2000年ローマ人への手紙第8講

 

信仰の成長

 

御言葉:ローマ人への手紙7:1?8:11

要 節:ローマ人への手紙8:1

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

 

私達は先週の講義を通して「あなたがた自身とその手足を義の器として神に捧げなさい」という御言葉を学びました。今日は信仰の成長に対して学びたいと思います。子供が生まれることも大切なことですが、成長することも大切なことです。親にとって大きな喜びは子供が健康に成長することです。成長しなければ心配で堪りません。同じくイエス様を信じることによって新しく生まれた人も、霊的に成長しなければなりません。ところが、信仰の成長は体の成長とは違って歳をとれば自然に成長するのではありません。本文は、信仰の成長において律法と御霊の役割について話しています。どうすれば私達の信仰が成長できるかを教えてくれます。体の成長のために食べ物が必要であるように、信仰の成長には律法と御霊の役割が大切です。今日の御言葉を通して自分自身を顧みて新しく信仰が成長するきっかけとなるように祈ります。

 

?.律法からの自由(7:1-12)

 

6章でパウロは罪からの自由について説明しました。7章では律法からの自由と律法の役割について説明しています。パウロは6:14で私達は律法の下にはなく、恵みの下にあると言いました。この

御言葉は私達が律法に支配されず、恵みに支配されるようになったことを言っています。それでは私達はどのようにして律法の下にはなく、恵みの下にあるようになったのでしょうか。

第一に、律法に対して死にました(1-6)

使徒パウロは私達が律法から自由になったことを結婚にたとえて説明しています。ある女性が足りないところがなさそうに見える律法さんと結婚しました。律法さんと交際を続ければ続けるほど彼は立派な人でした。彼女はこの人と結婚するときっと幸せになれると思いました。それで婚約期間が終わっていよいよ律法さんと結婚をするようになりました。そして一緒に生活して見ると、律法さんは彼女が思った以上に立派な人でした。彼は日に三度決まった時間になると必ず神様に祈る時間を持ちました。日ごとの糧も週7回食べて新しく出版された日ごとの糧をただでもらいました。そしてすべてのことに隙間がないほどきちんと仕事をしました。彼女は律法さんを尊敬し彼と結婚してよかったと思いました。ところが律法さんは自分だけ完璧な生活をするだけではなく、妻になったその女性にも同じ生活を要求しました。律法さんは細かい規則を作り、それを守ることを要求したのです。もし、彼女が朝寝坊して決まった時間に食事の用意ができてないと怒りました。もし、一日でも部屋の掃除をしないと責めました。ゴミ一つでも部屋に落ちているのが見つかったら大変でした。彼女は一生懸命律法さんの要求を満足させようとしましたが、律法さんがあまりにも完璧な人だったので、それを満足させることができませんでした。律法さんは彼女の弱さには少しも同情しませんでした。まるで冷血人間のように厳しい人でした。彼女はまた何か指摘されるのではないかとどきどきしていました。やっと彼女は律法さんと結婚したことを後悔し律法さんから離れようとしました。しかし、律法さんと結婚した以上夫に関する律法から自由になることができませんでした。最近は男女平等になり、女性にも離婚する権利がありますが、当時はそのような権利がありませんでした。それではこの女性が夫に関する律法から自由を得るためにはどのようにすればいいでしょうか。7:1節をご覧ください。「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・」律法は人が生きている期間だけに権限を持ちます。死んだ者に対しては権限を持つことができません。ですから、彼女が夫から自由になるためには律法と彼女のどちらかが死ななければなりません。2、3節をご覧ください。「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」ところが、律法さんは鉄人のように絶対に死にません。結局、彼女が自由になるためには彼女が死ぬしかありません。4a節をご覧ください。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」キリスト者はキリストの十字架の死とともに律法に対して死にました。ですから、律法がこれ以上権限を持つことができません。また、キリスト者は死者の中からよみがえられたイエス様と再婚するようになりました。信仰生活はイエス様を夫として受け入れた生活です。イエス様は恵みさんです。イエス様は律法さんとは違って私達の弱さをよく理解し同情してくださいます。私達が過ちを犯しても恵みによって赦し、私達を貴く思い、愛してくださいます。私達が実を結ぶ生活ができるように励まし、助けてくださいます。夫に愛される女性は幸せです。その女性は夫を心から愛します。また、愛する夫のために喜んで美味しい食事を用意します。夫に仕えることに喜びがあります。同じく恵みさんと結婚したキリスト者は自分のためにいのちさえ惜しまずにお与えになったイエス様を心から愛します。イエス様を夫として受け入れたキリスト者は幸せです。イエス様に仕えることに喜びがあります。このように律法さんとの結婚生活と恵さんとの結婚生活は違います。私達が恵さんであるイエス様と結婚したのは、神のために実を結ぶようになるためです。新しい御霊によって仕えるためです。ある金持ちの青年がイエス様に来て「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と尋ねました。イエス様は隣人に対する戒めを守るように言われました。すると、彼は、それらは小さい時から守っていると言いました。イエス様はこのような彼に「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と言われました。すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました(マルコ10:17-22)。イエス様は彼が戒めより戒めの精神を実践するようにされたのです。戒めの精神は神様を愛し、隣人を自分のように愛することです。この青年はまさに律法さんと結婚した人です。彼の信仰生活は彼の顔に現われたように曇り、悲しみの生活でした。

 第二に、聖なる律法(7-13)

 以上から私達は律法から自由になったことを学びました。それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。律法は悪いものでしょうか。パウロは「絶対にそんなことはありません。」と言います(7)。パウロは律法の役割を説明することによって律法は聖なるものであることを説明しています。7b節をご覧ください。「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」「むさぼってはならない。」は十戒の中で第9の戒めです。人々はむさぼりを悪く思いません。むさぼらないと金持ちにもなれないと思います。しかし、律法はむさぼりが罪であると言っています。私達はこのように律法がむさぼりに対して罪として定めているからそれが罪であることがわかります。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私達のうちにあらゆるむさぼりを引き起こします。これをジョン・バニヤンが書いた天路歴程では面白いたとえで説明しています。キリスト者がある部屋に入るとほこりがたくさん積もっていました。ところがある人がほうきでその部屋を掃きました。するとほこりが立ち上がって息ができなくて死にそうになりました。その時、他の人が水を注すときれいになりました。その部屋は腐敗した人間の心の状態を表しています。また、ほうきで掃いた人は律法さんであり、水を注した人は恵さんであるイエス様です。このように律法は罪を悟らせてくれる役割をしますが、罪の問題を解決してくれることはできません。また、私を息ができなくして死なせるものは律法ではなく罪なのです。ですから、律法自体は悪くありません。律法は聖なるものです。

人々は聖書に興味を持って勉強します。ところが、聖書勉強をするにつれて段々自分が罪人であることを知るようになります。聖書の御言葉は鏡のように私達の罪人としての姿を映してくれます。私達は鏡を見なければ顔に何がついているのかわかりません。しかし、鏡を見るとよくわかります。このように聖書を学ぶと自分が罪人であることを悟るようになり、心苦しくなります。それで多くの人々が最初は興味を持って聖書勉強を始めますが、自分の姿が映されると聖書勉強を避けようとします。しかし、聖書勉強を通して自分の罪を悟ることは大切なことです。なぜなら、罪を赦してくださるイエス様に出会うためにはそれが必要だからです。律法はこのように罪を悟らせてイエス様に導いてくれる家庭教師のようなものです。ですから、この律法は信仰生活において必要なものです。恵みの下にあるからといって、律法を無視すると恵みを恵みとして知ることができません

 

?.パウロの内的な葛藤(7:13-15)

 

第一に、売られて罪の下にある者(14-24)

14-24節には「私」という存在とともに罪が擬人化されて出ています。ここでの「私」とは神様が与えてくださった本来の自我を意味します。この自我は真実に生きることを願っています。神様の御言葉に従うことを願っています。善を行ないたいと願っています。たとえば、私達はイエス様が私達を愛してくださったことを学び、普段憎しみを持っていた兄弟を愛しようとします。ところが、その兄弟を見た瞬間愛したい心が消えてしまいます。どれくらいかというと、その兄弟が話すことも、歩く姿も、表情さえも気に入らなくなります。心は愛しようとしますが、心ならず憎くなり、その兄弟にさしく声をかけることができません。その時、私達は葛藤が生じます。なぜしたいと思うことはできないで自分がしたくないことをしているのか。14節をご覧ください。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」私たちは罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。ですから、自分がしたいと思うことをしないで、自分が憎むことを行なっているのです。17節をご覧下さい。「ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」パウロはそれを通して自分のうちに善をしたいという願いはありますが、それを実行する力がないことがわかりました。すなわち、自分の力によっては兄弟を愛することができないことを悟ったのです。このような葛藤を通してパウロは一つの原理(principle)を悟りました。21節をご覧下さい。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」

ここで私達は人間はどんな存在であるのかを学ぶことができます。これは聖書的な人間観です。人間には善をしたいという本来の自我とそれができないようにする罪の勢力があります。ところが善をしたい力より罪の力がもっと強いのが問題です。23節で言っている法律は力、勢力を意味します。私の中にはいつも善と悪との戦いがあります。ところが、この戦いでいつも善が悪の勢力に負けてしまうのが問題です。兄弟を愛したくない人が誰もいないと思います。しかし、罪の勢力のために愛しようとしてもいつも失敗するのが問題です。ここでパウロは自分の力では何もできないことを悟り、絶望します。24節をご覧下さい。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」彼は自分が本当にみじめな存在であることを悟りました。彼はそのような絶望の中で自分を救ってくれる誰かに助けを求めました。彼はみじめな自分を救ってくれる対象を切なる心を持って探し求めました。

以上から内的な葛藤が自我発見と信仰の成長に影響を及ぼすことがわかります。二つの種類の葛藤があります。一つは人間関係から生じる葛藤であり、もう一つは神様と私との間に生じる信仰的な葛藤です。人間的な葛藤は無益です。イスラエルの初代王であったサウルはそのような無益な葛藤をした人です。ダビデがゴリヤテを一気に倒して帰って来た時、女達が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌いました。それを聞いた時からサウルはダビデを妬んでダビデを殺そうと追いかけるのに尊い人生を費やしてしまいました。彼は結局悪い霊にさいなまれながら惨めに死にました。このように人間的な葛藤は人をみじめにしてしまいます。ですから、このような葛藤が生じると私達はすぐ悔い改めなければなりません。そうしなければ受けた恵みも忘れてしまい、信仰の成長も止まってしまいます。結局神様の恵みから離れてみじめな人生を送るしかありません。

しかし、パウロが体験した信仰的な葛藤は神様の御前に真実に生きようとする人に生じるものでした。ですから、これは自我発見と信仰の成長に有益なものです。私達はこの葛藤によって自分がどれほど無力な者であり、どんな罪人であるかという自我を発見することができます。アウグスチヌス、ルータ、カルビンなど偉大な信仰の先輩達はこのような葛藤を通して自我を発見し、偉大な人として成長しました。ですからこのような葛藤が生じても恐れてはなりません。また、このような葛藤を避けてはなりません。このような葛藤なしには信仰の成長がないからです。信仰的な葛藤は自分が霊的に目を覚ましていることを現わしています。しかし、いくらこのような葛藤が有益なものだとしてもその葛藤自体に縛られてはなりません。このような葛藤が生じる時に自分に対しては早く絶望し、問題の解決者となられるイエス様を見上げることが大切です。また、人間的な葛藤が生じる時に信仰的な葛藤に切り替えることが必要です。私達は一人で信仰生活をすることはできません。必ずキリスト者の共同体を通して信仰生活ができます。ところが、信仰生活をして見ると、様々な人々が集まっているので必ず人間的な葛藤が生じます。競争心や妬みが生じます。その時、私達はそれ自体に縛られて自虐したり兄弟を憎んだりしてはなりません。人間的な葛藤ばかりしていると、サタンの餌食になりやすいのです。しかし、この時、この問題を神様に持って行くことによって、信仰的な葛藤に切り替えることができます。神様の御前に出て行き、祈ることによって霊的に成長することができるのです。

 第二に、問題の解決者、イエス・キリスト(25)

 今まで暗闇の中で一人を求めていたパウロに光が見えてきました。25節をご覧下さい。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」パウロは暗闇の中から光を見つけました。彼はイエス様だけが罪と死の勢力から自分を救うことができる唯一の方であることがわかりました。それではイエス様はこの問題をどのようにして解決してくださいましたか。

 

?.御霊に従う生活(8:1-11)

 

第一に、律法の要求を全うされた神様(1-4)

1、2節をご覧下さい。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」この御言葉はキリスト・イエスにある者が律法の要求と罪に定められることから解放されたことを宣言する御言葉です。これは偉大な解放宣言です。「罪に定められることは決してありません。」ですから、私達は自虐したり他人を罪に定めたりしてはいけません。ここで大切な言葉は「キリスト・イエスにある」という言葉です。この言葉はキリスト・イエスにあればすべての問題が解決されるということです。自分が解決しようとすれば罪の勢力が心の律法より強くて負けるしかありませんでした。しかし、キリスト・イエスにある者は、いのちの御霊の原理が罪と死の原理より強いので勝利することができます。すなわち、肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神様はしてくださいました。それでは神様はどのようにされましたか。3b、4節をご覧下さい。「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」律法の要求はとても厳しくてそれを守らなければ裁かれます。人間は弱くて律法を守ることができません。律法を守れなかった人は裁かれるしかありません。しかし、神様はこの律法の要求をすべてイエス様に背負わせることによってこの問題を解決してくださいました。イエス様は罪深い人間の姿でこの世に来られ、人間が負うべきすべての罪の重荷を背負われました。そして、イエス様は私達の代わりに十字架につけられ裁かれ、死なれました。このようにして律法の要求を全うされたのです。神様は私達が御霊に従って歩むように必要なすべての環境を備えてくださいました。

第二に、御霊に従う生活(5-11)

5、6節をご覧下さい。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」この御言葉は肉に従わず、御霊に従う者が具体的にどのようにすればいいか、その方向を提示してくれる御言葉です。ここで「肉的なこと」とは、神様なしに肉の本性に従うことです。行ないに基づいた自分の努力も含められます。肉の思いとは必ずしも汚れた思いを言うのではありません。自己中心的な考えも意味します。このような人は自分の力を信じ、自分を誇る人です。肉の思いは死です。肉の思いは神に対して反抗するものだから神様の御言葉に服従することができず、神様を喜ばせることもできません。しかし、「御霊に属すること」は真理の御言葉に基づいた考えであり、神様中心の考えです。このような人は神様が願う通りに生きようとします。自分の考えより神様の御言葉に従おうとします。このような人は神様の御言葉に服従し神様を喜ばせようとします。このような人の心には神様が下さるいのちと平安があります。

ここで考えの大切さを学ぶことができます。何を考えようがそれは考える人の自由です。また、他人が何を考えているのかわかりません。ところが、その結果は大きな違いがあります。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。肉の思いをする人には御霊がともにおられません。御霊による思いをする人は御霊が共におられ、御霊によって歩むようになります。すなわち、御霊によって導かれるようになります。これが信仰生活です。神の御霊が私達のうちに住んでおられるなら、これ以上肉の思いが私を支配しないようになります(9)。本当のクリスチャンは、形式的に教会に通っている人ではなく、御霊がその人のうちに住んでおられる人です。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。御霊が私達のうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています(10)。 もしイエス様を死者の中からよみがえらせた方の御霊が、私達のうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、私達のうちに住んでおられる御霊によって、私達の死ぬべきからだをも生かしてくださるのです(11)。

結論、信仰の成長のために具体的にどんな生活をしなければなりませんか。毎日、自分の力や努力によっては罪と死の力に打ち勝つことができないことを認めて神様が施してくださった恵みを覚えなければなりません。すなわち、イエス様が私のために流された血の力に頼らなければなりません。そして、真理の御言葉に聞き従い、御霊が自分の中に住まわれ、自分を助けてくれることを求めなければなりません。御霊に従う生活をしなければなりません。そのようにする時、御霊が私達のうちに働かれ、私ができないことができるようにし、深い信仰の世界に導いてくれるのです。私達は毎日信仰の奥義を悟り、熟練した信仰の人として成長するようになります。また、私達の信仰生活は感謝と喜びに満たされるようになります。私達の信仰がますます成長し、神様に喜ばれる人となるように祈ります。