大きな借金ができてしまいました。彼はその借金を返すことができなかったので、自分の小指を切り落としながら「借金を返すのを猶予してもらいたい」と願いました。このように借金を負っている者は多くの苦しみを受けなければなりません。そして、罪の代価を払うために恐ろしい裁きを受けなければなりません。しかし、神様は私たちをあわれんでくださり、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って私たちの代わりに十字架につけられ死なれました。私たちのすべての借金を免除してくださったのです。そして、私たちには免除されえた者としての自由と喜びと平安を与えてくださいました。人間が神様に対してしたことに比べれば、人間同志がしたことは比較になりません。しかも、その神様が私たちを赦して下さったのであれば、私たちも互いに無限に赦し合わなければなりません。

 結論、天の御国で一番偉い人は自分を低くする人です。小さい者、ひとりを受け入れる人です。罪を犯した兄弟を心から赦す人です。私たちが罪人に仕えるためにご自分を捨てて人となられたイエス様に見習い、真に偉い人になることができるように祈ります。