1998年ヨハネの福音書?部第22講

 

一粒の麦イエス様

 

御言葉:ヨハネ福音書12:20ー50

要 節:ヨハネの福音書12:24

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死なれば、

それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 

 今日の御言葉は、有名な一粒の麦の真理に関する御言葉です。人は誰でも豊かな実を結ぶ人生を過ごすことを願っています。今日の御言葉は私達がどうやって豊かな実を結ぶことができるのかについて教えてくれます。イエス様は一粒の麦としてこの世に来られました。そして十字架につけられ死なれ多くの人々に命を与えてくださいました。この時間一粒の麦であるイエス様について学び、私達も豊かな実を結ぶ人になることができるように祈ります。

 

?。一粒の麦の真理(20ー24)

 

 20節をご覧ください。イエス様の地上生活最後の過越の祭りが近づいてきていました。祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいました。彼らはユダヤ教への改宗者として、過越の祭りに参加するために来たと思われます。?コリント1:22を見るとユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求すると言っています。彼らは真理を論じ、知恵を追求する人々でした。タレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの数多くの哲学者達がギリシヤから出ました。彼らは世の人々が迷信や無知の中にいるとき人生と宇宙の根本原理について考えました。彼らから最初に哲学的な思索が始まりました。また彼らから民主主義が起こり、ヘレニズムの文化が盛んになりました。また彼らは宗教性が強くありました。大抵理性的な人は宗教的になることを拒否します。しかし彼らは理性的でありながらも宗教的でした。彼らは魂の不滅を信じ、死後の世界に深い関心を持ちました。

 この人達がピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼みました。ピリポのところ来たのは、彼の名前がギリシヤ名でギリシヤ語が話せたからだと思います。彼らはイエス様が深い真理の御言葉を語り、多くのしるしを行なう方であることを聞いたでしょう。特にイエス様が死んだラザロをよみがえらせた事件は彼らには衝撃的なことでした。彼らはこのイエス様はどんな方なのか知りたいと思いました。そしてイエス様に会うことを願いました。それは単純な好奇心以上の霊的な望みでした。ピリポは同じベツサイダの人であるアンデレと相談し、二人でイエス様のところへ行ってギリシヤ人達の願いを伝えました(22)。

 イエス様は、このギリシヤ人達の願いを聞いた時、何と言われましたか。23節をご覧ください。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」イエス様は今まで「わたしの時はまだ来ていません。」(2:4、7:6、8:20)と言われました。しかし今は「わたしの時が来た。」と言われます。ここで時はイエス様が十字架につけられる時を意味しています。ところがイエス様はなぜ「わたしが十字架につけられ死ぬ時が来た。」と言われず、「わたしが栄光を受ける時が来た」と言われたでのしょうか。またなぜギリシヤ人達が尋ねて来たことを聞いた時、そのように言われたのでしょうか。ここで私達はイエス様について二つのことを学びたいと思います。

 第一に、イエス様は十字架の死を栄光としてご覧になりました。イエス様は大勢の人の群れの熱烈な歓迎を受けながらエルサレムに入城されました。その光景を見た宗教指導者達は「見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」と言いました(19)。人々はイスラエルの回復が近づいていると思いました。弟子達はメシヤ王国が建設されると自分達も大臣になる夢を見ていました。しかしその時イエス様は神様のみこころを考えておられました。神様のみこころはイエス様が人類の罪のために十字架につけられ死ぬことでした。十字架につけられ死ぬことは苦痛であり、のろいです。それは確かに敗北であり愚かなことです。しかしイエス様は十字架の死を栄光を受ける時だと思われました。それはイエス様が十字架につけられ死なれることによって人間の罪が赦され、栄光ある神の国に入る道が開かれるからです。人の死は罪の報酬ですが、イエス様の死は人の罪を贖うための死です。ですからイエス様の十字架は贖いの十字架であり、栄光の十字架です。敗北ではなく勝利の十字架です。また、十字架は無力で愚かなものではなく一番知恵あり力あるものです。使徒パウロは?コリント1:22ー24で次のように言いました。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」イエス様は十字架の奥義をご存じだったのでそれを栄光としてご覧になりました。

 第二に、イエス様は十字架の死を通して多くの実を結ぶビジョンをご覧になりました。ギリシヤ人は異邦人の代表です。イエス様の贖いの死によって、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に天国の門が開かれます。そして、異邦の地に散らされている神に選ばれた子達が新しいイスラエルに導き入れられ、永遠のいのちを与えられます。イエス様はギリシヤ人達が会いに来たことを聞いてイエス様の十字架による人類の救いのビジョンをご覧になりました。イエス様はこの真理を、自然界における真理を用いて分かりやすく述べられます。 

 24節をご覧ください。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」一粒の麦は小さくてみすぼらしいものです。それは、そのまま食べてしまえば、それだけのことです。しかしそれは多くの実を結ぶことができる無限な可能性を持っています。それは麦の中に生命があるからです。生命はほんとうに神秘的なものです。生命は単純に生きて動けることを言うのではありません。生命は必ず自分と同じ生命を複製させる生産性がなければなりません。成長し実を結ぶことは生命体の特徴です。農夫は一粒の麦が持っている生命力と可能性を知っているのでたんすの中に入れて置かず畑に蒔きます。地に蒔かれた種は根を降ろして水を吸収します。そして種にある栄養分を分解して芽生えさせます。それから成長して花を咲き、実を結ぶようになります。ここで大切なのは蒔かれた種が芽生え、自立的に成長するまでは種から栄養分を供給してもらうことです。芽生えて自立的に成長すると種は完全に分解されて殻だけが残ります。それが死ぬことです。死ぬ過程(プロセス)は全然見えませんが、その過程なしには決して実を結ぶことができません。ですから一粒の麦は、豊かな実を結ぶために、地に落ちて必ず死ななければなりません。死ぬことはなくなることではなく新しい生命を誕生させる過程です。

 一粒の麦を地に蒔くとその麦から芽が出、4ヶ月後には100?125粒の実が結ばれます。こうして5年後には100ー125億の実を結ぶようになります。それは200人が34年間食べられる食糧になります。このように一粒の麦の持っている力は大きいのです。ところがこのような多くの実を結ぶためには必ず地に落ちて100%完全に死ななければなりません。99%死んでもならず100%死ななければなりません。このように完全に死ぬと時になると豊かな実を結ぶようになります。

 この一粒の麦の真理はイエス様ご自身を指して言われたことです。イエス様は一粒の麦の真理を教えてくださるだけではなくそれを実行されました。イエス様は神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そしてご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました(ピリピ2:6、7)。またイエス様は人々から尊敬と栄光と仕えを受けるにふさわしい方ですがむしろ仕えるしもべとなり、罪人に仕えてくださいました。そのためにイエス様は多くの苦しみを受けられました。イエス様は地に落ちて100%完全に死なれる一粒の麦となられました。なぜイエス様はこのように死ななければならなかったのでしょうか。それはご自分の犠牲の死を通して全世界の人々に永遠の命を与えるためです。

 人はどうやって豊かな実を結ぶことができるでしょうか。イエス様はその奥義を私達に教えて下さいます。私達が実を結ぶためには地に落ちて死ぬ一粒の麦のようにならなければなりません。私達が実を結ぶためには自分を保護し守ろうとする心、自分を愛する心、自分の栄光を現わそうとする心などが完全に砕かれなければなりません。それは自分の存在を抹殺するのではなく新しい生命さらに豊かな生命を得るための過程です。それは苦しいことですがその苦しみは意味があり価値があります。一粒の麦が地に落ちて死ぬことは神様から与えられた使命のために自分を犠牲にすることです。人々は自分を犠牲にすることを好みません。また人々はどうすれば犠牲なしに多くの実を結ぶことができるかを考えます。しかし一粒の麦は地に落ちて死ななければ5年後にも10年後にも一粒そのままです。むしろ一粒さえも生命を失うようになります。これは変わらない自然界における真理です。私たちがイエス様のように自分を犠牲にする生活を通して豊かな実を結ぶことができるように祈ります。

 

?。永遠のいのちに至る道(25、26)

 

 一粒の麦と同じ摂理による法則は、私達クリスチャンにも適用されます。私たちの人生は一粒の麦のようです。私達には豊かな実を結ぶことができる生命力と無限な可能性があります。私達がイエス様の生涯を見習い、主と福音のために自分を犠牲にする時、豊かな実を結ぶ幸せな人生を送ることができます。しかし私たちは、どんな人でも犠牲を払うのを好みません。人々は実を結ぶことは願いながらも自分を犠牲にすることはいやがります。しかし、主に従って行こうと思うなら、一粒の麦にならなければなりません。何の犠牲もなしに、つまり一粒の麦となることなしに、兄弟姉妹を愛し、仕えることはできません。ヨハネの福音書12:24が好きな人は多くいますがそのような人生になることは好みません。なぜでしょうか。それは自分のいのちを愛するからです。人は誰にも自分のいのちに対する強い愛着心があります。それで自分を犠牲にすることを好まず、自分を失ってしまうのではないかと恐れます。しかしこのような人は結局どうなりますか。25節をご覧ください。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」私達のいのちは自分のために使うか、それとも主と福音のために使うか、どちらかに使わなければなりません。命を自分のために使う人は自分のいのちを愛する人です。「自分のいのちを愛する人」とは、この世における名誉、この世における財宝を大事にする人のことです。自分を愛し、利己的な、自己中心の生活をする人です。この世における自分の生活に執着し、それに最大の関心を持つ人は、永遠のいのちを失ってしまいます。死後には神様の裁きを受けるようになります。

しかしこの世で自分のいのちを憎む者はどうなりますか。自分のいのちを憎むことは自虐することではありません。それは利己的な自我を否認することでありこの世にならって生きる自己中心の生活を放棄することです。それは私達のいのちを一番価値あるところ、すなわち主と福音のために投資することです。いのちを救うみわざのために時間とお金と若さを犠牲にすることです。このような人はこの世でいつも損するようになり、自分を失う愚かな人のように見えます。しかし決してそうではありません。このような人はこの世でのしばらくのいのちを永遠のいのちを得るのに投資するから一番知恵ある人です。この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。一粒の麦となる道を選ぶ者を神様は報いてくださいます。これは真実なイエス様の約束です。この永遠のいのちへの約束の御言葉があるので私達は確信を持って主と福音のために自分を犠牲にすることができます。

 26節をご覧ください。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」イエス様に従うことは自分を捨てて自分の十字架を負ってイエス様に見習うことです。すなわちイエス様のように地に落ちて死ぬ一粒の麦のような人生を送ることを意味します。私達がイエス様に仕えるなら、父なる神様はその人に報いてくださいます。私達が主に仕えるために払う小さな犠牲も父なる神様は大きく祝福してくださいます。

 

?。十字架の死による御業(27ー50)

 第一に、イエス様の苦悩と覚悟(27ー29):27節をご覧ください。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。」人類の罪を一身に背負ってご自分のいのちをお捨てになる時が目前に迫るのを感じて、罪を知らない方であるイエス様は、心に瞬時の動揺を覚えられました。イエス様は十字架上の死がどんなに恐ろしいものであるかということを、実感として見抜いておられ、苦しみ通しておられました。主が悩み苦しんでおられたのは、決して十字架上での肉体の苦しみのことではありません。死ぬために天からこの世に来られた主イエス・キリストは、人類の罪を背負い、その刑罰が、どんなに恐ろしいものであるかということをご存じでした。ですからイエス様の心は騒いでいました。しかし、その心の動揺は瞬時のことでした。イエス様はご自分を捨てて神様のみこころに従われました。「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」イエス様は極度の苦しみの中でも十字架を負われることを断固と決意されました。イエス様は十字架につけられ死なれるまでに神様の御心に従い、神様の栄光を現そうとされました。イエス様はご自分の生涯を通して神様の栄光を現されました。今度イエス様はご自分の死によって神様の栄光を現そうとされました。神様はイエス様を通してすでに栄光を受けられたし、またもう一度栄光を現します。神様はイエス様を死者の中からよみがえらせ、万民の救い主として立てられます。

 第二に、十字架の死による御業(30ー33):イエス様は十字架の死によって起こる御業に対して言われます。31節をご覧ください。「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」「この世を支配する者」はサタンを意味します。イエス様が十字架につけられることによってアダムの堕落に起因する人間の罪の悲惨な状況は逆転するようになります。人は不従順のゆえに楽園から追放されて、この世を支配するサタンの手に渡されました。しかし今や、十字架におけるイエス様の全き従順のゆえに、サタンはその支配権を奪い去られてしまいます。32節をご覧ください。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエス様は十字架に上げられ、さらに復活の勝利によって天に上げられ罪とサタンの奴隷になっていた私達を解放して永遠のいのちの世界に導いてくださいます。

 第三に、光への招き(34ー50):イエス様が十字架の死による救いの御業を言われましたが群衆は十字架につけられる王には従いたくありませんでした。それで彼らは、「どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。」(34)と、イエス様に食って掛かりました。このような彼らにイエス様は最後の訴えをされました。「あなたがたに光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい。」(36a)。イエス様を信じない人は根本的に闇に捕われています。彼らは自分が何をしているのか、自分はどこから来てどこに行くのかを知りません。罪を犯しながらも罪の結果がどれほど恐ろしいかを知りません。闇の勢力に支配されている人は自らの力と意志によっては免れることができません。彼らには光が必要です。彼らが世の光としてこの世に来られたイエス様を信じる時、闇の勢力は過ぎ去って光の子供になることができます。「闇に征服されてしまわないために、今光であるわたしを信じなさい」と主は訴えておられます。46節でイエス様は言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」イエス様は世をさばくために来られたのではなく、世を救うために来られました(47)。

 一粒の麦としてご自分を完全に犠牲にされ私達に永遠のいのちを与えてくださったイエス様に感謝と賛美を捧げます。私達も地に落ちて死ぬ一粒の麦となり豊かな実を結ぶことができるように祈ります。