2000年イザヤ書第5講

苦難のしもべ・栄光のしもべ

御言葉:イザヤ書53:1?12

要 節:イザヤ書53:5

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

イザヤ書は旧約の福音書と呼ばれるほどメシヤに関する予言が多く出ています。その中でも一番感動的なところが今日の御言葉です。今日の御言葉は、旧約聖書の中でイエス・キリストを最もはっきりと預言したものです。預言者イザヤは紀元前700年頃の人でしたが、彼はまるでイエス様の時代に生きていた人のようにイエス様について生々しく記録しています。特に彼の預言はイエス様の生涯と十字架の意味を中心に記録しています。この時間、御言葉を通してイエス様の苦難と栄光を考えながら恵みを受けたいと思います。

?.苦難のしもべ(1-9)

1節をご覧ください。「私達の聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」ここで「私たちの聞いたこと」とは、イザヤを含めて神様のしもべたちが伝えたメシヤに関するメッセージです。神様はイザヤ書7章で「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」と言われ、9章では永遠の父、平和の君として来られるひとりのみどりごについて言われました。メシヤが処女から生まれるということを誰が信じるでしょうか。しかし、神様は時になると、ひとり子イエス様をこの世にお与えになり、信じるすべての者に永遠のいのちを与えてくださいました。誰が自分の敵のために一人子を与えるでしょうか。それは信じがたいことです。しかし、神様はご自分から離れ去った罪人のために一人子をお与えになりました。それでイザヤは感激して叫びました。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」イエス様は苦難のしもべとしてこの世に来られました。それでは苦難のしもべの姿はどうですか。

2節をご覧ください。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」赤ん坊としてこの世にお生まれになったイエス様は若枝のようでした。イエス様は人々の無関心の中で馬小屋でお生まれになりました。ヘロデ王はメシヤとして生まれたイエス様を捜して殺そうとしたので、イエス様の両親は赤ん坊を連れてエジプトへ逃げなければなりませんでした。イエス様はガリラヤという田舎で植民地の民として貧しい生活をしました。イエス様には学歴も社会的な地位もありませんでした。そのようなイエス様は人々にはどのように見えましたか。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」人々は美しくなるのを慕い求めます。ある人は良い学歴を慕い求めます。ある人は金持ちになるのを慕い求めます。ある人は金持ちと結婚することを慕い求めます。しかし、イエス様には私達が慕うような見栄えもありませでした。クリスマスカードには飼葉桶にお生まれになったイエス様が奇麗に描かれています。それで私達はイエス様の姿を想像する時に人々が慕うような姿を想像します。しかし、実際にイエス様は私達が見とれるような姿もなく、輝きもなく、私達が慕うような見栄えもありませんでした。それで彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人となられました。大祭司の前で尋問される時に、ある人々は、イエス様につばきをかけ、顔をおおい、こぶしでなぐりつけました。また、役人達は、イエス様を平手で打ちました。ローマの兵士達はイエス様にいばらの冠を編んでかぶらせ、葦の棒でイエス様の頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしながら嘲弄しました。イエス様の生涯はどんなに美しい生涯だったのでしょうか。イエス様は謙遜であり、柔和であり、愛が豊かな方でした。朝から晩まで多くの人々を癒し、真理の御言葉を教えられました。心を尽くして神様を愛し、人々を愛してくださいました。しかし、人々の判断基準は違いました。それでイエス様はさげすまれ、人々からのけ者にされました。

イエス様は悲しみの人となられました。群衆はイエス様がパンを与えてくださったり、病人を癒してくださったりする時には熱心に従いました。ところが、イエス様が経済的なメシヤ、政治的なメシヤではないことを知った時にはみな離れました。イエス様は人々や宗教指導者達、甚だしくは愛する弟子達からも捨てられる悲しみを受けられました。しかし、イエス様の悲しみは根本的に羊達に対する悲しみでした。イエス様は耳が聞こえず、口のきけない人を見て、深く嘆息して、その人に「エパタ。」と言われました。イエス様は人々の悲しみをご自分の悲しみとされました。ラザロが死んだ時に、死の勢力に支配されている人々をご覧になって悲しまれました。エルサレムが裁かれることを考えながら悲しまれました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ13:34)。イエス様は病を知っておられました。それは苦しみを知っておられたことです。イエス様は多くの苦しみを受けられたので、人の苦しみを知っておられました。イエス様は十字架の苦しみを受けられました。イエス様は人々が受けるすべての苦しみを受けられました。ですから、人々の悲しみや苦しみをよく知っておられます。イエス様は丈夫な人を招くためではなく、病人を招くために来られました。イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。イエス様は悲しみと苦しみの中にいる人々を慰め、癒し、彼らを救うためにこの世に来られました。イエス様は、神様の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。イエス・キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです(ピリピ2:6?8)。イエス様は誰よりも富んでおられたのに、私達のために貧しくなられました。それは、私達が、キリストの貧しさによって富む者となるためです(?コリ8:9)。

それではイエス様は何のためにこのような苦しみを受けられましたか。4節をご覧ください。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」ここで病とは、弱さ、病気、弱点を意味します。私たちは弱い存在です。自分が強いと思う人でも病気でもかかるといかに自分が弱い者であるかがわかります。一日でも食べなければ力がなくなります。肉体だけではなく、心もたましいも弱くて傷つきやすいです。少しでも関心を持ってくれないと寂しさや孤独を感じます。弱くて誘惑に陥ります。このような弱さは私達の人生に痛みをもたらします。私達の痛みには何がありますか。貧しさによる痛みを持っている人もいます。早く親を亡くした痛みを持っている人も、子供の病気による痛みを持っている人もいます。誰が私達の病を負い、私達の痛みをになってくれることができるでしょうか。

イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みをにないました。ここで「病を負い」で「負う」という言葉は、「移す」という言葉に訳すことができます。そして「痛みをになった」で「になう」という言葉は、「運搬する。取り除く。」という意味です。この言葉はバプテスマのヨハネが叫んだ言葉と同じです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」イエス様は私達の病と痛みを私達から取り除いてくださいます。私達がイエス様を受け入れる時、病と痛みが癒され新しい人生を過ごすことができます。自分の弱さを乗り越えて強くなります。悲しみの人が喜びの人に変わります。ところが、私達はイエス様が苦しみを受けるのを見ながら、どのように考えましたか。イエス様は罰せられ、神様に打たれ、苦しめられたのだと思いました。私たちは自分の罪について無知だったので、イエス様の苦しみの意味を知りませんでした。そして、イエス様の苦しみを神様のさばきによるものだと思いました。

しかし、イエス様は何のために苦しみを受けられましたか。5a節をご覧ください。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」ここで「そむきの罪」とは、道徳的な罪と宗教的な罪として私たちの心の弱さによる罪です。たとえば、小さなことでもよく怒ったり、本性に従って行ったりする悪い習慣などがあります。このような罪のために同労者によく怒ったり、子供達に怒ったり、手を出したりします。最近何年前か長女を殺した母親が今度は次女と三女を殺したことで逮捕されました。他人を裁きながら自分も同じことを行ないます。そのために人々の心を傷つけます。このようなそむきの罪のためにイエス様は刺し通されました。イエス様が十字架につけられる時、大きな釘はイエス様の両手と両足の骨を砕きながら刺し通しました。その時、イエス様の体は激しい痙攣を起こし、イエス様は叫び声を上げるしかありませんでした。私達は自分が弱くて仕方なくそむきの罪を犯すと思いますが、イエス様は私たちのそむきの罪に対する大きな代価を払われました。それを考えると、私達は自分の罪を合理化しないで神様の御前に悔い改めなければなりません。そして、その悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。

またイエス様は、私達の咎のために砕かれました。ここで言う咎は、不正と不法を指す言葉として神様に逆らうすべての罪を意味します。人間は高慢であり、利己的です。人は自分の欲望を満たすために神様を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました(ローマ1:21?23)。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です(ローマ1:29?31)。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです(ローマ1:32)。イエス様はこのような私達の咎のために砕かれました。イエス様の頭にはいばらの冠がかぶらせ、全身はむちに打たれました。十字架につけられたイエス様はパレスチナ地方の暑い日差しによって渇き切り、苦しまれました。十字架にかかれたイエス様の骨々はみな砕かれました。聖書は次のように言っています。「私は、私の骨を、みな数えることができます。」(詩篇22:17)。そしてその時の苦しみを次のように書いています。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」(詩篇22:14、15)。イエス様は神様から見捨てられ、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と大声をあげて息を引き取られました。ローマの兵士達はイエス様がなくなったのを確認するためにわき腹を槍で刺したので、水と血が流れました。イエス様は足の裏から頭まで砕かれました。

それによって、私たちはどんな恵みを受けるようになりましたか。5b節をご覧ください。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」第一に、彼への懲らしめが私達に平安をもたらしました。これは神様と私達との関係が回復されたことを意味します。私達は罪によって神様の敵になっていました。私達は神様の呪いの対象となり、裁きを恐れる不安な日々を過ごしていました。しかし、イエス様によって神様と和解し、平安がもたらされました。私達は神様を父と呼べるようになりました。神様との関係の回復、これこそ最高の祝福です。第二に、彼の打ち傷によって、私達は癒されました。罪は私達を傷つけます。人々はねたみ、憎しみ、情欲、偽りなどの罪によって心が深く傷つけられました。私達は自分ではどうすることもできない罪のために滅ぶほかありませんでした。しかし、イエス様はこのような私達を癒してくださいました。私達に真の自由と真の喜びを与えてくださいました。人は平安が必要な存在であり、癒されるべき存在です。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。

子供の盗み癖で悩んでいる父親がいました。ある時、こんどまた同じことをしたら、もう絶対に赦さない、お前の手がへし折れるまでひっぱたくと宣言しました。子供も「もうしません。したら、たたいてください。」と約束しました。それなのにまた子供は盗みました。父は、物置に引きずって行き、彼の手を、鉄の棒で力いっぱい打ち叩きました。しかし、実際に打ち叩いたのは、子供の手ではなく、子供の上に置いた自分の手でした。父親の手からは血が吹き出し、本当に骨まで砕かれました。厳しい父の愛が子供に迫り、その子供はその時から盗みをしなくなりました。子供が悪いことをしていたのに、叱らない親がいたら、それはよい親ではありません。同じように、人間が罪を犯したのに、怒らない神は本当の神ではありません。神様は罪を犯した人々の罪を怒り、裁くしかありません。私達は自分のそむきの罪のために刺し通され、自分の咎のために砕かれなければなりません。しかし、実際に刺し通されたのは、イエス様であり、砕かれたのはイエス様でした。イエス様は私達が受けるべき神の怒りと裁きを受けるために刺し通され、砕かれました。イエス様は私達の身代わりとなって十字架につけられました。イエス様への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達は癒されました。何と大きな愛でしょうか。

6a節をご覧ください。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行きました。人々は自分では知者であると言いながら、神様の御言葉に聞き従わず、おのおの、自分勝手な道に向かって行きました。その道が滅びの道であることも知らず罪人の道に立ちました。このような人々は神様のさばきを受けるしかありません。しかし、このような人々のために主は何をなさいましたか。6b節をご覧ください。「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

イエス様は私達のすべての咎をどのように負われましたか。7節をご覧ください。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」人々は自分の過ちが現われても何とかしてそれを弁明しようとします。ましてや何の理由もなしに苦しみを受けるとどのようにするでしょうか。必死になって自分の正しさを証明しようとするでしょう。それでもだめなら断食や自殺でもして自分が正しいことを証明しようとする人もいます。人は絶対に黙ってはいられません。しかし、イエス様は何の罪もない方ですが、ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かれませんでした。ほふり場に引かれて行く牛は悲しくて「モー。モー。」と叫びます。豚も必至になって叫びます。しかし、羊は黙っています。私はほふり場に引かれて行く羊は見た事がありませんが、牧場で羊の毛を刈るのは見た事があります。本当に不思議にも羊は毛を全部刈るまで黙っていました。イエス様は宗教指導者達やピラトの前で尋問される時に黙っておられました。人々が偽証をしてイエス様を訴えても黙っておられました。イエス様を尋問していたピラトが不思議に思い、「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」と言うほどでした。何の罪もないのに鞭に打たれ、十字架を背負ってゴルゴタの丘に行く時にもイエス様は黙っておられました。十字架につけられ、苦しまれる時にも何の弁明もなさいませんでした。このように黙っておられるイエス様を見て人々はイエス様が罪を犯したからだと思いました。イエス様は罪を犯したので十字架につけられると思いました。

それではイエス様はなぜ全ての苦しみの前でも口を開かなかったのでしょうか。第一に、イエス様に罪がないことは神様が知っておられたからです。イエス様は人々から認めてもらうために人々に弁解する方ではありません。イエス様はどんな場合にも神様の御前に立っておられました。苦難を受けることが神様の御旨であることを知っておられました。第二に、私達の罪をになうためでした。イエス様は私達の罪の代価を払うために黙っておられました。人々から蔑視され、私達の咎と罪のために十字架につけられ、恐ろしい苦しみを受けながらも黙っておられたイエス様の愛は計り知れない愛です。イエス様の沈黙は私達に対する愛の表現です。もしイエス様が黙っておられず、御自分の無実を主張して十字架を負わなかったなら、私達はどうなったのでしょうか。私達は今もなお罪の中にいるでしょう。黙って私達の罪と咎をになってくださったイエス様は私達の救い主となられました。私達はイエス様の沈黙によって罪から救われ新しいいのちを得るようになりました。イエス様は黙っておられましたが、私達はその沈黙の中からイエス様の声を聞くことができます。私達に向かう限りない神様の愛と赦しの声を聞くことができます。私達はこのイエス様の十字架の前に出て行かなければなりません。神の御子イエス・キリストが私のためにそれほど大きな苦しみを受けながらも黙っておられたのに、私達は何を弁明する必要があるでしょうか。私達のすべて咎と罪を知っておられるイエス様の前に何を隠すでしょうか。自分の罪と咎の問題を解決するために私達に何ができるでしょうか。私達は十字架を負われたイエス様のために何もすることができません。イエス様は私達に何も要求しませんでした。ただ私達にできることがあるとすれば、それはただ一つ、イエス様を信じることです。私の罪のために十字架の苦しみを受けられたイエス様を信じること、イエス様が私の罪の代価をすべて払ってくださったことを信じること、それだけが私達に要求される唯一のことです。私達の罪と咎のために苦難のしもべとなられた主イエス・キリストに感謝と賛美を捧げます。

?.栄光のしもべ(10-12)

それではイエス様が私達のために苦しみを受けられた結果はどうなりましたか。イエス様を砕いて、痛めることは主のみこころでした。イエス様は神様の御心に従って、御自分のいのちを罪過のためのいけにえとして捧げられました。それによって神様は人々の罪を赦し、救われました。イエス様は御自分の激しい苦しみによって多くの人々が生かされるのを見て、満足されました。イエス様は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎をになわれました。イエス様はご自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられました。イエス様は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをされました。イエス様は神様と人との間の仲介者となられました。イエス様は十字架につけられた時にとりなしの祈りを捧げられました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。そしてイエス様は死者の中からよみがえり、栄光の主、主の主となられました。それによってイエス様はサタンとの戦いで勝利し、私達の主となり、永遠の王となられました。

私達は自分が犯した罪のゆえに神様から裁かれ、滅びるしかない者でした。しかし、イエス様は苦難のしもべとしてこの世に来られ、私達のそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達は癒されました。私達は罪と死から救われ、永遠のいのちを得るようになりました。神様の子供として新しい人生を過ごすようになりました。私達はこのイエス様の恵みに感謝し、賛美するべきです。罪人のために一人子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった神様の愛に感謝します。私達の罪のために十字架につけられ、死なれ、よみがえられたイエス・キリストの御名があがめられますように祈ります。このイエス様によって私達も罪に打ち勝ち、勝利の人生を送る事ができるように祈ります。