2001年マタイの福音書第12講

信仰を祝福されたイエス様

御言葉:マタイの福音書9:18?38

要 節:マタイの福音書9:29「そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」

 マタイの福音書9:1-17はSBCの主題講義なので、今日はその後の9:18-38までを学びます。本文には四つの回復、すなわち、会堂管理者の娘を生き返らせる生命の回復、長血をわずらっている女の回復、盲人の視力の回復、おしの言語能力の回復という奇蹟が出ています。彼らはみな絶望的な状況から信仰によってイエス様の御前に出て行きました。すると、イエス様は彼らの信仰を祝福してくださいました。この時間私達もイエス様の御前に信仰によって出て行き、祝福されるように祈ります。

?。あなたの信仰があなたを直したのです(18-26)

 18節をご覧ください。イエス様がマタイの家で食事をしながら話しておられると、ひとりの会堂管理者が来ました。会堂管理者は、マルコとルカによるとヤイロという名前です。会堂管理者は会堂の責任役員で、一つの会堂で一人、長老たちの中から選ばれました。その職務は、礼拝のプログラムを立て、教師や朗読者を選択し、礼拝が正しく行なわれるよう監督し、建物の管理、会堂の実務運営をすることでした。当時会堂管理者は人々から尊敬と信頼を受ける社会的な身分が高い人でした。こんな彼がイエス様の所に来て、ひれ伏して言いました。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」この娘はルカの福音書8:42によると、12歳の一人娘でした。かわいい一人娘が死んだ時、父親ヤイロはどんなに悲しかったのでしょうか。すでに彼はイエス様の奇蹟を見たり聞いたりしており、イエス様が手を置いていやされたことを知っていたでしょう。それにしても、イエス様が娘を生き返らせることができると信じたのは、驚くべき大胆な信仰です。イエス様はヤイロの信仰を喜ばれ立って彼について行かれました。

 ところが会堂管理者の家に行く途中、どんなことが起こりましたか。20節をご覧ください。「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。」マルコの福音書5:26によると、この女は十二年間、医者にかかったりしていろいろ手を尽くしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。女性は誰でも奇麗になりたいと願っています。朝ご飯は食べなくても化粧はします。ところがこの女性は12年間も長血をわずらっていたので女性としての美しさと健康美を失っていたでしょう。それに治療のために自分の持ち物をみな使い果たしてしまったので経済的にも全く行き詰まっていたでしょう。当時流出のある女は汚れたものとされ、その触れたものもすべて汚れるとされ、その女は人と交わることも、礼拝に出ることもできませんでした。このように、彼女は肉体的にも、経済的にも、社会的にも、宗教的にもすべて苦しむ女でした。病気は彼女から美しさも財産も健康も希望も幸せも奪って行きました。彼女は絶望していました。このような彼女にイエス様のうわさが聞こえました。イエス様の噂は彼女に希望を与えました。ところがその女の人は汚れていたためヤイロのように公にイエス様の御前に出て行くことができませんでした。それゆえ群衆の中に紛れ込み、うしろからイエス様の着物のふさに触りました。

 彼女にどんな信仰がありましたか。21節をご覧ください。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていました。「お着物にさわることでもできれば」には、ヤイロの場合と同じように、わらにもすがりたい女の心情が含まれています。彼女は信仰の手を伸ばしイエス様の着物にさわりました。彼女にはそのようにするときっと直るという信仰がありました。群衆の中で多くの者がイエス様の着物に触れたに違いありません。しかし、信仰の願いをこめて触れたのは、この女だけでした。

 するとイエス様は彼女をどのように祝福してくださいましたか。22節をご覧ください。イエス様は、振り向いて彼女を見て言われました。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直りました。その女の人はイエス様の着物に触ってからそっとそこから抜け出ようとしました。ところがイエス様は彼女の信仰の手を感じ取られました。彼女は自分がしたことがイエス様に知られた時、恐れていたでしょう。しかし、イエス様は彼女を「娘よ」と呼んでくださいました。そして彼女の信仰を喜ばれ、癒してくださいました。

 イエス様が会堂管理者の家に入られた時、その家の雰囲気はどうでしたか。23節を見ると、その家には笛吹く者達や騒いでいる群衆がいました。ユダヤ人は貧しい者でも、最低二人の笛吹く者と一人の泣き女を葬式に用意することになっていました。ヤイロの家には、その地位から、何人もの笛吹く者や泣き女が集まって騒いでいたでしょう。死の力の前では社会的な地位も権力も何の役に立ちません。人間は死の力の前では全く無力な存在です。できることはただ悲しみ、泣くことだけです。

 ところがイエス様は何と言われましたか。24節をご覧ください。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエス様をあざ笑いました。イエス様は死を眠っていることとしてご覧になりました。死は眠りと似ているところが多くあります。疲れている時、眠ることは楽しいことです。ぐっすり寝て朝起きると気持ちがよくなります。このように復活の信仰がある人には死んでも生きるという望みがあります。復活に対する望みがない人にとっては死ぬことは絶望です。死ぬと土に戻ることを考えると人生が虚しくなります。しかし、クリスチャンにとって死はしばらく眠ることです。しばらく眠って目が覚めると栄光の復活の朝を迎えるようになります。それでイエス様は死んだ少女に眠っていると言われたのです。

 イエス様は死んだ少女をどのように生き返らせましたか。25節をご覧ください。イエス様は群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られました。すると少女は起き上がりました。よみがえりであり、いのちであるイエス様が少女の手を取られると、死んだ少女は起き上がりました。ヨハネの福音書5:24,25でイエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」ヤイロは愛する一人娘が死んだ時、絶望するしかありませんでした。しかし、彼はそんな中でイエス様の所に来ました。イエス様は死んだ者をも生き返らせることができると信じたからです。彼は信仰によって絶望を乗り越えました。イエス様はヤイロの信仰を祝福し彼の一人娘を生き返らせてくださいました。

?。あなたがたの信仰のとおりになれ(27ー31)

 27節をご覧ください。イエス様がそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私達をあわれんでください。」と叫びながらついて来ました。「ダビデの子」はメシヤの称号でした。盲人のいやしはメシヤのしるしとして預言されていました(イザヤ29:18)。28節をご覧ください。家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来ました。その時、イエス様は彼らに言われました。「わたしにそんなことができると信じるのか。」イエス様の力が奇蹟として個人に行なわれるのに必要な条件は、信仰です。信仰のないところでイエス様は力ある働きをすることができません。イエス様は彼らに信仰を要求されました。すると、彼らは「そうです。主よ。」と言いました。彼らはイエス様が自分達の目を癒してくださることができるという信仰を持っていました。

 イエス様は彼らの信仰をどのように祝福してくださいましたか。29節をご覧ください。そこで、イエス様は彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われました。すると、彼らの目が開きました。イエス様は彼らの信仰を祝福されました。彼らは信仰のとおりに目が開きました。信仰がなかったなら彼らは一生暗闇の世界に生きていたでしょう。しかし彼らの人生は信仰によって全く変わりました。信じるか信じないかは目には見えません。ところがその結果には大きな差があります。すべての勝敗は信仰にかかっています。信仰は勝利です。

昨日は早稲田大学でバイブル・アカデミーがありました。「生きてこそ」というすばらしい映画上映がありました。ところが、バイブル・アカデミーが始まる時間になっても新しい人が一人も見えませんでした。バイブル・アカデミーを準備して来たシオンフェローシップの同労者達や〇〇牧者達は不安な心だったでしょう。しかし、後から四人の新しい方が参加しました。小泉ダビデ牧者は昨日の祈り会のメッセージを通して今度のバイブル・アカデミーに四人の新しい方が参加したこととチラシを配ることによって福音の種を蒔くことができたことを感謝しました。神様が彼の信仰を祝福してくださり、絶望的な状況の中でも希望を持てる信仰を学ぶようにしてくださったことを感謝します。神様が私達に絶望の中でもイエス様の所に出て行く信仰を与えてくださるように祈ります。その信仰によって今年のSBCを準備し、主がSBCを大きく祝福してくださるように祈ります。

 

?。収穫のために働き手を送って下さい(32ー38)

 盲人達が癒されて出て行くと、今度は悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られました。イエス様が悪霊を追い出されると、そのおしはものを言いました。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言いました。しかし、パリサイ人達は、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言いました。このメシヤのしるしを目にして反応は全く二つに分かれ、パリサイ人達は群衆とは対照的に、自分達の偏見、固定思想、高慢のフィルターでイエス様を評価しました。

 イエス様はすべての町や村を巡って何をされましたか。35節をご覧ください。それから、イエス様は、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されました。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われました。ガリラヤ地方の各地を歩いて、イエス様がご覧になったのは、弱り果てて倒れている群衆でした。「弱り果て」は、「追い詰められて疲れ果てる」という意味です。「倒れている」は「投げ倒されている」「打ちのめされている」ことで、霊的な虚脱、混乱状態を表わしています。それは、まさに羊飼いのない羊のような姿です。それは指導者がいない状態であり、牧者が自己の利益を求めて羊を顧みない時の状態であり、牧者が偽りの占い、むなしい夢に走って、真理を見失う時に起こる羊の状態です。旧約において羊飼いは王、祭司、預言者達を指し、羊は選民にたとえられました。「かわいそうに思われた」は強烈な心情の動きを表わすことばです。心の底から激しく動かされて、積極的にあわれみの働きをせざるをえない心を示しています。イエス様は羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々をご覧になるとそのままいられませんでした。それですべての町や村を巡って、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直されました。

 その時、イエス様は弟子達にどんな祈りを頼みましたか。37、38節をご覧ください。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」イエス様がすべての町や村を巡りながらご覧になると助けが必要な人々が溢れるほど多くいました。イエス様がお一人で夜明けから夜遅くまで彼らを助けても限界があります。イエス様お一人で全部収穫することはできません。イエス様は、収穫は多いが、働き手が少なくて羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々をご覧になると心が痛くなったでしょう。宣教はまず、収穫の主である神様に祈り求めることから始まります。収穫には時があります。その時を逃すと穀物が落ちってしまいます。ですから急いで収穫をしなければなりません。そのためには働き人が必要です。この国の99%以上の人々はノンクリスチャンです。すなわち、99%以上の人々は羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れています。彼らの回りには親も、友達も、先生もいます。しかし彼らをいのちの世界、真理の世界に導く牧者は少ないのです。それで心が荒れて利己主義者になった人もいます。人々に対する憎しみのゆえに人格が破壊された人もいます。人間関係がうまく行かず苦しむ人もいます。高慢と情欲の沼に陥っている人もいます。心の苦しみや困難にぶつかった時にそれを乗り越えることができず、自殺したり他人を攻撃したりする人もいます。このような人々をイエス様はどのようにご覧になるでしょうか。やはり羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われるでしょう。そして彼らを助ける働き人を捜しておられるでしょう。イザヤは「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いた時、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答しました(イザヤ6:8)。神様はこの国の99%のノンクリスチャン達をご覧になり、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と働き手を捜しておられます。神様はこの国のキャンパスの若者達を収穫するために私達を働き手として立ててくださいました。しかし、働き手は非常に少ない状態です。神様が2010年までこの国に1000人の働き手を送ってくださるように祈ります。

 結論、イエス様は不治の病をいやし、死んだ人を生き返らせ、盲人の目を癒してくださった愛の主であり、癒し主です。このイエス様に信仰によって出て行けばイエス様は喜んで受け入れその信仰のとおりに祝福してくださいます。主が私達に信仰を与えてくださるように祈ります。信仰によって羊飼いのいない羊のようなキャンパスの学生達に福音を宣べ伝えることができるように祈ります。信仰によってSBCを準備することができるように祈ります。