1998年ヨハネの福音書?部第17講

 

真理はあなたがたを自由にします

 

御言葉:ヨハネの福音書8:21?36         

要 節:ヨハネの福音書8:31、32

「そこでイエスは、その信じたユダヤ人達に言われた。「もしあなたがたが、

わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 

きょうの御言葉は真理と自由に関する御言葉です。この御言葉でイエス様は私たちがどのようにして罪の束縛から自由になることができるかを教えてくれます。人は誰でも自由になることを願います。しかし多くの人々が本当の自由が何か、それをどうすれば得ることができるのかを知りません。本文の御言葉は本当の自由は何であり、その自由をどうすれば得ることができるかを教えてくれます。

 

?。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ(21?30)

 

21節をご覧下さい。イエス様はユダヤ人達に言われました。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」彼らがイエス様を捜すけれども、なぜ自分の罪の中で死にますか。それはイエス様を捜す動機が間違っていたからです。彼らはイエス様を政治的、経済的なメシヤとして考えていました。しかし、イエス様がこの世に来られた根本目的は人間の罪の問題を解決するためでした。バプテスマのヨハネはこのイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました(ヨハネ1:29)。もし彼らがイエス様を人類の罪の問題を解決するために神様が使わされた霊的なメシヤとして信じなければ罪の中で死にます。24節をご覧下さい。「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」私たちは罪の中で生まれ、罪の中で死ぬ存在でした。人が罪の中で死ぬことがなぜそれほど深刻な問題になるのでしょうか。それは罪によって肉体の死だけではなく死後に神様の裁きがあるからです。火と硫黄との燃える池の中で永遠に苦しむ第二の死があるからです(黙21:8)。ですから私達もこのイエス様を私たちの罪の問題を解決するために来られた救い主として信じなければなりません。イエス様を信じるためには、自分の罪を認めなければなりません。自分の罪を認め、告白し、赦していただく時、その人は罪から救われます。

 しかし彼らはイエス様がどんな方であり、イエス様の言葉がどんな意味であるかを悟りませんでした(25?27)。それでイエス様は言われました。28節をご覧下さい。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」「人の子を上げてしまうと」とはイエス様が十字架につけられ死なれる事件を指します。彼らはイエス様を十字架につけた後にやっとイエス様が神様が遣わされたキリストであることとイエス様の言葉は神様の言葉であることを悟ります。このようにイエス様の十字架は私達の霊的な目を開かせてくれます。私達がイエス様の十字架を見上げる時、私達は罪を悟るようになり、また罪人に向かう神様の大きな愛を悟るようになります。

 29節をご覧下さい。「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」イエス様は神様がともにおられるから寂しくありませんでした。私達が時々寂しさを感じるのは神様がともにおられることを忘れるからです。イエス様がいつも神様がともにおられることを認識できたのはいつも神様のみこころにかなうことを行われたからです。イエス様が働かれる動機と目的は神様に喜ばれるためでした。そのために人々から誤解され、迫害を受けられました。しかしイエス様はいつも神様の御心にかなうことを行われました。神の御心は人類の罪の問題を解決するために十字架につけられ死なれることです。

 イエス様がこれらのことを話しておられると、多くの者がイエス様を信じました(30)。

そこでイエス様は彼らがこれからどういう信仰生活をしなければならないかを教えてくださいました。

 

?。あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら(31?36)

 

本当の弟子(31,32)

 31、32節をご覧下さい。そこでイエス様は、その信じたユダヤ人達に言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」この御言葉から私達は三つのことを学びたいと思います。

 第一に、イエス様のほんとうの弟子になるためにはイエス様の御言葉にとどまることが必要です。御言葉にとどまるとはどういう意味でしょうか。それは御言葉を堅くつかむことです。それはまるで舟が波によって流されないように海に錨を降ろすことのようです。舟は錨を降ろさないと波に流されてしまいます。しかし錨を降ろすと若干揺れることはあっても流されてしまうことはありません。このように私たちが御言葉に錨を降ろす時、この世の流れに流されることがありません。それでヘブル2:1にはこう書いてあります。「ですから、私達は聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」人類の先祖アダムが罪を犯したのも御言葉にとどまっていなかったからです。御言葉を堅くつかむ時、その御言葉がその人を守り、真理の道に導いてくれます。また、その御言葉によって霊的に成長します。

御言葉にとどまることは続けて御言葉に根ざし、成長して行くことを意味します(コロ2:6、7)。御言葉に根を降ろす時、私達は御言葉の栄養分を吸収して霊的に成長することができます。その人は水路のそばに植わった木のように時が来ると実がなり、その葉は枯れません。その人は、何をしても栄えます(詩1:3)。ヨハネ15:5でイエス様は次のように言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ほんとうの弟子はイエス様の御言葉にとどまり続ける人です。主の御言葉にとどまり続けることは、誰にでもできることです。無学な人でも、無力な人でも、どんな人にもできることです。私達がイエス様の御言葉にとどまり、その御言葉に聞き従う時、イエス様の本当の弟子になります。その人はイエス様の香りを放つ美しい人生を過ごすことができます。

 第二に、イエス様の御言葉にとどまる時、真理を知るようになります。32節をご覧下さい。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」人類の長い歴史を通して、多くの思想家や学者達は真理を追求して来ました。学問上の真理、宇宙と人間にかかわる真理を把握したいと思って努力しています。それにもかかわらず、人類はまだ真理に到達したと言うことができません。しかし真理は遠く離れているのではなくイエス様の中にあります。イエス様は御言葉にとどまり続けるなら、真理を知ることができると言われました。真理とは何でしょうか。真理は永遠に変わらない絶対的なものでなければなりません。またすべての人々に適応できる普遍性を持たなければなりません。いったい世の中にこのようなものがどこにあるのでしょうか。世のものは相対的であり、変わります。価値観も変わります。世のものはいつかは朽ちるものです。それで人々は世の中には絶対的なものはないと言います。しかし、イエス様の御言葉は永遠に変わらない真理です。?ペテロ1:24,25は次のように言っています。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」またヘブル13:8は次のように言っています。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」イエス様とその御言葉は永遠に変わらない絶対的な真理です。イエス様はヨハネ14:6節で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。ですから私達は主の御言葉にとどまり続けることによって、真理であるイエス様を知ることができます。主の御言葉は私達がイエス様を通して神様に行く道を教えてくれます。

第三に、真理は私たちを自由にします。昔から多くの人々は、政治的自由、経済的自由を求めて来ました。また、哲学者達は知識が人を自由にすると主張して来ました。科学が人を自由にすると考える人もいます。このように人は誰でも自由を慕い求め、自由に生きることを願います。多くの人々は自由は誰からの干渉を受けず、自分の願う通りに生きる事だと思います。しかし、真の自由は真理の中でのみ与えられます。魚が水を離れては自由になれないことと同じく人は真理を離れては真の自由を得ることができません。

人は真理から離れると他のものに縛られるようになります。多くの人々はお金や権力に縛られています。ある人は認められることや愛されることに縛られています。このような人は人々から認められなかったり、愛されなかったりするとバッテリがなくなった電池のようになります。しかしこのようなものより一番大きい問題は罪と死の勢力に縛られていることです。人は罪の勢力に縛られると自分の力では免れることができません。情欲に縛られるとその勢力はその人を奴隷にしてしまいます。また死の恐怖の奴隷になるとすべてが空しくなり、恐れおののく人生を送るようになります。

このように罪の死の勢力に縛られると心に喜びがなくいのちがありません。力を出したくても無気力になります。笑いたくても笑うことができません。それでは私達がどうすればこのように私達を縛るものから自由になることができるでしょうか。それは真理を知らなければなりません。真理を知る時に真理は私たちを自由にします。真理は私達を自由にすることができる力があります。真理は私達を情欲の鎖から解き放ち自由にすることができる力があります。真理は私たちを罪と死の勢力から解放して自由にすることができます。真理を知る時に私達は真の自由を得ることができます。

私達が自由になった時に与えられる祝福は何でしょうか。何よりも心の中に真の平安が与えられます。明るくなります。罪の勢力に縛られると曲がった人格の所有者となりますが、それから解放されると成熟した人格者として成長するようになります。また、真理を知る時、恐れが消え去ります。真理を知る時、私達の生涯のすべての日にきよく、正しく、恐れなく主に仕えることができます。また聖霊の実を結びます。私達が外面的にいくら自由があっても罪の問題が解決されない限り、刑務所に入っているような人生です。しかしイエス・キリストによって罪が赦され、自由になった時私達はどんな状況の中でも真の自由の中で暮らすことができます。

真の自由(33?36)

33節をご覧下さい。ユダヤ人達はイエス様が自由にすると言われたことばに自尊心が傷つけられました。それで自分たちは、決してだれの奴隷になったこともないのにどうして、「あなたがたは自由になる。」といわれるのかと反発しました。彼らが考えている自由は政治的なものでした。人々は自由と言えば、貧困からの自由、独裁者からの自由、言論の自由、病気からの自由、教育の自由、信仰の自由などを考えます。このような自由はもちろん私達に必要なものであり、重要なものです。しかし、このような自由で真に自由になったとは言えません。真の自由は罪からの自由です。それでイエス様は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(34)と言われました。人間は神様から自由意志が与えられました。しかし、人間はその自由意志を間違って使うことによって罪を犯し、罪の奴隷となりました。20世紀の有名な神学者であるカール・ハイムは次のように言いました。「私達人間には自由意志があって自由に罪を犯すことができる鍵を持っています。ところが私達がその鍵でドアを開けて入ると監獄に入ってしまったようにそれ以上自分の力ではそこから出て来ることができなくなります。私達はそこから出る鍵は与えられていないからです。」イエス様がこのドアを開けてくださらないと誰もこの罪の監獄から解放されることができません。

人は罪を犯すと罪の奴隷となってしまいます。ところが、自分の意志によって罪から離れることができません。人の心の中には善を行いたち心と罪を犯そうとする心が共存しています。人は絶えずこの二つの心の間に挟まれて葛藤しています。ところが、善を行いたい心は罪の勢力に負けてしまうことを経験します。私達が真実に生きようと努力すればするほど自分の弱さに気付かされます。パウロもこのことを経験して次のように言いました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。彼はこのような葛藤の末、イエス様だけが自分を罪の勢力から解放してくださる唯一の救い主であることがわかりました。彼は次のように言いました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」私達が罪から自由になる時にのみ善を行うことができます。

 35節をご覧下さい。「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。」神の国に入るためには罪の奴隷から解放され神様の子供とならなければなりません。36節をご覧下さい。「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」ここで子とはイエス様を指します。イエス様は私たちを罪から解放し、ご自分の子供とするためにこの世に来られました。イエス様だけがこの罪から私たちを自由にすることができる救い主です。そのために私たちの罪のために十字架につけられ死なれました。

 イエス様の御言葉は私達を自由にする真理の御言葉です。誰でもこのイエス様の御言葉にとどまるなら、罪の死の勢力から解放されて真の自由を得、永遠のいのちが与えられます。