1997年 収穫感謝祭

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
御言葉:詩篇103:1?22
要 節:詩篇103:2

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 先週はいのちのことばを、ことごとく語りなさいという御言葉を学びました。今日の礼拝は収穫感謝祭の礼拝です。詩篇103篇はダビデが老年に書いた賛美詩です。彼は神である主が自分と民によくしてくださったことを覚えて主をほめたたえています。この時間、私達も神様が私達によくしてくださったことを覚えて主をほめたたえることができるように祈ります。

?。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(1ー5)

 1節をご覧ください。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」ダビデは自分のうちにあるたましいに向かって「主を誉めたたえよ」と言っています。そして、続けて自分のうちにあるすべてのものに向かって「聖なる御名をほめたたえよ」と呼びかけています。私達のうちにあるすべてのものとは何でしょうか。人は霊あるいはたましいと精神と体によって構成されている存在だと言われています。ですからダビデは私達に霊と精神と体によって主をほめたたえるように呼びかけているのです。 

 旧約のサムエル記を見ると、「神の箱」を運び出す時、ダビデとイスラエル人は歌を歌い、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊りました。ダビデはその時、自分が裸になるのも知らずに主の前で、力の限り踊りました(?サムエル6:5、14)。私達も神様を賛美する時に、口だけではなく私達のうちにあるすべてのものによって賛美しましょう。シカゴセンターのボーカルチームはただ歌うだけではなく自分の体を持って主をほめたたえるので聞く人々に感動を与えます。小林姉妹は毎週の礼拝の時に心を込めてピアノ伴奏をしているので聞く私達は賛美せずにはいられない心になります。楽器を使うことができず、歌も上手ではない人はどうすればいいでしょう。その人は手を叩いたり、踊ったりしながら主をほめたたえることが出来ます。このように神様を誉めたたえる時に心から喜びが湧き出ます。それでヤコブ5:13はこのように言っています。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」

 2節をご覧ください。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」この御言葉は私達が主をほめたたえなければならない理由について言っています。それは主のよくしてくださったことのためです。ダビデは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と言っています。なぜでしょうか。それは人は他人の良くしてくれたことをよく忘れてしまうからです。人は自分に悪くしたこと、自分の心を傷つけたことはなかなか忘れません。死ぬまで忘れず、自分の子供達に「必ず復讐しなさい」と遺言として残して死ぬ人もいます。しかし、自分に良くしてくれたことはよく忘れます。出エジプトしたイスラエル人のことを見るとよくわかります。彼らは430年間もエジプトで奴隷生活をしていました。神様は彼らをあわれみ、指導者モーセと立てて彼らを奴隷から解放してくださいました。その時イスラエル人は神様の恵みに感激し、賛美しながら約束の地に向かって進みました。ところが、荒野で水や食べ物がなくなると救いの恵みを忘れてすぐ神様につぶやき、指導者モーセを石で打ち殺そうとしました。私達はこのようなイスラエル人のことを読んでいると彼らは本当に悪い人だなと思うかもしれません。しかし、よく考えてみると実は私達もイスラエル人とあまり変わりがないことがわかります。私達は神様の一方的な恵みによって罪の奴隷から解放され神様の子供となりました。この神様の恵みを覚えていた時には「主よ。私に施してくださった恵みは満ち溢れています。もうこれで十分です。今死んでも悔いはありません。主のためなら何でもします。」と言います。ところが、いつの間にかその恵みを忘れてしまい人につぶやき、神様につぶやく時が多くあるのです。

 しかし、神様の恵みを覚えている人には豊かな神様の祝福が臨まれます。まず恵みを忘れない人はいつまでも神様との堅い愛の関係性を保つことが出来ます。その人は心に神様の恵みが刻まれているので、逆境の中でも揺れることがありません。その人はいつも明るく肯定的な言葉を言います。その人の心は、主との交わりによる満足と喜びに溢れています。神様の愛と恵みのゆえに霊的な力と情熱が湧き出ます。

 3ー5節をご覧ください。「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」ここでダビデは主の良くして下さったことを具体的に述べています。

 第一に、私達のすべての咎を赦してくださいました。ダビデはほかのすべての恵みよりもまず罪の赦しの恵みを歌っています。それはどんな恵みよりも罪の赦しが一番大きな恵みだからです。ダビデは忠臣ウリヤを殺し、ウリヤの妻バテ・シェバを自分の妻とする罪を犯しました。彼はその罪を隠そうとしました。しかし、彼が罪を隠し持っていた時に、その罪は彼の内側にあって大きな苦しみとなりました。彼はその時の苦しみを次のように告白しました。「私は黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は夏のひでりでかわききったからです。」(詩32:3、4)。ダビデはサウルから逃げていた時にもそれほど苦しくありませんでした。体は疲れ果てていても彼の心には神様との愛の関係性のゆえに安らぎと喜びがあったのです。それで、激しい戦いの中でも宝石のように輝く詩篇を書きました。しかし、彼が罪を犯して神様と関係性が破壊されたとき、どこでも安らぎを得ることができませんでした。王様というタイトルを持ち、見事な宮殿の中で住んでいても罪のゆえに一日中うめいていました。このように罪は人を苦しめ、最も惨めにならせます。

 罪は私達から神様の尊いかたちを奪ってしまいます。罪は人の生活を羞恥心と自意識、恐れの奴隷にならせてしまいます。人は罪を犯すと健全な考え方が破壊されます。人々の前で醜い自分を隠すために二重人格者になります。酷くなると精神病にかかってしまいます。アメリカのカウンセリング学者であるクライベルは自分が4歳の時、1歳の弟と遊んでいましたが、弟が死にました。その後、彼は自分が弟を殺したという罪意識のために30代になってイエス様に出会うまで毎晩悪夢にうなされていたそうです。このように罪の問題はいくら時間が経ち、環境が変わっても解決されません。罪の代価である死ぬことによってしか解決できないのです。ダビデは罪の代価として王位を奪われ、死ななければなりませんでした。ところが、彼が神様の御前に出て行き、罪を告白し、真実に悔い改めたとき、神様は彼のすべての罪を赦してくださいました。ダビデは罪の赦された時の喜びを次のように歌いました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32:1、2)。罪の赦しこそ本当の幸いです。罪が赦された人の喜びはまるで死刑囚が無罪宣告を受けた喜びのようなものです。

 私達も過去罪のために苦しんでいました。罪のゆえに自分の人生を呪い、他人を呪う人生でした。ところが、イエス様は私達の罪のために十字架につけられました。その時、イエス様はこう言われました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)。イエス様は私達が犯した罪の代価を支払うためにご自分の尊いいのちを捨てられたのです。そして誰でもイエス様のところに出て行き、罪を告白するとすべての罪が赦される新しい道を設けてくださいました。もし、私達が自分の罪を言い表わすなら、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。私達の罪がどんなに酷いものであってもありのまま主の御前に出て行けば、主は私達のすべての咎を赦し、私たちを神様の子供として迎え入れてくださいます。たとい、私達の罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。

 私達は今年も多くの罪を犯しました。時々情欲の誘惑に負けてしまいました。自己中心的な言葉遣いと行動によって兄弟を傷つけました。安逸のゆえに委ねられた使命を忠実に担うことができませんでした。しかし、私達が主の御前に出て行き、真実に罪を告白した時、主は私達のすべての罪を赦し、きよめてくださいました。再び立ち上がって主と福音のために働ける力と信仰とビジョンを与えてくださいました。私達のすべての咎と罪を赦してくださった主をほめたたえます。

 第二に、私達のすべての病をいやしてくださいました。3b節をご覧ください。「あなたのすべての病をいやし」とあります。人々は数え切れないほど多くの病をわずらっています。それで病院にはいつも患者で溢れています。癌、糖尿病、鼻炎、便秘、胃病、喘息、かぜ、水虫、肩ごりなど数多くの病があります。現在エイズ感染者は世界で2千万人を越えています。また、精神的な病気もあります。不眠症、自閉症、対人恐怖症、鬱病のような病はなかなか直りにくい病気です。これよりもさらに恐ろしい病気があります。それはたましいの病です。人生の無意味と虚無、罪意識と恐れ、孤独と絶望の病は人間の努力によって解決できるものではありません。人々はこのようにからだと精神とたましいの病をわずらっています。イエス様はこの世に来られ、様々な病気にかかっている多くの人々を癒してくださいました。イエス様は38年間病気だった人を癒してくださいました。悪霊につかれている人から悪霊を追い出してくださいました。利己心のために心が病んでいた取税人マタイを癒してくださり、弟子としてくださいました。同様に神様は私達にいやしの光を照らし、私達のすべての病も癒してくださいます。私達は悔い改めて聖霊が臨まれ、霊的に健康になりました。霊的に健康になると自然に精神的にも肉的にも健康になります。口からはうめきの代わりに絶えず笑い声と賛美の声が出ます。過去私達は少し状況が難しくなると「私はもうだめだ。私にはできない。」と思いました。しかし、今は考え方が健康になって「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできる。」と思うようになりました。私達は環境や状況に支配されずそれを乗り越えて行く積極的な人になりました。

 私は日本に宣教師として派遣される前、腰が痛くなってよく歩けませんでした。病院でレントゲンの写真を取って見ると腰の骨にひびが入っていました。親は私がそのような弱い体で日本に行くのをやめるように勧めました。しかし、私は神様に従って日本に来ました。日本に来てからも腰の痛みのゆえに走ることもできず、歩くことさえ苦しみがありました。ところが、主は私の腰を完全にいやしてくださいました。また、ある日、耳が痛くなりました。病院に行って治療を受けましたが、医者はこれから耳が聞こえないと言いました。しかし、主は私の耳も完全に癒し、よく聞こえるようにしてくださいました。ヨハネ君は喘息で朝起きるとせきが止まらず苦しみ、夜寝る時も苦しむ時があります。サラ宣教師と私はそのように苦しむヨハネ君を見ながら心が痛くなり、韓国に行かせて治療して見ようかとも思いました。しかし、最近私は祈るうちに主がヨハネ君の喘息も癒してくださるという確信が与えられました。それで韓国に行くのをやめてここで治療を受けています。また、からだを鍛えさせるために朝7時に起こして家の近くの公園を散歩しています。最近になってヨハネ君は段々よくなっています。神様は彼の病もきっと完全に癒してくださることを信じます。

 第三に、私達のいのちを穴から贖ってくださいました。4節をご覧ください。「あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、」穴とは破滅、罠、死、滅びへの道筋を意味します。ダビデは自分の人生の道にある多くの穴を見ました。サウル王はダビデを妬んでどうしも殺そうとしました。それゆえ、追いかけられるダビデは一時も心安らかに過ごせない状態でした。また、彼は罪の穴に陥り、その穴から救い出される道はありませんでした。しかし、神様は彼を破滅の穴から贖い出されました。彼は詩篇23:4節で次のように歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 この世の中には私達の霊的ないのちをねらっている穴が多くあります。情欲の穴に陥るとなかなか出られません。映画、ビデオ、インターネットなどの映像メディアを通して氾濫している淫乱物は若者達にとって恐ろしい穴です。また、お金に対する貪欲の穴があります。偽りの思想や偽キリストの穴があります。高慢は能力ある人が陥りやすい穴です。

 サタンは私達を穴に陥れるために待ち伏せしてねらっています。私達は自分の人生の道にこのような穴があることを知り、避けて行く必要があります。特に自分がよく落ちる穴のところには行かないほうがいいです。ところが、私達は弱くて穴に陥る時があります。その時、主に助けを求めると主は私達をその穴から救い出してくださいます。ヨハネの福音書8章に出て来る女の人は姦淫の場で捕らえられ、石に打たれて死ななければならない状況でした。誰も彼女に同情したり、助けたりしませんでした。ところが、イエス様は彼女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」イエス様は彼女を破滅の穴から救ってくださり、光の中を歩む新しい人生を送るようにしてくださいました。イエス様は私達が罪と死の穴に陥り、滅びへの道へ入っている時、私たちを贖い出して新しい人生を過ごすようにしてくださいました。それだけではなく恵みとあわれみとの冠をかぶらせてくださいました。ルカ15章には有名なイエス様の放蕩息子のたとえ話が出ています。放蕩息子は放蕩して湯水のように財産を使ってしまいました。彼は食べるにも困り果てて豚の世話をする人になり、飢え死にしそうになりました。彼は父親の家を思い出して惨めな姿で家に帰りました。その時、息子は「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言いましたが、父親は彼を息子として受け入れて祝宴を開きました。私達も父なる神様から離れた放蕩息子、放蕩娘でした。しかし、ありのまま神様に立ち返った時に、神様は私達を子供として受け入れ、恵みとあわれみとの冠をかぶらせてくださいました。私たちにいのちの御言葉を語る牧者としての冠をかぶらせてくださいました。また、御使いも慕い求める宣教師としての冠をかぶらせてくださいました。これは永遠に価値あるもので栄光あるものす。

 第四に、私達の一生を良いもので満たしてくださいます。5節をご覧ください。「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」神様は私達に必要なものを知っておられ、良いもので満たして下さる方です。ですから私達は乏しいことがありません。神様は私達に毎日食べ物や着物を与えてくださいました。可愛い子供を与えられ、真理を捜し求める兄弟姉妹達を送ってくださいました。職場、アルバイトを与えてくださいました。このような目に見えるものだけではありません。人間にとって最も必要なものは何でしょうか。アモス書8:1節は次のように言っています。「見よ。その日が来る。・・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」人々は食べ物がなくて苦しんでいるようですが、実は神様の御言葉がなくてもっと苦しんでいるのです。神様の御言葉はいのちの言葉です。神様の御言葉は絶望の中にいる人に希望を与えます。神様の御言葉は若者の道をきよく保てます。御言葉は私達の喜び、私達の相談相手です。御言葉は狭い心を広くし、不正な利得に傾けないようにします。御言葉は私たちを生かし、生きる知恵を与えます。御言葉は私達のたましいに真の満足と喜びを与えてくれます。真理の道に導いてくれます。主は今年も多くの御言葉を通して私達を回復してくださいました。主日礼拝のメッセージや日毎の糧の御言葉を通して再び立ち上がる力を与えてくださいました。人知らずの悩みを持って祈る時に、主は御言葉を持って答えてくださり、希望の光を照らしてくださいました。ビジョンを失っている時に、御言葉を通してビジョンを与えてくださいました。罪によって苦しんでいる時、御言葉を通して悔い改めさせ、罪の赦しの恵みを与えてくださいました。

 5bをご覧ください。「あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」とあります。わしは鳥の王として知られています。わしはくちばしが鋭く下に曲り、爪も鋭く、足の力ははなはだ強い鳥です。翼は広く、飛ぶ力も強く、また早いのです。その姿はたくましく、まさに鳥の王者です。私達の内面に御言葉が満たされる時、わしのように力がある人生を過ごすことができます。力強くはばたくわしのようにビジョンに満ちた人生を過ごすことができます。わしの広い翼のようにスケールの大きい人となることができます。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30、31)。わしは毎年、毛が生え変わるので死ぬまで老年期がないそうです。そのように私達も御言葉に満たされる時、いつまでも青年らしく情熱的に生きることができます。私達の一生を良いもので満たしてくださる主をほめたたえます。私達の一生が御言葉に満たされていつまでも青年のように力強い人生、ビジョンに満ちた人生となるように祈ります。

?。神様のあわれみ(6ー22)

 8ー14節をご覧ください。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私達の罪にしたがって私達を扱う事をせず、私達の咎にしたがって私達に報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私達のそむきの罪を私達から遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私達の成り立ちを知り、私達がちりにすぎないことを心に留めておられる。」ここには主のあわれみ深く、情け深い愛がよく現われています。もし、神様が私達のすべての過ちに対して責めたり、罰したりするとどうなるでしょうか。一人も生き残る人はいないはずです。しかし、神様はあわれみ深く、情け深い方ですから私達の罪に従って私たちを扱うことをせず、私達の咎に従って私たちを報いることもありません。むしろ、私達の咎と罪を担ってくださる方です。ヘブル11章に出ている信仰の先祖達は彼らの咎と過ちが記録されておらず、信仰による行ないだけが記録されています。このように主は私達の咎と罪を忘れて覚えもしない方です。

 15、16節をご覧ください。「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」「歳月人を待たず」ということわざがあります。年月のたつのが早いという意味です。私ももう30代後半になりました。人はいつか草や野の花のようにしおれ、跡形もなくなります。人生においてどれも永遠なるものはありません。すべてのものが変わり、消え去ります。

 しかし、とこしえまでも存在するものがあります。17、18節をご覧ください。「しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。」主を恐れる者の上にある主の恵み、主の愛は変わることがありません。その愛はとこしえからとこしえまで存在します。神様は人間が罪を犯したにも関らず、相変わらず愛してくださいます。神様は、ひとり子をお与えになったほどに、私たちを愛してくださいました。私達が生きている間、知らなければならないことが多くありますが、何よりも永遠な神様の愛を知らなければなりません。

 ダビデはこの神様の愛を知り、その愛の神様をほめたたえずにはいられませんでした。20ー22節をご覧ください。「主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」ダビデは神様が施された恵みを覚えて神様をほめたたえています。また、彼は御使い達、世のすべての人々に向かって「主をほめたたえよ」と呼びかけています。

 結論的に、感謝と賛美は神様に向かう私達の基本姿勢です。神様に感謝することは私達に置かれた神様のみこころです。私達が主の御名をほめたたえ、今生きていることから感謝し、よくしてくださったすべてのことのために神様をほめたたえましょう。今年を顧みると神様がよくして下さったことが多くあります。何よりもマタイの福音書と使徒の働きの御言葉を通して豊かな恵みを与えてくださいました。パイオニアチームの牧者達は韓国のセンターを訪問して所感発表をしました。日本で最初の牧者の家庭が誕生しました。MSU国際夏修養会に14名が参加して恵みを受けました。私達ひとりひとりによくして下さった恵みは数え切れないほど多くあります。この時間、私達によくして下さった主に私達のすべてのものを持ってほめたたえましょう。