2000年ローマ人への手紙第5講

 

信仰によって義と認められた人々

 

御言葉:ローマ人への手紙4:1?25

要 節:ローマ人への手紙4:5

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、

その信仰が義とみなされるのです。」

 

私たちは先週のメッセージを通して購いの福音について学びました。この福音は、イエス様が私の罪のために十字架につけられ死なれたことを信じるなら、値なしに与えられる神様の恵みの福音です。ところが、このような単純な真理を証しても相変わらず疑い、律法による行いを主張するユダヤ人達がいました。パウロは彼らのために旧約聖書のアブラハムとダビデを例にして、信仰によって義と認められる真理を分かりやすく説明しています。今日の御言葉を通して私達もアブラハムとダビデの信仰を良く学び、信仰によって義と認められるように祈ります。

 

?.義と認められた者の幸せ(1-8)

 

1,2節をご覧下さい。「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。」アブラハムは行いによって義と認められたのではありません。彼がユダヤ人だから義と認められたのでもありません。家柄がいいからでもありません。それでは彼が義と認められたことに対して、聖書は何と言っていますか。3節をご覧下さい。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。この御言葉は創世記15:6にあります。当時アブラハムは後継ぎの問題で絶望していました。創世記12:1、2節は信仰生活を出発する時に彼に与えられた約束の御言葉です。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」アブラハムはこの約束の御言葉を信じて生まれ故郷、父の家を出て、神様が示す地へ行きました。ところが、10年が過ぎても大いなる国民となるところか、一人の子供さえも与えられませんでした。それで彼は部屋に閉じこもって神様につぶやきました。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」すると、主は彼を外に連れ出して仰せられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」夜空には数え切れない星がきらきら輝いていました。アブラハムは天を見上げながら「一つ、二つ、三つ」と数えていたでしょう。アブラハムが数え切れないと思っていた時、さらに主は仰せられました。「あなたの子孫はこのようになる。」これは何と驚くべき言葉でしょうか。子供が一人もいない年寄りのアブラハムに数え切れない星のような子孫を与えてくださるというのは、信じれらないことです。しかし、アブラハムの反応はどうでしたか。創世記15:6節は次のように言っています。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラハムは信じられない主の言葉を信じました。それがきょうの3節の御言葉です。アブラハムが信仰の先祖となったのは、神様の御言葉を100%信じて「アーメン」と受け入れた信仰によってでした。それを18節では望み得ないときに望みを抱いて信じたと言っています。神様はこのアブラハムの信仰に基づいて義と認められたのです。すなわち、絶望的な時、望み得ないときに望みをいだいて信じる信仰によってアブラハムは義と認められたのです。

4節をご覧下さい。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」働く者が労働を提供してその代価として給料をもらうことは当たり前なことです。ただ働いてもないのに報酬を受けたとしたら、それは恵みです。働いてないのに雇い主が哀れんでボーナスまで支給してくれたとしたら、それはさらに大きな恵みです。同じく義と認められることが働きの代価として得られるものならそれは恵みではありません。当然支払うべきものとしてみなされます。それを受けた人は感謝するどころか、報酬が少ないと思ったら不満を持つのです。しかし神様は何の働きもない者に対しても、どのようにして義と認めてくださいますか。5節をご覧下さい。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」神様は不敬虔な者を義と認めてくださいます。私達は神様について考える時、因果応報的に考えやすいです。たとえば、まじめな人、正しい人、丈夫な人を義と認めるのではないかと思うのです。しかし、神様はそのような方ではありません。むしろ神様は不敬虔な者を義と認めてくださる方です。私達がこの神様に対する信仰を持つべきです。不敬虔な者さえその信仰を見て義とみなされる神様を信じなければなりません。まるでルカの福音書15章でイエス様が言われた放蕩息子のたとえ話のようです。神様は放蕩息子のような汚れた人、不敬虔な人でも悔い改めて立ち返る時、ありのまま受け入れてくださる方です。「お前の顔なんか見たくもない。出て行け。」と言われる方ではありません。「よく帰って来たね。良かった。良かった。さあ、お祝いの宴会を開こう。」と喜んで受け入れてくださる方です。イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られました。

6-8節は、ダビデをたとえにして、何の働きもなしに、神様から義と認められる人の幸いに対して言っています。「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」ここには幸いという言葉が繰り返されています。ここでの幸いはイエス様の山上垂訓で出ている幸いと同じ意味の言葉です。すなわち、最高に幸せな状態、永遠の喜び、救いの恵みによる喜びや満足のような本当の幸せを意味する言葉です。ダビデは律法時代の人でしたが、罪の赦しを受けた代表的な人です。アブラハムが信仰の先祖だとすれば、ダビデは罪の赦しを受ける人の代表だと言えます。ダビデは幸せそうな人でした。彼は王であり、将軍であり、詩人であり、音楽家でした。しかし、彼はこのようなことについて幸いであると言っていません。彼の生涯の中で一番幸せだったことは神様から罪を赦していただいたことです。世の中で一番大きな苦しみは罪による苦しみであり、一番大きな喜びは罪の赦しによる喜びです。それはダビデが体験したことです。彼はウリヤの妻、バテ・シェバと姦淫の罪を犯した時、彼が書いた詩篇32編を見ると、非常に苦しんでいたことがわかります。彼が罪を隠して黙っていたときには、一日中、うめいて、骨々が疲れ果てました。主の御手が昼も夜も彼の上に重くのしかかり、心の平安がありませんでした。彼はこのような苦しみの中で神様の御前に自分の罪を告白しました。涙を流しながら悔い改めました。その時、彼は神様から罪を赦していただく恵みを受けました。神様から罪が赦された彼は飛び上がるほど喜びました。川の流れのように心の奥底から平安が流れ出ました。実際に罪が赦された人の顔を見ると、明るく輝きます。パウロはこのような罪の赦しも、行いにとは別の道で神様によって得られるものであると言っています。私達が罪の赦しを受けるためには、不敬虔な者を義と認めてくださる神様を信じて、信仰によって罪の問題を持って主の御前に出て行かなければなりません。その時、誰でも罪の赦しをいただく恵みを受けることができます。罪は癌のかたまりのようで、そのまま放っておくと人のたましいを腐らせます。罪は岩のように人の心の上に重くのしかかっています。人の本当の幸せはどこから来るのでしょうか。ダビデのように立派な人間条件を持てば所有することができるでしょうか。贅沢な生活ができるお金があればできるでしょうか。博士の学位を持てば幸せになれるでしょうか。いいで。そうではありません。人の本当の幸せは、その人が神様に出会い、罪が赦され、新しく生まれ変わるところにあります。私達が不敬虔な者を義とみなされる神様の御前に信仰によって出て行き、罪の赦しを受ける幸いな人となるように祈ります。

 

?.信仰の先祖、アブラハム(9?16)

 

9節をご覧下さい。それではこの幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。ユダヤ人はこの幸いが割礼のある者にだけ与えられると思っていました。それではパウロは何と言っていますか。パウロはアブラハムがいつ信仰によって義と認められたかに注目しています。アブラハムが信仰によって義と認められたのは、創15:6節の御言葉です。アブラハムが85歳の時でした。しかし、彼が割礼を受けたのは、創17:10を見ると99歳の時でした。ですから、アブラハムが割礼を受けたのは、彼が信仰によって義と認められてから14年後のことです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです(11,12)。ですから、自分の先祖アブラハムが割礼を受けて義と認められたと思っているユダヤ人は聖書をよく知らなかったことになります。

 アブラハムは信仰の先祖として子孫たちに信仰の足跡を残しました。望み得ない時に望みを抱いて信じる信仰の足跡を残しました。アブラハムにも多くの咎と過ちと罪がありました。しかし、彼の優れた点は神様が言われた言葉を聞いて悔い改めて信じたことです。また、神様の言われた言葉に直ちに聞き従ったことです。割礼を受けるように言われたら、その日に受けました。イサクを捧げるように言われた時にも翌日朝早く起きて聞き従いました。私達がアブラハムの子孫となるためには、彼の信仰と従順の足跡に従わなければなりません。この信仰と従順を所有する時に神様は私達をアブラハムと同じく義と認めてくださいます。私達のうちにもこのような信仰と従順の足跡を残す人々がいることを感謝します。寺崎アブラハム牧者はfull time牧者として仕えるために会社をやめようとした時、給料をもっと上げるから続けて働いてほしいと言われました。しかし、彼はそれを断って今月からfull time牧者として仕えることによって、信仰の足跡を残しました。安藤マリヤ牧者は信仰の結婚を言われた時にその場で決断して従順の足跡を残しました。いよいよ今月25日に東京センターで始めて結婚式が行なわれます。李ヨシュア宣教師は信仰によって、韓国の職場を退職して日本で宣教師として働く決断をしました。歳も40歳半ばであり、家庭を持っている彼としては信仰がなくてはできないことでした。彼は今、職場の整理のために韓国に行っています。元々は3月末まで職場を整理して来る予定でしたが、25日の結婚式の合唱を担当しているので、日本に戻り、結婚式が終わると再び韓国に行こうとしています。彼の信仰を通して恵みを受けます。皆さんはどんな足跡を残していますか。信仰の足跡ですか、それとも、不信仰の足跡ですか。従順の足跡ですか、それとも、不従順の足跡ですか。私達がアブラハムの信仰の足跡に従い、私達の後輩や子供達に信仰の足跡を残すことができるように祈ります。

13-16節でパウロは律法の問題について話しています。アブラハムは行いによって義と認められませんでした。また、割礼を受けることによって義と認められませんでした。それと同じくアブラハムは律法を守ることによって義と認められたのでもありません。律法はアブラハムの時から430年後にモーセを通して与えられたものです。ですから、アブラハムが律法を知り、律法を守ったはずがありません。そういうわけで、律法を守ることによって義と認められると主張するユダヤ人の論理は間違っているのです。13節をご覧下さい。世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます(14)。16節をご覧下さい。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」

 

?.アブラハムの信仰(17-25)

 

信仰の先祖、アブラハムはどんな神様を信じたのでしょうか。

第一に、彼は全能なる神様を信じました。17節をご覧下さい。「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。」アブラハムは死者を生かす復活の神様、無いものを有るもののようにお呼びになる創造の神様を信じました。彼は神様をよく知っていました。私達も神様についてよく知る時に信仰を持つことができます。復活と創造の神様は全能の神様です。この神様の中では不可能なことがありません。

 第二に、彼は真実な神様を信じました。18節をご覧下さい。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」アブラハムは85歳の年寄りで、一人の子供もいませんでした。ですから、「あなたの子孫は空の星のように多くなる」という言葉は現実と全くかけ離れたように聞こえます。しかし、彼はこのように望み得ない時に神様が言われた約束の御言葉を信じました。彼はそれが神様の御言葉であるがゆえに信じました。19-21節をご覧下さい。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」アブラハムは百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることを認めていました。また、彼の妻、サラの胎の死んでいることも認めていました。彼らは生物学的には子供を産むことが不可能なことです。死んだも同様な彼らから何が期待できるでしょうか。常識的にいくら考えても不可能なことです。しかし、それでも彼の信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。約束されたことを必ず守られる真実な神様を信じました。神様は彼の信仰のどおりに祝福してくださいました。

第三に、アブラハムは復活の神様を信じました。彼は絶望の時に、望み得ない時に復活信仰によって相変わらず神様を信じました。彼は復活信仰によって、神様に栄光を帰す事ができます。

 イエス様もヨハネの福音書11章で、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられました。それでナザロは死にました。それは弟子達に一番よい信仰、一番神様に栄光を帰すことができる復活の信仰を与えるためでした。イエス様は死んで四日になっていたナザロの墓の前で言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)。ここで信じるというのは復活の信仰を指しています。私達が神様の栄光を見るためには、どんな状況の中でも復活の信仰を持つことです。誰でも信じられることは信じることができます。誰でも望み得るときには望みを抱いて信じることができます。しかし、アブラハムは望み得ないときに望みを抱いて信じました。私達がこのアブラハムのように望み得ないときに望みを抱いて信じるなら神様がどれほど喜ばれるでしょうか。たぶん神様が私達の信仰をご覧になって感動されるでしょう。神様はこのような人を義と認めてくださいます。ですから、復活信仰を持っている人は望み得ない時にも絶望しません。復活信仰を持っている人は失敗しても落胆せず、再びチャンレンジします。そして、その人は神様の栄光を見ることができます。

23-25節をご覧下さい。「しかし、『彼の義とみなされた。』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」この御言葉は、アブラハムの信仰と私達が信じる信仰の内容、すなわちイエス様の十字架と復活を信じる信仰が根本的には同じ脈絡にあることを教えてくれます。アブラハムが望み得ない時に望みを抱いて信じたのは、私達がイエス様の十字架と復活を信じることと同じです。私達は十字架につけられたイエス様、復活されたイエス様を見たことも手で触ったこともありません。しかし、私達はこのイエス様を信じています。神様はこのような私達の信仰を義とみなされるのです。25節は、十字架と復活は、私達の信仰の根底であるということを語っています。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」私達は、きょうも、あすも、罪を犯す者です。神様の約束の御言葉を聞きながら、恐れたり、疑ったりします。私達は、そのような自分を嘆き、自分には神様から報酬を与えられるようなものは何一つないことを認めなければなりません。このような私のためにイエス様が十字架につけられたことはなんと大きな恵みでしょうか。そして、私達の罪を赦し、私達の信仰を義と認めてくださる神様の恵みは何と大きいものでしょうか。何の働きもない不敬虔な者を義と認めてくださる神様に感謝します。

結論、アブラハムとダビデは、行ないや割礼、律法を守ることによって義と認められたのではありません。彼らはただ信仰によって義と認められました。また、信仰によって罪を赦していただきました。私達も信仰によって義と認められます。信仰によって罪を赦していただくことができます。私達に信仰の先祖アブラハムのような信仰が与えられ、信仰の足跡を残し、その信仰によって神様に栄光を帰すことができるように祈ります。