2008 Bible Academy Lecture 02 xxアブラハム
世の光イエス様
御言葉:ヨハネの福音書9:1?41
要 節:ヨハネの福音書9:5 「私が世にいる間、わたしは世の光です。」

神様がこの二日間にわたり、バイブルアカデミーを与えてくださり感謝致します。私たちの集まりは見てお分かりの通り、たった三人しかいません。アカデミーをしてはどうかと、最初この提案が二月にありました。が、私はどうすればよいのかわかりませんでした。三人しかいないのですからフル回転しても、足りません。当時私はいろいろなことが重なってしまい、無理だ無理だと考えていました。でも、サラ牧者、xx牧者が、とりあえずやってみよう、全ては神様に委ねて先ずやってみようと助けてくださいました。私はこの大阪の集まりを代表していますが、いつもこうした足りない私を助けてくださる神様と同労者に感謝します。こうしてアカデミーを開き、韓国や東京からのゲストもあり、みんなで神様を学び、賛美することができていることに本当に感謝します。
バイブルアカデミーの二番目に学ぶ御言葉は昨日の8章の次、9章のおことばです。ここには生まれつきの盲人が出てきます。生まれたときから見えないとはどういうものでしょうか。愛する親の顔を知ることもないまま生きてきたのです。私は自分の息子が花を見ては、きれいと言い、飛行機を見てはバイバイするのを見ていると、親として愛する子供の目が見えないことがどれほどつらいか、心を痛めます。イエス様はそんな彼を見ました。ただ見たのではありません。しっかり見ておられたのです。それはなぜでしょうか。イエス様は盲目の彼に何を思われたのでしょうか。この時間、本文の御言葉を通して、世の光イエス様を学ぶ時間となるようにお祈りいたします。

? 盲人の目を開かれたイエス様(1-7)
1-2節をご覧ください。イエス様は道の途中で、生まれつきの盲人を見られました。その盲人を見ているイエス様に弟子は質問をしました。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」こう質問した弟子たちには盲目の人が不幸だと思っていました。なんで彼は盲目になったのか、彼の不幸の原因探しを弟子たちはし始めたのです。彼が悪いのか、両親が悪いのか、先祖が悪いのか、質問しました。私が最初にこのみ言葉を見たとき、ユダヤ人も日本人も思うことは同じなんだなと思いました。彼のような盲目の人を見たとき、中国の四川省の大地震でひどい悲しみを背負った人たちを考えるとき。先週の秋葉原の事件で無差別に殺された人を思うとき。私たちも弟子たちと同じように考えてしまうのではないでしょうか。
それは本当に意味のない問いかけでもあります。私は小さいころから鼻が低いことを気にしていました。幼い頃は鼻のことでばかにされたこともあり、どうして鼻が低いのか幼心に悩みました。赤ちゃんの頃ころんで低くなったのか、何かにぶつかったのか、犯人探しをした結果、それは親の遺伝子だと言うことが分かりました。でも、犯人が分かったからと言って心の悩みがすっきりするとはなりませんでした。答えを知ったところで鼻が高くなることはないからです。またある人は先祖の行いが悪かったから今病気になっているのだと言われます。ある人はあなたの行いが悪いから、今の不幸があると言われます。自分の問題や悩みの犯人が自分の手に届かないところにあることを知れば、ますます悲しくなるだけではないでしょうか。この盲人、彼の目が見えないことも、同じではないでしょうか。彼の目が見えない原因が親にある、彼にある、先祖にあると知ったところで彼の問題をすっきり解決できるのでしょうか。彼を救えるのでしょうか。弟子たちも、私たちも、そんな意味のない答え探しをしてしまいます。決してその人を救えるものではないものを探しているのです。では、イエス様はどう思われたでしょうか。
3節をご覧ください。「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」イエス様の考えは全く違っていました。彼の両親でも、彼自身でもない、彼の目は不幸だとは思われなかったのです。いつも誰かのせい、何かの問題だと原因ばかりを探している弟子や私たちの考えとは全く違います。イエス様は彼の目が不幸だとも、それが問題とも、全く認められなかったのです。なぜイエス様はそんなことが言えたのでしょう。盲目の人を前にして、私ならそんなことすら思いも浮かびません。どうしてイエス様はこう言われたのか、イエス様についてこの時間、三つのことを考えていきたいと思います。
第一に、イエス様は私たちの存在そのものを愛してくださいます。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」目が見えなくて、物乞いをして生きていても、イエス様の目には彼の存在価値が変わりませんでした。私たちはつい人の能力や人の条件、ハンディキャップを見て、人の価値を変えてしまいます。会社では、能力がないと価値のないと物のように捨てられます。友だち付き合いでも、友だちに価値を認められないと付きあってもらえないと恐れている学生が多いそうです。通勤の途中で書店を通ると、能力開発などをうたった本が多いのも、そうした人の価値を能力で決めてしまう風潮があるのではないでしょうか。果たして人の価値は能力や条件で決まるのでしょうか。
このメッセージを準備する中で、糸賀一雄という方を知るようになりました。クリスチャンとして、また戦後、障害のある子供に一生を捧げた日本の障害者福祉の先駆者として活躍されました。彼は重度の障害のある子供をかわいそうだとも、その価値を障害があるからと言って変えませんでした。むしろ彼はこういったのです。「『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。」彼は障害をもった子供に光をあてるのではなく、彼ら自身が既に光があると見ていたのです。それはこのイエス様に裏打ちされた信仰であり、イエス様がまさに私たちをそう見ておられる方なのです。
この世を造られた神様は初めに光を造られました。この光にはいろいろな意味があると思います。神様は造った光を見てよしとされたことからも、この光には神様の愛があるのではないでしょうか。聖書にも、兄弟を愛するものは、光の中を歩んでいるという言葉があります。光から始まり、神様は造られたすべてのものを良しとされました。それは人も同じです。神様の形に似せられて造られた人を見て神様は、非常に良しと言われたのです。だから神様から見たとき、すべての人は大切な価値があります。神様の光を備えている大切な価値があるのです。だから神であるイエス様はこの盲人をありのまま愛しておられました。彼の目と彼の不幸とは何の関係もありませんでした。彼がいるそれだけで、神様に造られ、神様の光を持っている、価値ある人と見てくださるのです。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」私たちはこのイエス様を仰ぎ見るべきです。今私にある問題、私が抱えている苦しみや悲しみ、こうしたものを抱えていたとしても、私の価値はイエス様にあって変わりません。むしろこうしたものさえ、神のわざを現すものだとおっしゃるのです。自分にある貧しいところ、問題のあるところ、間違っていると思うところばかり私たちは目に付きます。また周りの人の言葉で自分の価値を決めてしまいます。でも、そうではありません。たとえどんなに自分の問題や足りなさ、限界を並べ立てたとしても、周りの人から何と言われようとも、イエス様はあなたの価値を変えることありません。あなたの存在を尊ばれます。あなたがを愛しておられます。あなたをむしろ、神のわざを現す、光の子供だと認めてくださるのです。イエス様の愛は私たちの価値を認めてくださる光なのです。
第二に、イエス様は世の光です。
5節をご覧ください。「私が世にいる間、わたしは世の光です。」イエス様はご自身を世の光だと言われました。世の光とは何でしょうか。それは先ほど学んだ、私たちを認めてくださる愛の光でしょう。また、光はやみよりも強いです。夜真っ暗な家に帰って電気をつけると数秒で蛍光灯の明かりがやみを光に変えます。光は闇を退け、きよめる、エネルギーです。そして、イエス様の光は私たちの心をきよめ、闇を退ける、世の光です。聖書にはこうあります。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」(?ヨハ1:5)ほんの少しも、ちびっとも無いのです。それはどれほどの光なのでしょうか。それはどれほどきよい光でしょうか。その光であるイエス様はこう言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハ12:46)
イエス様が光としてこられたのは、私たちが盲人のように闇にとどまっているからです。盲人のようにやみにとどまり、この光が見えていないのです。この世は確かに神様が最初に造られた光で溢れているはずです。でも、現実にあるのは争いとねたみと、憎しみと、血で争う事件ばかりです。まるで私たちは神様と言う光を遮るかのように、サングラスをかけて生きているのではないでしょうか。そして暗い方へと選択をしているのです。人を傷つける選択があるなら、人を愛する選択もあるのです。人を憎む選択があるなら、逆に人を赦す選択もあるのです。人をけなす言葉もあれば、人を褒める言葉。人を見捨てる言葉もあれば、人を助ける言葉もあります。でも、私たちは普段の生活でどちらを選択しているでしょうか。先ほども学んだようにイエス様はすべての人に価値を見ておられます。でも、どうしてイエス様が認めておられるのに、私たち人にはそれができないのでしょうか。それは、このイエス様の光を見ていないからです。イエス様がすべての人を愛しておられることに盲目だからです。私たち人は盲人のように闇にいることを認めなければなりません。
そんな世の光であるイエス様にもただの一瞬、全く光がなく、闇の中にいたことが聖書に書かれてあります。それは、イエス様の十字架のときです。イエス様が十字架につけられ、苦しまれ、死なれたとき、太陽は光を失っていました。イエス様が十字架で死なれたとき、全く光がありませんでした。世の光であるイエス様が光を失ったとき、それはイエス様が私たちのやみを背負われたときでした。光を失ったとき、イエス様が私たちの罪を背負われ、血を流れされたときです。光を失ったとき、それはイエス様がやみにいる私たちをきよめるときだったのです。光を失ったイエス様が流された血こそがわたしたちを闇から救う、いのちの光なのです。聖書は言います。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(?ヨハ1:7)イエス様の光は闇を退ける光です。私たちの心の暗さ、しみ、汚れすべてを退け、きよめる光です。どんなに消せない汚れも、どんなにしつこい暗さもやみも、イエス様は全てきよめてくださる光なのです。なぜなら私たちの罪過ちは既にイエス様がその血を持って支払われたからです。だから、イエス様の光を求めましょう。光であるイエス様があなたを照らします。イエス様はいつもあなたを愛しています。イエス様はどんなときでも、あなたの罪を真っ白にしてくださることができる光なのです。私たちの罪のために光までも失い、その血によって私たちをきよめてくださる世の光イエス様を感謝賛美致します。
第三に、イエス様は盲目な私たちとともにおられる方です。
6節をご覧ください。突然イエス様は地面につばきをしました。そして泥をこねて、泥を盲人の目に塗りました。目も見えないこの盲人は一体何が起こったのか、わけがわからなかったことでしょう。7節をご覧ください。「『行って、シノアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」イエス様が彼の目を直されたのは実に不思議な方法です。衛生的ではないし、言葉だけで直せるのにもかかわらず、わざわざ池にまで行って洗わなければならなかったのです。それは私たちでも面倒くさいと思いますが、目の見えない彼にとってはどれほど大変なことでしょうか。実に池まで数百メートルはあったそうです。その道のりを歩いて行かなければならなかったのです。でも、その道は一人ぼっちの道ではありませんでした。例え目が見えなくて、暗い中を歩んでいたとしても、イエス様がともにおられる道でした。イエス様が見えるようになると、約束してくださった道でした。確かに彼は一人でとぼとぼ歩いています。でも、そこにはイエス様が見守って、導いてくださる道なのだと悟りました。イエス様は盲目な彼を見守り、ともにおられる方なのです。
それは、私たちにもともにしてくださる方です。私は自分にも他人にも厳しい人でした。親から自由にしなさいと言われ、何でもかんでも自分が責任を持って、自分の責任が持てる範囲で自由にしてきました。それゆえ自分にも他人にも厳しく、笑顔よりも眉間にしわを寄せているときの方が多いそうでした。しかし、私は会社の接待で肉の罪を犯してしまいました。その瞬間それまで自分を堅く守ってきたものが崩れ落ち、自分はだめだ、弱い、ちっともきよくないと自信をなくしました。その前から教会に通っていましたが、もう神様はこんな私を愛してくれるはずもないと考え、教会から逃げました。しかし、イエス様は、そんな私に1999年の夏修養会でそれでも同じように愛しているよと語りかけてくださいました。イエス様の真実で変わることのない愛に触れた瞬間、私は光に包まれた感じになり、イエス様にひれ伏し、私の目を開かせてくださいました。それ以降、私はイエス様を知るほどに、周りの人から顔が変わったと言われるようになりました。難しい顔ばかりしていた私は、いつもイエス様に愛されていると言う恵みによって、笑顔が増えました。久しぶりの人と会うたびに、どんどん明るくなっていると言われるようになりました。イエス様の愛を知った時から、私の心の闇がどんどんと退き、イエス様の恵みと愛という光で喜びが増えていきました。罪を犯した私さえも、ともにしてくださり、わたしに光を当ててくださった恵みに心から感謝致します。

? 盲人の心を開かれたイエス様(8-41)
 しかし、この話しには続きがあります。彼は目が見える喜びを手に入れました。しかし、周りの人は驚くばかりでした。そして彼の目がいやされた日が安息日、つまりユダヤでは完全に休まなければならない日であったために、それがパリサイ人の中で問題視されました。パリサイ人は当時の権力者です。彼らから嫌われれば、安心して生活さえできず、社会から追放されます。パリサイ人に呼び出しを食らった彼の両親さえも、面倒なことに関わるのを恐れて、息子任せにしたのです。そして、彼はイエス様が直してくれたこと、この方が神から出た方に違いないという主張を変えなかったために、彼は結局町から追い出されてしまいました。
せっかく目が見えるようになったのに何て皮肉なことなのでしょうか。周りの人の誰もが喜ばず、驚かれるばかりです。両親だって喜ぶどころか、面倒なことに巻き込まれたくないと実の息子を他人扱いしたのです。せっかく目が見えたのに、初めて愛する親の顔を見ることができたのに、それはなんと皮肉な結果なのでしょうか。彼の心はどれほど痛んだでしょうか。
そんな彼にイエス様は訪ねられました。しかし、イエス様は彼を弁護されたのではありません。彼を社会復帰させたのでもありません。ただ、彼にこう尋ねました。35節をご覧ください。「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』」彼は答えました。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」そしてイエス様がご自分がそのキリストだと証されました。38節をご覧ください。「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」彼は体の目が開いても、結果は前よりも悲惨でした。でも、これがアンハッピーエンドではないのです。最後にして彼はイエス様を拝しました。イエス様がキリストだと知り、彼の心の目が開かれたのです。
勿論体も良くなり心の目も開かれれば、これ以上のハッピーエンドはありません。でも、ここに私たちが心の目を開きたいなら、イエス様を知りたいなら、イエス様を主と認め、イエス様を救い主として拝することが大事だと学ぶことができます。彼はこのイエス様を知ったのでしょう。暗い道でも、遠くても、シロアムの池まで歩いていったとき、目を開いてくださったイエス様は、いつでも彼を愛していておられる、そう確信できたのではないでしょうか。どんな時でも、イエス様がおられる、どんな私でもイエス様は光でいてくださる、どんな私でもイエス様は私の存在を愛してくださる、そのイエス様を知った今、彼は自分の状況は問題にならなかったのだと思います。
今日の御言葉を通して私もイエス様を再び見ることができ感謝致します。そして私が盲人のようにさ迷っていたものでした。3月から新しい職場に変わり、それまでとは違う厳しさの中で仕事をしました。朝8時半から休みなくフルスピードで働いても、夜の8時になってもまだ終わらない、そんな時もありました。最初はやる気で頑張っていましたが、6月になってくるとそれまで無理していた疲れが週末に出るようになりました。また5月下旬には内部の組織変更があり、私の仕事内容が全部代わってしまったため、2週間で新しい仕事を覚えこなさなくてはいけなく、日々大変さと不安ばかりでした。時には聖書勉強さえもできなくなり、私は大変な中一人で頑張らなくてはならないことが増えました。いろいろなことを抱えすぎてストレスが増え、私は昔のように不機嫌なときが多くなりました。そんな私に今日の御言葉が語りかけてくださいました。彼がシロアムの池にあるいた姿は、私と同じではないか、一人ぼっちで歩いている彼、一人で頑張っている私、同じように思えました。でも、そうではありませんでした。彼にはイエス様が見守っておられたのです。イエス様がしっかりと導いておられたのです。でも、私はひとりぼっちだと思っていました。イエス様は私をも見守り、導いておられるのです。そのイエス様は私にも言われるのです。「xxアブラハム、あなたを愛している。行って、シロアムの池で洗いなさい。」、「xxアブラハム、私がいるじゃないか。行って、シロアムの池で洗いなさい。」、「xxアブラハム、なぜ私が見えないか。」私はイエス様がおられるのに、見えていませんでした。イエス様が見守り、愛しておられるのに、盲目でした。そんな私をイエス様は怒ることも、諦めることもされませんでした。ただ、言われるのです。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」私にとってのシロアムの池はイエス様です。イエス様の御言葉なしに、イエス様の存在なしに、私はこれ以上一歩も歩けない者です。でも、私を愛し、見守ってくださるイエス様を知ったとき、私はどんなに大変でも安心することができました。イエス様がおられるから、この方の光が私の心を変えてくださるから、私はこの盲人のように歩けることができました。神様に感謝致します。私がこの光をかつて私がキャンパスで闇にさ迷っていたような人々にあかしできるように、お祈りいたします。
最後に、この二日間、世の光イエス様を学びました。光は不変です。変わることがありません。同じようにイエス様の光、この世を造られた最初にあった光も変わることがありません。それは私たちを愛する光、私たちの存在を喜ばれる光です。そしてどんな時でも変わらず私たちを強め、励まし、立たせてくださる光です。どうか、この光を求めましょう。この彼のようにイエス様を拝することです。イエス様を知りたいと願うことです。イエス様に近づきたいと祈る心です。主はそのような私たちを必ず見ておられるからです。イエス様は道の途中で彼に目を止められました。とめても、とめなくてもどっちでもよかったのではありません。イエス様から見れば、目を留めて彼を助けたいのです。私たちもそうイエス様に見つめられていることを知りましょう。そのようにイエス様に愛されていることを知りましょう。どうか私たちの心の目を開いてくださり、光であるイエス様を受け入れるようにお祈りいたします。イエス様はいつでも私たちにこう言われるのです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」