1998年 ヨハネの福音書?部第2講

 

恵みとまことに満ちておられたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書1:6ー18

要 節:ヨハネの福音書1:14

「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。

父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

先週、私達はよみがえりであり、いのちであるイエス様について学びました。今日は人としてこの世に来られたイエス様はどんな方なのか、イエス様を信じる人々に与えられる特権とは何かについて学びます。この時間、恵みとまことに満ちておられたイエス・キリストから恵みとまことを豊かに頂くことができるように祈ります。

 

?。まことの光であるイエス様(6ー13)

 

 6?8節をご覧下さい。著者ヨハネはイエス様の証し人としてのバプテスマのヨハネを紹介しながらイエス様はまことの光であることを説明しています。当時、ヨハネは彼の霊的な影響力と国民的な人気のために人々に光のように見えました。また、民衆は、みな心の中で、彼がキリストではあるまいか、と考えていました。しかし、彼はまことの光ではありませんでした。それでは彼はどんな人でしたか。6、7節をご覧下さい。「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」これが、神様から遣わされたヨハネの使命です。イエス様は真の光であり、ヨハネは、その光についてあかしするために来たのです。私達クリスチャンもまた、いのちの光であるキリストをあかしするべき使命を与えられています。いのちの光であるキリストを私達があかしするのは、私達がキリストを信じることによって、いのちの光を与えられたからです。キリストを信じる前の私達は霊的に死んでいた者たちでした。人生の目的も目標もないまま、暗闇の中を歩いていました。神様はこのような私達をやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださいました。それは神様のすばらしいみわざを、宣べ伝えるためです。イエス様はこの世に光として来られ、人々を照らしておられます。

 ところが、やみの中にいる人々は自ら光のほうに来ることができません。それはやみの勢力が彼らを捕らえているからです。ですから私達は彼らが光を知り、受け入れるように光であるイエス様を証しなければなりません。キリストによっていのちの光が与えられた私達は、ただ自分だけが正しい道を歩んでいくことで満足せず、私達が正しい道を歩んでいけるように導いてくださるいのちの光であるキリストを、人々にあかしする責任と使命とが与えられています。それではイエス様はどんな光ですか。

 9節をご覧下さい。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」

ここで「まことの光」とは「部分的な」とか、「不完全な」に対する「本当の」とか、「完全な」という意味です。キリストはやみの世界に輝く唯一の本当の光であり、完全な光です。確かにこの世界には、私達の生活を明るくする光とも言うべきものがいくつもあります。多くの人々は科学がそうであると思っています。確かに科学は私達の生活を潤わせてくれ、病気で死ぬ人の数も減って、私達の国が男女とも平均寿命世界一になっています。それなのに、日本人はみな幸福な生活をしているかと言うと、決してそうではありません。物質的には豊かなになり、思想的には自由になっても、それは人間を幸福にする一面でしかなく、人間を本当に幸福にするには、もっと重要な面があることを知らなければなりません。人が生きていくのに必要な本当の光を知らなければなりません。人間はどんなに知的に優れようが、経済的に富み栄えようが、自由を享受しようが、そんなことだけで幸福になることはできません。私達人間が人間として生きていくのに必要な光は、ただ神様から来るのですし、キリストこそ、そのいのちの光としてこの世に来ようとしておられました。まことの光を受け入れる時、いのちの光を得、輝く人生を過ごすことができます。まことの光を受け入れると死んだたましいが生き返ります。

先週復活祭の雄弁大会の時、小田広兄弟は自分を変えてくださった神様を証しました。彼は名門東大に入ることができましたが、決して幸せではありませんでした。彼は鬱病にかかって何日間も外に出ないで暗い部屋の中に閉じこもっていたと言いました。たぶん顔も暗かったでしょう。神様はこのような彼をまことの光の中に導いてくださいました。まことの光であるイエス様を受け入れた彼はすべてが新しくなりました。今の彼の顔を見てください。輝いていませんか。彼は今は東大キャンパスでバプテスマのヨハネのようにまことの光であるイエス・キリストを証しています。John Newtonは奴隷の商売人でした。彼はお金を儲けるために人を売ったり殺したりしました。しかし、ある日、聖書の御言葉を読んだ時、イエス様の光が彼の心を照らしました。彼は心を開き、光であるイエス・キリストを受け入れました。すると、彼は暗闇から光の世界に導かれました。その後、彼はやみの中にいる人々にまことの光であるイエス様を証する人となりました。彼が自分のようなものを救って下さった神様の恵みを覚えてつくった賛美歌が有名な「amazing grace」です。「おどろくばかりのめぐみなりきこのみの汚れをしれるわれに」イエス様はすべての人を照らすまことの光です。この時間も、イエス様は私達を驚くべきご自分の光の世界に招いておられます。誰でもこのイエス様を受け入れる人は、もうやみの力が支配することができません。その人は光輝く人生を過ごすようになります。

10、11節をご覧下さい。まことの光が来た時、人々の反応はどうでしたか。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」この方は、この世界の造り主であられるにもかかわらず、この世の人々はキリストがこの世に来られた時、キリストを認めることができませんでした。なぜ人々は造り主であるキリストを認められなかったのでしょうか。それは、人が罪を犯したため、キリストから離れていて、キリストを認めたくなかったからです。やみを愛していて、光のほうに来るとその行いが明るみに出されることを恐れたからです。真理を真理として認めるには、その人の心の態度が非常に重要です。初めから、偏見を持っている人は、決して真理を真理として認めることができません。まるでその人は太陽が上り、明るくなっているのにも関わらず、自分の偏見というカーテンをしめて暗い部屋の中に閉じこもっていることと同じです。

しかし、イエス様を受け入れる者にはどんな特権が与えられますか。12節をご覧下さい。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」イエス・キリストを信じさえすれば、たといイスラエルの民でなくても、神の子供としていただくことができます。たとい誰であれ、謙遜にキリストを自分の救い主として受け入れる人は、神様が恵みによって、神様の子供としての特権を与えてくださいます。それは、神様がその権威をもって与えてくださる特別な恵みです。王の子供は生まれながら王子となり、大きな特権が与えられます。それなら全世界の造り主、王の王である神様の子供となることはどんなに大きな特権でしょうか。クリスチャンは神様を父と呼ぶことができます。父なる神様は子供を愛し、保護し、必要なものを与えてくださいます。それだけではありません。神様の相続人として神の国を相続するようになります。ローマ8:17にはこう書いてあります。「もし子供であるなら、相続人でもあります。私達がキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私達は神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」ですから、神様の子供になることは世の中で一番大きな特権であり、祝福です。

しかも、それは「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのです。」この特権は親の身分や地位によるのではありません。人間の願望によるものでもありません。人間の意志によるものでもありません。ユダヤ人達は、自分たちの先祖にアブラハムがあり、そのアブラハムの偉大さのゆえに、その子孫である自分たちは神の子供になれるのだと考えていました。しかし、ただ、神様のみこころによって神様の子供とされるのです。イエス・キリストを信じる人を神様は一方的な恵みによってご自分の子供としてくださるのです。これは真実な神様の約束です。

 

?。恵みとまことに満ちておられるイエス様(14ー18)

 

14節をご一緒に読んでみましょう。「ことばは人となって、私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」神様の厳しい義によると、イエス様は創造主の大いなる力を持ってすべての罪人を滅ぼすしかありませんでした。しかし、イエス様はそのようになさいませんでした。むしろイエス様は罪人達を救うために人の姿をとってこの世に来られました。ここで、私達は人間の姿をとって来られたイエス様から二つのことを学ぶことができます。

第一に、イエス様は恵みに満ちておられる方です。イエス様は創造主として栄光と誉れと賛美を受けるにふさわしい方です。しかし、イエス様はそのすべての栄光と誉れと神の御国までも捨てられました。これはイエス様にとっては言い尽くせない犠牲ですが、私達にとっては計り知れない大きな恵みです。誰も自分のものが失われるのを望みません。人々は権力と富と名誉を得るために絶えず戦って来ました。そして、一旦それらを手に入れると失わないために何でもします。そのために権力や富や名誉を最大限に利用しようとします。しかし、イエス様は神様としてのすべての栄光と権力を捨ててこの世に来られました。イエス様はすべてのものを放棄されました。それは罪人達に向かった大きな愛のためです。

イエス様がこの世に来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためでした(マルコ10:45)。神様が罪人に仕えるためにしもべとなられたのです。何と大きな謙遜と犠牲でしょうか。パウロはこのイエス様について次のように言いました。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6?8)。ご自分を低くし、いのちまでも犠牲にされたイエス様は恵みに満ちておられました。高慢な人はいつも不平、不満、つぶやきに満ちています。しかし、イエス様に見習って謙遜になり、自分を犠牲にする人は恵みに満ちています。彼の口からは感謝と賛美が溢れて出てきます。李ヨシュア宣教師は先月胃の検査のために胃カメラを入れる時、医者の過ちでのどが傷つけられました。そのためヨシュア宣教師は2週間も水も飲めず、何も食べられず入院生活をしました。普通このような状況なら過ちを犯した医者を憎み、病院生活はつぶやきで満ちた生活をするはずです。しかし、昨日の所感を聞いて見ると、全くそうではありませんでした。むしろ、入院することによって体全体の検査をすることができたことを感謝し、静かに聖書を読む時間が与えられたことを感謝していました。体重が6キロ減ったことを感謝していました。どうやってこのようなことができるでしょうか。それは李ヨシュア宣教師が恵みに満ちておられるイエス様を知っているからです。私達が人となられたイエス様の謙遜と犠牲を学び、恵みに満たされるように祈ります。

 第二に、イエス様はまことに満ちておられる方です。ここで「まこと」とは神様は契約を守ることにおいて真実であられることを表しています。イエス様をこの世に送って下さったのは神様の真実性を表していることです。神様は、私達人間に対して、救いの約束をしてくださいました。その救いの約束とは、神様が御子をこの世に遣わして、私達罪人の受けなければならない罪の裁きを、御子が身代わりに受けることによって、私達を救ってくださるというものでした。その驚くべき救いの約束を果たすために、神様は御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わしてくださったのです。ですから、イエス様が人としてこの世に来られたということ自体、神様の真実性を現しているのです。

それでは私達はどのようにしてイエス様がまことに満ちておられることがわかるでしょうか。私達もイエス様のうちに留まるとき、聖書の約束、聖書の御言葉が真実であることを知ることができます。ヨハネの福音書8:31,32節でイエス様は次のように言われました。「もし、あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」一言の聖書の御言葉でも信じて従って見てください。そうすると、その御言葉が真実であることがわかります。

16節をご覧下さい。「私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、一つ恵みを受けたら、それでおしまいではなく、その代わりにまた新しい恵みを受けるということです。それはちょうど泉から水が湧き出てくるように、尽きぬ恵みをキリストからいただくことができるという意味です。著者ヨハネはこのことを誰よりも深く体験したようです。四福音書の著者の中で彼は誰よりも遅くイエス様のことを書き記しました。それは伝説によると、一日でも早く書いてしまうと次々と湧き出て来るキリストの恵みを落としてしまうからでした。彼は一日でも遅く福音書を書くことによって恵みの上にさらに恵みを与えてくださるキリストを体験し、その深い霊的な意味を書き記したかったのです。しかし、これはヨハネだけの告白ではありません。クリスチャンはだれでも、イエス様のうちにとどまっているなら、恵みの代わりにまた恵みをくださるイエス様を体験することができます。ダビデはこの神様の恵みを体験して有名な詩篇23篇で次のように主を賛美しました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」私はダビデがこの詩篇の中で「私の杯はあふれています。」と告白したように主の恵みを体験しました。10年前日本に来るときに私は腰が痛くても走ることも長く座っていることもできませんでした。その時、私は生活費として10万円しか持って来なかったのですぐアルバイトをしなければならない状況でした。しかし、日本語はほとんど話すことができなかったし、体は弱かったので主の恵みと哀れみを求めるしかありませんでした。神様は私に恵みを施し、自立できるアルバイトも与え、腰も癒してくださいました。私はこの神様の恵みを覚えながらダビデのように「私の杯はあふれています。これで十分です。」と思った時がありました。神様は弱い私を顧みてくださり、今まで大きな恵みを与えてくださいました。10周年記念礼拝の時、歌った「か弱きものをも顧みたもう。わが主の恵みはこの身にたれり。」が私に臨まれた神様の恵みを現しています。ところが、このように溢れていたはずの恵みも主から離れると枯れてしまいます。それほど感謝していた口からはいつの間にかつぶきが出るし、心はいらいらします。私が一日でも主から離れては惨めな者になってしまいます。私が日々祈り、聖書の御言葉を黙想する中で主の恵みを覚えて感謝の生活ができるように祈ります。

18節をご覧下さい。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」肉眼で神様を見ることはできません。そこで、神様は御子を人としてこの世に送られ、私達に、神様とはどういう方で、どういうことを私達のためにしてくださるかを啓示してくださいました。私達がヨハネの福音書の学びを通してイエス・キリストをよく知り、その方との生きた交わりを通して、恵みとまことを豊かに頂き、さらに大きく成長していくことができるように祈ります。

結論、人となってこの世に来られたイエス様は恵みとまことに満ちておられました。このキリストの恵みとまことが私達の心の中に満ちあふれるように祈ります。