2001年マタイの福音書第18講

天の御国のたとえ

御言葉:マタイの福音書13:24?58

要 節:マタイの福音書13:44「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」

 先週私達はイエス様の種蒔きのたとえについて学びました。私達が神様を信じて三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人生になったことは何とすばらしいことでしょうか。今日の御言葉には13章に出ている天の御国についての七つのたとえの中で毒麦、からし種、パン種、隠された宝、良い真珠、地引き網のたとえが出ています。イエス様は毒麦のたとえを通してこの世に善と悪が共存する問題とからし種とパン種のたとえを通して教会の外的な成長と内的な変化のみわざを語られました。そして、隠された宝と良い真珠のたとえを通して天の御国の価値とそれを所有する者の喜びを、地引き網のたとえを通しては教会の裁きを語られました。本文を通して神の国の発展と成長に対する奥義を悟り、最後の勝利に対する確信を持って主の御業に仕えることができるように祈ります。

?。毒麦のたとえ(24ー30、36ー43)

 天の御国はどんな人のようですか。24-26節をご覧ください。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実った時、毒麦も現われた。」ここで言っている毒麦は食べると吐き出したり、下痢をしたりして死ぬ場合もあるそうです。敵は人々が眠っている間に、毒麦を蒔きました。悪意を持つ人が相手の畑に毒麦を蒔くということは、当時実際にありました。この敵は闇を愛する者で、邪魔者です。彼の心には主人に対する妬みと悪意で満ちています。それで毒麦を蒔いて主人の農事を邪魔しようとしました。毒麦が一緒に出たのを見たその家の主人のしもべたちが来て主人に言いました。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言いました。『敵のやったことです。』主人は敵のやったことがすぐわかりました。すると、しもべたちは言いました。『では、私達が行ってそれを抜き集めましょうか。』しかし主人は何と言いましたか。29節をご覧ください。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人達に、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』毒麦は、育って穂が出て来ると、麦の穂よりひげが長く、色も黒くなって麦と区別しやすくなりますが、それ以前は、区別することが難しいです。そこで、草取りをする農夫も、収穫の時まで両方ともそのままにしておきます。良い麦を毒麦と間違える恐れがあり、また根がからみ合っているので、毒麦を抜く時に麦を抜いてしまうことがあるからです。

 それではこのたとえが天の御国について教えてくれることは何でしょうか。36節を見るとイエス様が群衆と別れて家に入られた時、弟子達がみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言いました。それでイエス様は37ー43節で答えて言われました。良い種を蒔く者は人の子、すなわち福音の種を蒔くイエス様のことです。また、畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子供達のことです。毒麦とは悪魔の子供たち、すなわち、天の御国が提供されているのに、それを拒絶している者達、イエス様の到来によってもたらされた光を拒んで、やみを選んだ者達のことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。このたとえを通して三つのことを考えてみましょう。

 第一に、この世には善と悪が共存するということです。良い種による教会の交わりの中に、どこから入って来たかと思われる毒麦が育ちます。その毒麦は教会の分裂を起こします。サタンは何の働きも成長もないところはそのままほうっておきます。しかし、福音の御業がある所は妬んでそのままほうっておきません。何とかして邪魔して来ます。神様は御言葉を宣べ伝える人々を通して福音の種を蒔いておられます。それによって人々は新しく生まれ変っています。ところが、悪魔も毒麦を蒔くことによって神様の御業を妨害しています。私達は今年の大きな御業であるSBCを準備しています。今年も聖霊の力強い働きによって多くの人々が悔い改めて神の国を所有するSBCとなるでしょう。それを知っているサタンはいろいろな方法で邪魔しようとすると思います。しかし、私達が心を合わせて祈る時に主はサタンの邪魔から守り、圧倒的な勝利を与えてくださることを信じます。

 第二に、神様が悪い者を裁かず、そのままにして置くのは選んだ子供達を守るためです。人々はこう言います。「神様がおられるなら、なぜこの世に悪が存在するのか。」「なぜ神様はあんなに悪い人をすぐ裁かないのか。」ある人は「神は死んだ」とも言います。このように言う人々は神様の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのです。彼らはかたくなさと悔い改めのない心のゆえに、神様の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神様は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります(ローマ2:4-6)。

 第三に、世の終わりに悪い人が受ける裁きと正しい人が受ける栄光が何かを言ってくれます。41、42節をご覧ください。この世の終わりにイエス様はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者達をみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。パレスチナでは毒麦の束を燃料に用いました。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。しかしそのとき、正しい者達はどうなりますか。43節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、正しい者達は、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」雲が取り去られて太陽が輝くように、悪魔の子らが取り去られた時、神様の義にあずかる者達も新しい天と新しい地にあって輝きます。ダニエル書12:3は次のように言っています。「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」マタイ17章を見ると変貌山でのイエス様の姿について「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」と記しています(17:2)。私達は過去顔に輝きがありませんでした。しかしイエス様を信じてからは顔が輝くようになりました。顔だけではなく目も輝きます。世の終わりの時、私達はみな太陽のように輝き、イエス様のように栄光の姿に変えられます。

?。からし種とパン種のたとえ(31ー35)

 それではサタンの邪魔にもかかわらず神の国はどのように成長しますか。31、32節をご覧ください。イエス様は、また別のたとえを彼らに示して言われました。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」からし種は最も小さい種ですが、3、4メートルもあるからし種の木に成長します。最も小さい種が、野菜のうち最も大きなものとなるのは天の御国の拡大する生命力について教えています。「空の鳥が来て、その枝に巣を作る」は、メシヤ王国を比喩して示す表現です。したがって、天の御国が世界大の広がりを持ち、ユダヤ人も異邦人も共にイエス様のみもとに集まるようになります。実際イエス・キリストの福音の御業は馬小屋から始まりました。また、当時の宗教指導者たちの迫害によってなくなってしまう恐れさえありました。しかし、イエス様は少しも焦ったり、恐れたりされませんでした。なぜなら福音の御業は今はからし種のように小さいものですが、必ず大きく成長することを確信しておられたからです。人類の歴史の中でキリスト教は数多く滅亡の危機に処せられました。ローマの迫害時代には十代の皇帝達が次々と迫害してキリスト教を滅ぼそうとしました。しかし神の国はエルサレムとユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで広がるようになりました(使徒1:8)。

 このからし種の御業は今も続いています。UBFのキャンパスでの福音の御業はこれから40年前李サムエル宣教師とサラ・ベリ宣教師によって始まりました。それはからし種のような小さいものでした。しかし、それは成長して今は世界87ヶ国に1、500名の宣教師達を派遣するようになりました。日本UBFの御業もからし種のようなものでした。これから13年前に6畳の部屋で二人が集まって礼拝を捧げました。しかし、今はこの国に90人の宣教師たちが派遣されており、20支部が開拓されています。私は成長していた牧者や宣教師達が教会から離れる時には大きく成長するだろうかと心配する時もありました。しかし、神様は少なくても残った人々を通して主の御業を成し遂げてくださることを学びます。からし種のような福音の御業にはいのちがあり、必ず成長することを学びます。神様がこの国に始められたキャンパスの福音の御業はどんな試練があっても必ず大きく成長し、多くの人々が救いに導かれることを信じます。ヨブ記8:7に「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。」とあるようにこの国の福音の御業も必ずはなはだ大きくなり、この国が王である祭司、聖なる国民となることを信じます。

 それでは神の国の内的な影響力について考えてみましょう。33節をご覧ください。イエス様は、また別のたとえを話されました。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」パン種はイーストです。パン種はパン粉の中に入れるとその存在すらわかりませんが、やがてパン全体に浸透して、それを柔らかくし、ふくらませる力を持っています。そのパンの2%だけのパン種を入れるとそのパンを四倍にふくらませる力があります。天の御国の福音は人を変える力があります。どんな人でもその人の心に福音の種が蒔かれると新しく変えられます。また、福音の力は一人から家庭を変え、社会を変え、ついには国を変える力があります。このように天の御国はパン種のように広がり、人を変える力を持っています。使徒パウロを考えて見てください。彼一人が福音を受け入れ変化した時、エルサレムが騒ぎ出しました。アンテオケが変わり、エペソの魔術師達が変わりました。すべてのアジヤの人々が福音を聞いて変わりました。また、ローマが変わりました。キリスト教学生運動史を見ると福音を受け入れた小数の大学生達が堕落した国を変え、歴史の流れを変えたことがわかります。

 私達はキャンパスのパン種です。私達はキャンパスの学生達に福音を宣べ伝え、彼らを弟子養成することを目標としています。それは福音によってキャンパスを変え、この国を変えるためです。からし種とパン種の共通点は、初めは人の目にもとまらないほど小さいものですが、驚くべき生命力を宿している点です。からし種は外的に成長・拡大し、パン種は内的に変革力を持っています。福音はすべての信じる者に救いをもたらす神の力です。福音はどんな思想も理論も打ち破る力があります。いくら時代が変わり、この世に悪の勢力が力強く働いていても福音はパン種のように広がり、この国のキャンパスを変え、この国を変える力があります。

 イエス様は、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話になりませんでした。それは、預言者を通して言われた事が成就するためでした。

?。宝のたとえ(44ー52)

 44節をご覧ください。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」「畑に隠された宝のたとえ」は、すべてを犠牲にしても求めるべき天の御国の貴重な価値を語っています。このたとえの教えようとすることは、天の御国の持つ桁違いの値打ちは発見者に大きな喜びをもたらし、全財産を売り払ってもそれを獲得しようとさせること、またそれだけの価値のあるものであるということです。パウロはコロサイ2:3でキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されていると言いました。キリストは宝です。宝であるキリストを見つけた人は非常に喜び、自分のすべてを犠牲にしても従います。キリストはこの世のどんな宝にもまさる宝だからです。

 また、45、46節をご覧ください。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値打ちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」「畑に隠された宝」の場合、偶然に発見したという印象を受けますが、今度の場合は苦労して捜し回った結果です。天の御国が発見されることも偶然の出来事のように信じる者もいれば、長い求道の後に初めて信じる者もいます。ところが発見した喜びだけにとどまっていて、犠牲を払うことを忘れ、あるいはなおざりにしていたのでは、天の御国の価値を知ることができません。その人は天の御国の価値を安物のように思います。しかし、犠牲のあるところに真の信仰があります。イエス様は良い真珠のような方です。このキリストを見つけたら以前尊く持っていたものの意味がなくなります。まるで月は太陽が上るとその光を失ってしまうようなことと同じです。使徒パウロはイエス様を信じる人々を逮捕するためにダマスコに行く途中復活されたイエス様に出会いました。そして自分が迫害していたイエス様が尊い真珠のような方であることがわかりました。その時から彼は今まで自分が尊く思っていたすべての富や知識や名誉をちりあくたのように思いました(ピリピ3:8)。そして自分の全生涯を捧げてイエス様を証ししました。

 人々はみな宝を捜しています。お金を宝として思いそれを捜すのに自分の全生涯を投資する人もいます。名誉や愛を宝として捜し求めている人もいます。学問を宝と思う人もいます。もちろんそれらのものはその人にとって宝のようなものです。それを見つけた時には喜びや満足もあります。ところが、それらのものが自分のすべてのもの、いのちを犠牲にして捜し求めるほどの価値ある宝でしょうか。ある人が目標としていた社会的な地位を得たとしましょう。その人にはある程度の満足感や喜びがあるでしょう。しかし、その満足感と喜びが長くは続きません。その人はすぐ虚しさを感じるようになります。ある人は夢見ていた自分の家を建てました。ところがその時から彼は生きる意味を失ってしまいました。イエス・キリストは最高の宝です。私達のすべてを犠牲にしても惜しむことがない方です。このイエス様を見つけた人々はイエス様を得るために惜しまず自分の人生を投資しました。そして決して後悔しませんでした。サラ・ベリ宣教師はアメリカの大富豪の一人娘でした。彼女はいくらでも豊かな生活をすることができました。しかし、イエス様を信じてから宣教師として韓国に派遣されました。当時ほとんどのアメリカの宣教師達は良い家で暮らしながら宣教活動をしましたが、彼女は貧しい韓国の大学生達と狭い家で共同生活をしながらキムチを食べました。彼女は貧しくて傷ついた韓国の大学生達の霊的な母であり、牧者となるために70歳を過ぎた今も結婚をせず、主の御業に献身しています。彼女は宝であるイエス様を見つけたからです。

 47ー50節は地引き網のたとえです。「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、座り込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」このたとえは、最後の審判についての厳粛な警告です。地引き網は福音宣教の網です。あるいは教会です。この網は良いものも悪いものもすべて含みます。そして、毒麦の場合と同じように、最後の審判の時に、御使いたちによって両者の間は最終的に分離されます。私達は福音宣教の網にかかったことで満足していてはならず、良いものと悪いものが分けられる日に御国に属し、主に知られた者となるために、不義を離れなければなりません(?テモテ2:19)。イエス様の十字架と復活の福音を受け入れなければなりません。この世の終わりには御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者を選り分け、火の燃える炉に投げ込みます。ですから福音を聞いたからといって、あるいは教会に通っているからといって満足してはいけません。最後の日に正しいと認められるのはイエス・キリストに対する信仰があるかどうかです。私達はイエス様を信じて悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。その人は神の国を所有することができます。

 51、52節をご覧ください。天の御国についての七つのたとえを話されたイエス様は弟子達に言われました。「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」すると弟子達は「はい。」と答えました。そこで、イエス様は言われました。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」この比喩は、天の御国についての七つのたとえの結びです。弟子達は、天の御国の啓示にあずかった者となり、その意味においてまさに新しいものでも古い物でも取り出すことのできる、豊かな御国の知識を持つ学者とされたのです。新しい物とは、イエス様がこの世に来られたことによって初めて明確に啓示された福音です。古い物とは、世の初めから隠されていた奥義、すなわち旧約の聖書です。私達も旧約と新約のみことばをいつでも必要に応じて倉から取り出して教えることができるように聖書先生になることができるように祈ります。

 結論、天の御国は神様の御言葉が蒔かれることによって人々の心に臨まれます。反面敵であるサタンは神様の御業を邪魔しようとします。しかし、天の御国は今もからし種のように成長し、パン種のように全世界に広がっています。私達が隠された宝を見つけることができたのはほんとうに幸いなことです。この宝であるイエス・キリストをこの国のキャンパスの学生達に語ることによってこの国の600キャンパスに福音が広がり、この国が祭司の王国、聖なる国民となるように祈ります。