1998年ヨハネの福音書?部15講

 

生ける水の川を約束されたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書7:1ー53          

要 節:ヨハネの福音書7:38

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、

生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

 今日の御言葉はユダヤ人の祭りの中の一つである仮庵の祭りが背景になっています。祭りに参加した人々は食べて飲んで楽しんでいました。ところがイエス様は人々に向かって大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」この御言葉を通して人間の根本的な渇きの問題は何か、どうやって人間はこの渇きの問題を解決することができるかについて学びたいと思います。この時間イエス様の招きのことばを聞いてイエス様のところに行って飲み、私達の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るように祈ります。

 

?。イエス様と兄弟達(1ー9)

 

 第一、信じないイエス様の兄弟達(1ー5)

 7章は5章の事件とつながっています。5章を見ると、イエス様は安息日に38年間病気にかかっていた人を癒されました。すると、ユダヤ人達はイエス様が安息日の戒めを破ったということで殺そうとしていました。その後、イエス様はガリラヤを巡っておられました。それは、ユダヤ人達がイエス様を殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからです。さて、仮庵の祭というユダヤ人の祝いが近づいていました。仮庵の祭りはイスラエルの民の収穫感謝祭であり、彼らは畑に小屋を作り、野宿しながら収穫したのですが、それはまたイスラエルの民が出エジプトした後、荒野の旅をした時、天幕を張って生活した時の主の恵みを覚えるお祭りでもありました。

祭りが近づいて来るとイエス様の兄弟達は、イエス様に向かって言いました。「あなたの弟子達もあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現しなさい。」(3、4)。イエス様の兄弟たちはまだ信仰を持っていなかったから、この世的な成功のみを望んでいました。彼らはイエス様が仮庵の祭りにエルサレムへ行き、多くの人々の前で驚くべき奇蹟を行うことによって、有名人になることを望んでいました。この祭りこそイエス様がメシヤとしてご自分を現す絶好のチャンスだと思いました。しかし、イエス様にとって、この兄弟達の言葉は、正しく荒野の試みにおける悪魔の言葉とそっくりでした。十字架抜きの救い主としてのデビューは、結局のところ、人々を本当に救わない道であり、父なる神様の御心とは全く違った道でした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主の御心とは違った、安易な道へと私たちを誘惑します。ですから、私たちはいつも主の御心は何なのかということについて知るために励まなければなりません。

 第二、神様を喜ばせようとされたイエス様(6ー9)

 そこでイエス様は兄弟達に言われました。6節をご覧ください。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」ここでイエス様が「わたしの時」と言われた「時」は、ギリシヤ語の「カイロス(Καιροσ)」で「正しい時、適切な時、好機」の意味で、イエス様が十字架につけられるために「定められた時」を指します。また「わたしの時」は神様の栄光を現わすことができる一番適切な時を意味します。兄弟達は自分を喜ばせようとしたのでいつでもエルサレムに行くことができます。しかしイエス様は神様を喜ばせようとされたので神様の栄光を現わす一番ふさわしい時を待っておられました。

 7節をご覧ください。「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」兄弟達は世に属して世の価値観と世の流れに従っていたので世が彼らを憎むことはできません。彼らはこの世の流れに流されてしまっていました。私たちの毎日の生活、生き方がこの世と調子を合わせてクリスチャンであるという生き方を失い、この世に流されてしまっていることはないでしょうか。イエス様がこの世から憎まれたのは、この世の人々の罪を指摘するからです。イエス様はこの世と調子を合わせず罪と戦われたので世の人々からあざけられ、迫害を受けられました。ついに十字架につけられ、死なれました。この世と調子をあわせず、信仰によって生きると迫害を受けるようになります(?テモテ3:12)。私たちもイエス様と同様に、この世の流れに流されることなく、この世の人々とは違った生き方、つまり、この世の人々に憎まれる生き方をするほどに主の御心に従うクリスチャンとなるように祈ります。

 

?。神様から来られたイエス様(10ー36)

 

 第一、イエス様の教えは神様から来ました(10ー17)

 10節をご覧ください。イエス様は兄弟達が祭りに上った時、公ではなく、いわば内密に上って行かれました。11ー13節は祭りの雰囲気がどうであったのかを言ってくれます。ユダヤ人達は、祭りの時、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエス様を捜していました。そして群衆の間には、イエス様について、いろいろとひそひそ話がされていました。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいました。しかし、ユダヤ人達を恐れたため、イエス様について公然と語る者はひとりもいませんでした。なぜならユダヤ教の指導者達はイエス様を殺そうとしていたからです。このような時にイエス様がご自身を現わすことは非常に危険です。しかし14節をご覧ください。イエス様は祭りもすでに中頃になったとき、宮に上って教え始められました。ユダヤ人達はイエス様の教えを聞いて驚いて言いました。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」彼らは、イエス様が律法学者やパリサイ人のようにラビの学校で正規の専門教育を受けなかったのに、堂々と聖書を解説しているのを見て驚きました。イエス様の教えは恵みと真理に満たされていました。人を感動させる霊的な権威がありました。正規に学んだことがないイエス様の教えが、なぜこんな力があるのでしょうか。16、17節をご覧ください。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」イエス様はご自分の教えが神様から出たものであると言われました。イエス様の御言葉は理論的にわかるのではなく神様のみこころを行なう時、真理の御言葉であることがわかるようになります。聖書が人間のことばではなく神様の御言葉であることを知ることができる秘訣もみことばを実際生活の中で実践して見ればわかります。それでムディーは「従順が神様の御旨を学ぶ一番よい学校」だと言いました。イエス様の御言葉は一言も人から出たのではなく神様から出たものです。私たちが神の御心を行いたいという願いなり意志があれば、イエス様の御言葉が必ず神様からのものであるということを見分けることができるのです。

 第二に、イエス様は真理の人です(18)。

 18節をご覧ください。「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」ここで私達は真実な人と不正な人を分けるのが神様の栄光を求めるか、自分の栄光を求めるかにあることが分かります。自分の栄光を求めると、人は自分から語ります。すべてのことを自分を中心にして考え、行ないます。自分から始まって自分で終わります。このような人はいくら自分が真実なふりをしても根本的に偽っています。なぜなら人間の本性は根本的に堕落しているからです。しかし神様の栄光を求める者は神様から始まって神様で終わります。働く動機が神の栄光のためです。1:1をするにしても勉強をするにしても何をするにも神様の栄光のためします。神様の栄光のために働く者には不正がありません。イエス様は神様の栄光を現わすためにご自分を無にして、仕える者の姿をとり、十字架の死にまでも従われたのです(ピリピ2:6ー8)。このイエス様は真理の人です。

 第三に、正しい裁き(19ー24)

 19ー24節でイエス様はユダヤ人達が、「律法を守る。」と言いながらも律法を破っていることを告発されました。ユダヤ人達は、自分達こそモーセの律法の正統な解釈者であると誇り、安息日の律法を破ったという理由で、イエス様を殺そうと機会をうかがっていました。その事実から、彼らこそ「殺してはならない」という戒めを破っていたことになります。ユダヤ人達は、その意図を否定するかのように、あわてて「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」と弁解しました(20)。モーセの十戒によると、安息日には、どんな業もしてはならないと規定されています。ところが、割礼という儀式は、その子が生まれてから八日目に施すことになっているため、それが安息日に当たっていても、それをしました。割礼は宗教的なきよめの儀式でした。男子の一部の器官を清潔にする手術によって、生まれ変わりを象徴した儀式だったのです。それをするのに、安息日でも構わないのなら、全身をすこやかにする業を安息日にして、どうしていけないのでしょうか。ですから安息日に38年もの間病気にかかっていた人を癒したからと言って、イエス様を殺そうとするユダヤ人達は矛盾しています。ユダヤ人達の問題は正しく裁かないでうわべによって人をさばいたことです。24節をご覧ください。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」それではどのようにして私達は正しいさばきをすることができるでしょうか。

 第一、神様の栄光を求めるべきです。神様の栄光を求めると何をするにもその動機が純粋になります。その動機が純粋になると一ヶ所にそれることなく正しくさばくことができます。

 第二、真理の御言葉に基づいて判断するべきです。私達は他人を判断する時感情や自分の固まった考えによって判断しがちです。それゆえ相手に傷つけることが多くあります。正しく判断するためには正しい判断基準がなければなりません。神様の御言葉はどんな場合にも変わらない絶対的な真理だから正しい判断基準になります。私達は神様の御言葉によって正しく判断することができます。

 第三に、両方のことばを全部聞かなければなりません(51)。片方だけのことばを聞くと正しさを失い、誤った判断を下しがちです。しかし両方のことばを聞くと客観性を持ち、比較的に正しく判断することができます。

 

?。生ける水の川を約束されたイエス様(37ー53)

 

 37節をご覧下さい。さて、祭りの終わりの日になりました。その日は祭りの中でクライマックスとして大いなる日と言いました。その日にはシロアムの池から運び上げられた水が神殿の祭壇に注がれました。その時ラッパが鳴ると民はイザヤ12:3節を歌いました。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」このような儀式は彼らの先祖達が荒野で渇いていて叫んだ時岩から水が出て渇きの問題を解決したことを記念することです。彼らはそのようにして渇いた地に水を与え刈り入れるようにしてくださった神様に感謝し、次の刈り入れる時にも豊かな雨を降らせてくださるように祈りました。イエス様はその日に立って大声で言われました。主が大声で語られるのは非常に珍しいことで、それだけ重要なことを語っておられることが分かります。37b,38節をご覧ください。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ここで私達は大切な真理を学ぶことができます。

 第一、イエス様は人々の渇きの問題を解決してくださる方です。イエス様が祭りの終わりの日に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招かれた理由は何でしょうか。イエス様がここで語っておられる水は霊的な水のことです。ですから、ここで「渇いているなら」と言われていても、それはのどが渇いていることを意味しているのではなく、心が渇いていることを意味しています。心が渇くとは、どういうことでしょうか。私たちは、みな欲望を持っています。多くの人々は自分の欲望が満たされると、幸せになれると思っています。はたしてそうでしょうか。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れ、欲望が一応満たされることによって、私たちの心は満足できるでしょうか。私たち人間の現実は、欲望が満たされた時にも、魂が飢え渇いているなら真の満足を得ることができません。人は神様のかたちに似せて造られていますから、神様のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることがありません。神様のみもとから離れて行き、罪を犯している人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪を犯した人は、その罪に対する赦しを経験することなしに、魂の渇きがいやされることはありません。人々は祭りの間に食べて飲んで楽しんでいました。ところが祭りが終わると虚しさを感じました。それでイエス様は、たましいの渇きを覚えるすべての人々を招かれたのです。人々は荒野のようなこの世の中で渇いています。うわべを見ると満足しているように見えても少しその人の内面に入ってみると渇きの問題で苦しんでいることがわかります。愛に対する渇き、認められる事に対する渇き、自由に対する渇き、真理に対する渇きで苦しんでいます。このような魂の渇きは生ける水のもととなられるイエス様に出て行く時解決することができます。イエス様は人々の渇きの問題を解決して下さる方です。

 あなたが今渇いているなら、主イエス・キリストのみもとに来て下さい。イエス様をキリストとして信じてください。キリストのところに来て、キリストにすべてを任せてください。イエス様は私たちの魂の渇きを癒してくださいます。私たちの罪を赦し、心に平安を与えてくださいます。38節をご一緒に読んでみましょう。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 第二、イエス様は信じる者に聖霊を約束されました。私達が真実に自分の罪を告白し、イエス様を受け入れる時、聖霊が与えられます。使徒の働き2:38でペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」聖霊を受ける時心の奥底から喜びが湧き出ます。ビジョンに燃えるようになります。罪意識とさばきの恐れから解放されてまことの自由を得ることが出来ます。また愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のような聖霊の実を結ぶようになります(ガラテヤ5:22、23)。聖霊は真理の御言葉と密接な関係があります。聖霊は私達をすべての真理に導き入れます。また真理を思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26、27、16:13)。聖霊は私達のカウンセラーとなり、慰め主となります。

イエス様はこの聖霊が生ける水の川のように流れ出ると言われました。この生ける水は、それを飲む者達のうちにあって尽きない泉となり、彼らだけでなく他の人々にも力を与えるものとなります。この生ける水が私達を通して私達の家族、隣人、友達、キャンパスの学生達、職場の人々にまで流れ出て行くように祈ります。

 イエス様は神様から来られたキリストです。イエス様はたましいの渇きを覚えている人々に向かって大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」私達がイエス様を救い主として信じ、聖霊に満たされ、生ける水の川が流れ出る祝福の泉となるように祈ります。キャンパスの渇いている多くの兄弟姉妹達がサマーバイブルキャンプに参加し、生ける水を与えてくださるイエス様によって、渇きが癒されるように祈ります。