1998年ヨハネの福音書?部14講

 

いのちのパンイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書6:16?71                

要 節:ヨハネの福音書6:35

「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。

わたしに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 

私たちは先週の講義を通してアンデレの信仰を祝福し五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられたイエス様について学びました。このしるしはイエス様が全能の神であり、人間のすべての必要を満たして下さる方であることを教えてくれます。本文の御言葉はその後の出来事としてイエス様と群衆の対話が記されています。群衆は続けてイエス様にパンを要求し、イエス様は彼らにいのちのパンを与えようとされました。イエス様は人は肉のパン以上のもの、つまり霊のパンが必要な存在であり、イエス様がこのようなパンを与えてくださる方であることを教えてくださいました。本文の御言葉を通していのちのパンであるイエス様によっていのちを得ることができるように祈ります。

 

?。湖の上を歩かれたイエス様(16ー21)

 

 五千人の人々にパンを食べさせる奇蹟をされてから、イエス様はただ一人山に退き、そこで祈りの時を持たれました。一方、弟子達は、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていました。すでに暗くなっていたが、その時、湖は吹き捲る強風に荒れ始めました。ガリラヤ湖は海面下二百メートルの所にあって、周囲が山で囲まれているため、時々突風が吹いて来ることがありました。そうなると、元漁師をしていた弟子達さえどうすることもできず、舟は波にただようばかりです。しかも日はもうすでに暮れており、暗闇が襲っていました。さらに悪いことに、主イエス様がそこにはおられません。

私たちも自分の人生が真暗闇に思われたり、風が吹き付けて来たり、波が襲って来たり、恐ろしさのあまりどうしていいのか分からなくなってしまうことがしばしばあります。強風と戦っている弟子達は、ちょうど無力で孤独な人生の戦いをしている人の姿のようです。どんな人でも、人間は全く無力であり、孤独なものです。大きな艱難が襲って来た時、それを感じるのです。その時イエス様は彼らの所に来られました。19節をご覧下さい。「こうして、四、五キロメートルほど漕ぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。」弟子達は湖の上を歩いて来られるイエス様が幽霊だと思って恐れました。彼らは、人が水の上を歩けるとは思っていなかったからです。しかし、彼らには、イエス様が単なる人間以上の方であるということがまだよく分かっていませんでした。弟子達は、無力で孤独な戦いの中で恐れおののいていましたが、それは、彼らに見る目がなかったからでした。もしも彼らがイエス様を、単なる人間以上の方として信じていたら、恐れるわけがありませんでした。恐れている弟子達にイエス様は言われました。「わたしだ。恐れることはない。」「わたしだ。恐れることはない。」造り主であるイエス様が私たちと一緒におられる限り、私たちにとって恐ろしいものは何一つありません。彼らがイエス様の声を聞いた時、彼らの心を支配していたすべての恐れや不安は一瞬のうちに消え去り、平安と喜びが訪れました。それで彼らは、イエス様を喜んで舟に迎えました。すると、舟はすぐ目的の地に着いたのです。イエス様を心の中に主として迎える時、どんなに大きな人生の嵐に遭遇したとしても、それを乗り越えて、私たちの人生は目標に至ることができます。あなたはあなたの人生の主として、主イエスを心に迎えておられますか。

 

?。わたしがいのちのパンです(22ー59)

 

永遠のいのちに至る食物のために働きなさい(22?27)

 群衆はイエス様を捜して小舟に乗り込んで、カペナウムに来ました。そして湖の向こう側でイエス様を見つけた時、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになりましたか。」(25)。彼らはなぜそれほどまでにイエス様を捜していたのでしょうか。26節をご覧下さい。イエス様は答えて言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」彼らは、イエス様がなさった奇蹟を見て、信じ、ついて来たかのように見えますが、そうではありませんでした。奇蹟を見て信じる信仰は、決して本当の信仰とは言えませんが、それでも信仰がないよりはまだましです。彼らがイエス様について来た動機はパンを食べて満腹したからでした。

このような彼らにイエス様は何と言われましたか。27節をご一緒に読んでみましょう。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」この御言葉はイエス様が働く自体を否定されているのではありません。イエス様はここで何を第一の目的として働かなければならないかを教えてくださいます。私たち人間は働く者として造られました。ですから、働かないでいる時に、生きがいを感じることはありません。しかし、問題は何のために働くかです。私たちは、主が私たちに与えて下さった時間、才能、お金などを、何のために使っているでしょうか。朽ちるいのちのために、余りにも多くのことを使いすぎて、霊的いのちのためには、もうほとんど残っていないのではないでしょうか。霊的ないのちは、放って置いて養われ、成長することはありません。毎朝、ほかの人よりも早く起き、少なくとも1時間、聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあるはずです。学校や職場へ遅刻しないように努力しながら、霊的いのちのためにはほとんど努力らしい努力をしない人を、主はご覧になって、どんなに心を痛めておられることでしょう。私たちは永遠のいのちが与えられたのですが、その永遠のいのちが養われ、成長し、悪魔の攻撃からその尊いいのちを守るために、あらゆる努力をしなければなりません。世の名誉や権力、富と栄光を窮めたソロモンは次のように伝道者の書で告白しました。「空の空。すべては空。」(伝道者1:2)。「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。」(伝道者5:15)。そして、彼は伝道者の書最後の12章で次のように勧めています。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(12:1)。そして結論的に次のように言いました。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)。同じ仕事をしても人生目的をどこにおいてするかによって完全に変わります。

イエス様は群衆に永遠のいのちに至るパンのために働くように言われました。永遠のいのちに至るパンとはイエス様とイエス様の福音を意味します。イエス様は神様の約束されたメシヤです。イエス様はこの世に来られた王の王、主の主です。また、人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようですが、主の言葉は、とこしえに変わることがありません(?ペテロ1:24、25)。また神の国は朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない永遠の国です。私たちは主と福音のために、また、永遠の国のために私たちのすべての捧げて働かなければなりません。そのようにする時、魂に真の満足があり、生きがいのある人生、生き生きとした人生を過ごすことができます。

第二に、神様のわざ(28,29)

 イエス様の御言葉を聞いた群衆はイエス様に「私達は、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と聞きました。それでは神様が、私達人間に優先的に要求されることは何でしょうか。29節をご覧下さい。イエス様は答えて言われました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」彼らは神様のわざを何かの行いとして考えました。しかし、神様が私たちに優先的に要求されることはイエス様を信じることです。イエス様を信じることによって神様と正しい関係性を結ぶことです。救いは私たちの努力の代価として与えられるものではなくイエス・キリストに対する信仰によって恵みによって与えられるものです。一般的に神様のわざを行うとすれば伝道や1:1聖書勉強やセンターの掃除などを考えます。もちろんこれらのことも必要です。イエス様が「わたしの小羊を飼いなさい。」と言われたのでそれに励まなければなりません。しかし羊を飼うことも信仰によってするべきであり、それを通して信仰を学ばなければなりません。神様のわざは信仰のわざです。私たちが多く働き、多くの結果を残したとしても信仰がなくてつまずいてしまったら何の益があるでしょうか。信仰がなくては神様に喜ばれることができません。

わたしがいのちのパンです(30?51)

イエス様は群衆に信仰を植え付けようとしましたが彼らは信じようとしませんでした。彼らの関心はひたすらパンにありました。彼らはすでに驚くべきしるしを見たのにも関わらず、再びしるしを見せてくれるように要求しました。彼らはモーセが40年間荒野でマナを食べさせたように彼らにも一度だけではなく続けてパンを食べさせてくれればイエス様をメシヤとして認めるということでした。神様がマナを与えて下さった霊的な意味は人はパンだけで生きるのではなく主の口から出るすべての御言葉によって生きる存在であることを悟らせるためでした(申8:3)。32,33節をご覧下さい。イエス様は彼らに言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」

すると彼らはイエス様に「主よ。いつもそのパンを私達にお与えください。」とお願いしました。イエス様はこのような彼らにいのちのパンを紹介してくださいました。35節をご覧下さい。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」イエス様はご自分がいのちのパンであると言われました。イエス様はいのちの源であり、私たちにいのちを与える方です。ですからイエス様抜きにしては霊的ないのちを得ることができません。 

人には肉体の飢えと霊的な飢えがあります。飢えていることは悲しいことです。飢えていると食べ物ばかり考えます。飢えていると何をしても満足と喜びがありません。霊的に飢えている人も同じです。何をしても満足がなく真の喜びがありません。何かを熱心にしてもいつも虚しさを感じます。それは霊的パンを食べることによってのみ解消することができます。イエス様は魂の飢えを解消してくださるいのちのパンです。イエス様はいのちの源であり、真の満足と喜びの源です。イエス様は飢えている人にはいのちのパンであり、渇いている人には生ける水となられる方です。また、イエス様は闇の中にいる人のいのちの光であり、迷っている人の道であり、死の恐れにさいなまれている人のよみがえりであり、いのちである方です。ですから、このイエス様を信じる人の人生は決して空しくありません。その人は真の喜びと満足がある人生を送ります。

 36節をご覧下さい。群衆はイエス様を見ながら信じようとしませんでした。人々はイエス様を通して自分がほしいものを得ようとしました。彼らはイエス様が目的ではなく手段でした。そのために彼らはイエス様が与えようとする真の祝福を得ることができませんでした。しかし私たちがイエス様を目的としてイエス様に行く時、決して捨てません。そして根本的にその人生の責任を負ってくださり、終わりの日によみがえらせてくださいます(39,20)。イエス様は神様の御心を行うためにこの地に来られました。神様の御心はイエス様を信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

ユダヤ人達は、イエス様が「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエス様についてつぶやきました。彼らは言いました。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」イエス様はこのような彼らに神様が引き寄せられないかぎり、だれもご自分のところに来ることはできないと言われました。神様が引き寄せる人は謙遜な人々です。神様は真理の御言葉によって人々を救い主のところに導かれます。神様は彼らの心を感動させ霊的な望みを与え、主のところに来るようにされます。これは聖霊のみわざです。聖霊が働く時にその人は主のところに来ます。イエス様は霊的な望みがない彼らを諦めず、続けて言われました。47、48節をご覧下さい。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。」ユダヤ人の先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、イエス様は天から下って来たパンで、だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きるようになります。

まことの食物とまことの飲み物(52?59)

52節をご覧下さい。ユダヤ人達は、「この人は、どのようにしてその肉を私達に与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合いました。このような彼らにイエス様は十字架の真理を教えてくださいました。53?55節をご覧下さい。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」イエス様は私たちに真のいのちを与えるために神の小羊としてご自分を完全に犠牲にされました。イエス様は私たちに永遠のいのちを与えるために私たちの罪のために十字架につけられ、尊い血を流されました。誰でもこのイエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちを持ちます。イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲む者は、イエス様のうちにとどまり、イエス様も彼のうちにとどまります。私たちはこのイエス様によって永遠に生きるようになります。

 

?。永遠のいのちのことばを持っておられます(60ー71)

 

イエス様はパンの問題に縛られている群衆に十字架の奥義を教えられ、彼らが霊的な目を覚まして永遠のいのちを得ることを願われました。しかし彼らは「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」と言って受け入れませんでした。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエス様とともに歩きませんでした。そこで、イエス様は十二弟子に言われました。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」これはイエス様に従う動機と目的に対して決断を促す御言葉です。すると、シモン・ペテロが答えました。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(68,69)。これはペテロの信仰告白であり、信仰の決断でした。彼はイエス様を離れての人生は無意味でありむなしいことがわかりました。イエス様は彼にとっていのちであり、喜びであり、希望でした。

ここで大切なことはペテロはイエス様が神様の御子であることを信じて知ったことです。人々は知ってから信じようとします。しかし、霊的真理は決して理解した後に信じることができません。まず信じる時に霊的な目が開かれ知るようになります。

 今日の人々はお金に最高の価値をおいて朝から晩まで働いています。それはお金がなければ幸福になれないと思っているからです。しかし、いくらお金を儲けても人々のストレス、疲れ、不安が消え去りません。人間には肉のパン以上のもの、すなわち、霊的なパンが必要です。人間はいのちのパンを食べる時のみまことの満足と喜びを得ることができます。イエス様は私たちのいのちのパンです。