1998年ヨハネの福音書?部第11講

 

38年間病気にかかっている人を直されたイエス様

 

御言葉:ヨハネの福音書5:1―15

要 節:ヨハネの福音書5:8「

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

 

 人は誰でも自立的で開拓精神に満ちあふれた勝利の人生を送りたいと思っています。私たちがそういう人生を送るためにはどうすればいいでしょうか。今日の御言葉はその秘訣を教えてくれます。著者ヨハネはすべての人々が共通して持っている問題について代表的な人々を取り上げて来ました。3章に出ているニコデモは自我完成を追求する知性人の代表であり、4章に出ているサマリヤの女は真の礼拝の対象を捜して迷っている人々の代表です。今日の5章に出ている38年間病気にかかっている人は心の病んでいる人々の代表です。彼はよくなりたい望みさえ失っていました。イエス様はこのような彼のところに訪ねて来られ、よくなりたい望みを与え、彼を直してくださいました。今日の御言葉の学びを通して私たちの心の病を癒してくださるイエス様に出会い、信仰によって歩く人生となるように祈ります。

 

?。よくなりたいか(1?6)

 

イエス様はユダヤ人の祭りがあって、エルサレムに上られました。この祭りが、過越の祭りであるのか、そのほかの祭りであるのかについてはよく分かりません。とにかく祭りの時には人々がみな喜びます。しかし、この日にも悲しみのあまり泣いている人々がいました。2、3節をご覧下さい。「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。」ベテスダとは恵みの家という意味です。そこには、大勢の病人が来ていました。彼らは溺れる者わらをつかむ気持でそこにやって来ました。

彼らには唯一の望みがありました。それは主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でも癒されることでした。彼らはこのような小さな望みのために生きていました。しかし、この制限された望みのゆえに彼らは激しく競争しなければなりませんでした。病人達は水が動かされたあとで最初に入るためにもっと良い席を取ろうと競争しなければなりませんました。彼らはそれぞれ自分が一番惨めな者であり、悲しい者であると思いました。ある人は「僕は世界で一番哀れな者だ。」と思ったでしょう。また、他の人は「私こそ世界で一番哀れな者だろう。」また、彼らは互いに優越感と劣等感を持っていました。足なえは盲人を見て「僕はこの美しい世界を見ることができるが、あなたはそれができない。」と優越感を持ちました。しかし、盲人の丈夫な足を見ると劣等感が生じました。彼らは互いに競争の対象だったので妬んだり、憎んだりしました。しかし時には人間的な同情心のために相手をかわいそうに思い、助けることもあったでしょう。しかし、一旦水が動かされたら状況は全く変わってしまいました。その時には他人のことを顧みることは考えられませんでした。その時には皆利己的になり、無情、無慈悲な人となりました。これがヒューマニズムのジレンマです。イギリスの哲学者であるトマスホップスは人間は本来利己的なので互いに敵になって「万人の万人に対する闘争」をしなければならないと言いました。

今日私たちが住んでいる社会は巨大なベテスダの池だと言えるでしょう。人々は子供の時から生存のために激しく競争しています。受験競争、就職競争、昇進の競争など私たちの人生は競争の連続です。競争では少数の人々だけが勝ち抜き、ほとんどの人々は負けるので負けた人々は敗北感と劣等感、挫折と絶望の中で生きています。また、競争から来る各種のストレスを受けて精神的な病を患っています。日本で40代50代の人々の自殺が増えていますが、その原因は不況の影響のためだそうです。彼らは厳しい経済状況の中でストレスを受けて自殺をするのです。しかし、イエス様を信じる者には絶望がありません。イエス様はベテスダの池に訪ねて来られ、38年間病気にかかっていた人に会い、質問なさいました。「よくなりたいか。」ここで私たちはイエス様がどんな方なのかを学ぶことができます。

第一に、イエス様は恵み深い方です。5節をご覧下さい。ベテスダの池に、三十八年もの間、病気にかかっている人がいました。彼はベテスダの代表的な病人でした。彼は人生の大半を病気のために費やしていました。彼の青春時代も、壮年時代も、すべて病気の嘆きで終わってしまったのではないかと思われます。時代は変わっても彼は少しも変わりませんでした。むしろ彼は段々悪くなる一方でした。彼は長い間お風呂にも入ってなかったので臭かったでしょう。彼は死んだも同様の者でした。彼は傷んだ葦、くすぶる灯心のような者でした。誰もこのような彼に関心を持ったり、彼の惨めな状態を理解しようとしませんでした。誰も彼と話そうとしなかったし、彼に近づこうともしませんでした。人々は彼がいる自体だけでも迷惑だと思いました。

しかしイエス様は彼のところに来られました。イエス様がベテスダの池に来られたのは大きな恵みでした。その中でも38年間病気にかかっていた人の所に来られたのは恵みの上に恵みでした。イエス様は彼の所に来て、まず初めに何をされましたか。6節をご覧下さい。イエス様は彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知りました。イエス様はまず彼が伏せているのをご覧になりました。それは深い関心を持って注目して見たことを意味します。人を正しく助けるためには、まずその人がどんな状態であるかを正確に知る必要があります。そのためには深い関心を持って観察しなければなりません。彼をご覧になるイエス様の視線は憎しみや罪に定める視線ではなく愛と望みの視線でした。

イエス様は彼がもう長い間病気にかかっていることを知りました。それはイエス様が彼の惨めな状況を深く理解されたことを意味します。イエス様は彼が自分の病気に対して諦める状態であることが分かりました。このような人に対しては諦めたい心が生じやすいです。しかしイエス様は彼を諦めず、助けようとされました。そして哀れむ心を持って彼に質問されました。「よくなりたいか。」このイエス様は実に恵みに満ちた方です。ヨハネ1:14b節は次のように言っています。「この方は恵みとまことに満ちておられた。」イエス様の恵みはエベレスト山よりも高く太平洋よりも広くて深いです。

第二に、イエス様は彼に聖なる望みを与えてくださいました。「よくなりたいか。」この質問は人をばかにしていると思われるかも知れません。「よくなりたいに決まっているのではないですか。」と言いたくなります。「よくなりたくないのに、どうしてここに来ているのでしょうか。」と言いたくなります。ところがイエス様はなぜ彼にこのように質問されたのでしょうか。世の中で一番恐ろしい病気は同化する病気です。臭い所も最初はつらいですが、なれるとそんなにつらくありません。罪も最初に犯す時には深く罪意識のために苦しみます。しかし、繰り返して罪を犯すと罪に同化されて段々痛みを感じられなくなります。罪に対する免役が生じて不感症の患者のようになります。横になっていることに慣れると起きるのがめんどくさくなります。38年間も横になっている彼はそのような生活に慣れてしまったでしょう。この人の問題はよくなりたい望みを失っていることでした。よくなりたい心がなければ起こしてあげても再び横になってしまいます。イエス様は彼の心に神様のかたちを回復しようとする聖なる望みを与えてくださいました。

私たちは、本当に今の生活が変えられたいと願っているのでしょうか。38年間病気にかかっていた人のようによくなりたい望みを失ってことはないでしょうか。もう諦めてしまった罪の問題はないでしょうか。なかなか直らない自分の悪い習慣を諦めている人はいないでしょうか。イエス様はこのような人々に「よくなりたいか。」と質問されます。神様は私たちに神様に用いられる霊的な人になりたい望みを与えてくださいます。謙遜な人、従順の人になりたい望みを与えてくださいます。祝福の基となる望み、どんな試練にも屈しないキリスト・イエスの立派な兵士になりたい望み、王である祭司になりたい望みを与えてくださいます。神様は私に今年?テモテ2:15の御言葉を与え、熟練した者、すなわち、真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人となりない望みを与えてくださいました。この望みのゆえに、毎日夜明けに起きて日毎の糧の御言葉を黙想したり、聖書通読をしています。自分が罪によって病んでいることを認めてよくなりたい望みを持っている人は直る可能性があります。しかし自分が罪によって病んでいることを認めようとせず、よくなりたい望みを持っていない人はよくなる可能性がありません。よくなりたい望みがない人は続けてその罪の中に留まっていることを願う人です。イエス様はこのように望みを失った人を直すために「よくなりたいか。」と質問されました。

「よくなりたいか。」この御言葉はイエス様に対する信仰を植え付ける御言葉です。イエス様は彼がイエス様に頼るとよくなれるという信仰を与えてくださいました。イエス様は全能の神様ですからどんな病気も直すことができます。どんな悪い習慣も直すことができます。誰でもよくなりたい切なる望みとイエス様に対する信仰を持ってイエス様に求める人は直してくださいます。それでイエス様はマタイ7:7で言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

?。起きて、床を取り上げて歩きなさい(7?9)

 

イエス様の「よくなりたいか。」という質問に対して、彼はどのように答えるべきですか。「もちろん、そうです。主よ。私を哀れんでください。」と答えるべきでした。ところが彼は何と答えましたか。7節をご覧下さい。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」彼の答えを見ると彼の内面の問題が現れています。人はいつも心の中に持っている考えが外に現れます。感謝の心で満たされている人はどんな場合でも感謝します。病気の時も感謝、迫害を受けても感謝、いつも感謝です。しかし心の中が不平不満で満ちた人はどんな場合にもつぶやきます。彼は自分を助けてくれる人がいないとつぶやいています。感謝を知らず、いつも不平不満に満ちています。彼は本気でよくなりたいという思いは、とっくの昔になくなってしまっていたようです。

大抵つぶやきや不平不満が多い人は依存心が強い人です。38年間病気だった人は他の人々が自分を助けてくれることを当然なこととして思いました。彼の人間的な条件を考えてみると彼が人に頼ることは当たり前のことのように思われます。しかし、人は本来自立的な存在として造られました。自立を英語ではindependenceでそれはdependence on Godの訳語です。ですから自立とは神様だけに頼ることです。人が人に頼ると無気力になり、不平不満を持つようになります。また、状況に屈服され敗北の人生を送るようになります。人は助け合う対象であり、頼る対象ではありません。人は神様に頼るとき、自立的な人、開拓する人となります。人をだめにするのは身体の状態や環境ではなく依存心です。依存心は人を無気力にさせ、惨めにします。

この病人のもう一つの問題は敗北感です。彼は池の水が動いた時、一番先にその池の中に入ろうとしましたが、足腰の確かな人が先に入ってしまいました。彼は何度も試みましたが、失敗しました。それによって彼の心の中には「ぼくはやってもできない」と根強く敗北感が生じました。このような人はやってみる前から「ぼくは必ず失敗する」という不思議な信仰を持っています。もし彼がベテスダの池に来る一人一人と1:1聖書勉強をしていたら38年間彼を通してどれほど多くの人々に福音が宣べ伝えられたことでしょうか。しかし、彼は横になって何もせず時間を費やしていました。彼は一言で望みのない人でした。しかしイエス様のうちには絶望がありません。イエス様はどうしても彼を助けて上げようとしました。

それではイエス様は彼をどのように助けてくださいましたか。8節をご覧下さい。イエス様は彼に言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」イエス様は彼がイエス様の言葉を聞いて自立的に起きることを願われました。イエス様は彼が人に頼ってつぶやきながら横になっていることを願われませんでした。イエス様は彼が敗北感に陥っていることを願われませんでした。イエス様は彼が神様を悲しませ、他の人々に負担になる人生を過ごすことを願われませんでした。イエス様は彼が起きて自立的な人生、開拓の人生、神様を喜ばせる人生、他の人々に神様の祝福を与える祝福の基となることを願われました。それでイエス様は彼に言われました。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

イエス様はまず彼に「起きなさい。」と言われました。私たちは起きなければなりません。神様は元々私たちを無気力に横になっている者として造られず、起きて働く者として造られました(創1:28)。ところが人は罪のゆえにできるだけ横になろうとします。無駄な考えや情欲の床に横になろうとします。しかし私たちは起きなければなりません。そして床を取り上げて歩かなければなりません。その時に真の喜びに満たされます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」この御言葉は彼に臨まれた全能の神様の声でした

9節をご覧下さい。「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」イエス様の御言葉は勧める言葉ではなく従順を要求する命令でした。ですから彼はイエス様の御言葉に聞き従わなければなりませんでした。しかし、彼がその御言葉に聞き従うことは難しいことでした。長い間横になっている生活に慣れていたのでそれがもっと楽だったでしょう。しかし、彼は全能の神様の声を聞きました。その声は命の声でした。イエス様の御言葉には人を生かす命があります。イエス様はヨハネ5:24,25節で次のように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」世の中には怠けた生活、利己心、高慢、情欲、恐れなどの床に横になっている人々が多くいます。依存心の床、不平不満の床、敗北感の床、無気力の床に横になっている人々がいます。自分は何もできないと座り込んでいたら、本当に何もできません。しかしそういう自分や人に頼ったりするのではなく、そこから立ち上がり、信仰を持って歩き出す時、私たちと共に歩んでくださる神様を知り、信仰の体験ができます。イエス様は座り込んでいる人々に言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」このイエス様の御言葉に聞き従う時に、起きて歩く人生を過ごすことができます。

 

?。もう罪を犯してはなりません(10?15)

 

 38年間病気にかかっていた人が直って歩くようになったのは安息日でした。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言いました。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

彼らは病気だった人が直って歩くのは安息日の律法に違反することだからそのまま横になっているように言いました。38年間も病気にかかっていた人が直って新しい人生を出発するようになったのに彼らには喜びがありませんでした。彼らには律法を守る熱心はありましたが、律法の精神である愛がありませんでした。

14節をご覧下さい。その後、イエス様は宮の中で彼を見つけて言われました。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」この御言葉は救いの恵みを受けた人がどんな生活をしなければならないかを教えてくれます。私たちが救いの恵みを覚えて感謝する生活をしなければ自分も知らないうちに段々高慢になります。ところが恵みを覚えることは易しくありません。私たちは過去の自分の姿を思い出したくありません。しかし過去の自分を覚える時に今の自分を知ってさらに深い恵みの世界に入ることができます。使徒パウロも過去自分は神の教会を迫害した者、罪人のかしらであったと証しました。そして、神の恵みによって、私は今の私になったと証しました。彼はこの救いの恵みを覚えてほかのすべての使徒たちよりも多く働きました(?コリント15:9,10)。

「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」この御言葉は積極的に罪と戦う生活をしなければならないことを教えてくれます。過去彼は人に頼り、つぶやく人生を送っていました。また、無気力に横になって大切な人生を費やしていました。それは神様の御前に罪でした。イエス様によって直った彼はこれからは神様に頼って自立的な人になり、いつも感謝する生活をしなければなりません。主と福音のために励まなければなりません。自分のからだを義の器として神様にささげなければなりません(ローマ6:13)。そうしないともっと悪くなります。私たちが救われた後、神様の恵みによって働く時に恵みの上にさらに恵みが与えられます。

 結論、ベテスダの池の所に来られ、38年間病気にかかっていた人を癒してくださったイエス様は恵みに満ちた方です。このイエス様は今も床に横になっている人々に言われます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」私たちがなかなか直らない自分の罪、悪い習慣の床から起きて歩く人生になるように祈ります。神様の恵みを覚えて積極的に神様の栄光のために働く人となるように祈ります。