1999年聖誕礼拝(?)

 

正しい者の恥を取り除いてくださる神様

 

御言葉:ルカの福音書1:1ー25

要 節:ルカの福音書1:25

「主は、人中で私の恥じを取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

今年のクリスマスが近づいて来ました。今日から四回に分けてルカが私達に伝えてくれたクリスマスに関する御言葉を学びたいと思います。御言葉を通してクリスマスの意味を新しく学び、クリスマス礼拝を準備して行きたいと思います。今日は、イエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネを産んだザカリヤとエリサベツの信仰生活について学びます。彼らは神様の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていました。神様は彼らの恥を取り除いてくださいました。本文の御言葉を通して正しい者の恥を取り除き、救いの御業に用いてくださる神様について学ぶことができるように祈ります。

 

?。正しい者、ザカリヤとエリサベツ(1ー13)

 

1-4節はルカの福音書を書くようになった動機と姿勢、そしてその目的について書いてあります。ルカの福音書は紀元59-63年ごろ書かれました。当時イエス様の美しい生涯とイエス様が行なわれた出来事を目撃した多くの人がそれを記事にまとめて書き上げようとしました(1,2)。ルカは医者であり、歴史家でした。彼も、すべてのことを初めから綿密に調べていたので、順序を立てて書きました。それがこのルカの福音書です(3)。彼がそれを書いた目的はそれによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと思ったからです(4)。

5a節をご覧下さい。「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。」時は、ユダヤの王ヘロデが治めていた時代でした。ヘロデはローマ元老院からユダヤの王に任じられて41年間長期執権しましたが、その時は暗くて悲しい時代でした。ヘロデは政治的な手腕と賄賂によって権力を握っていたので、いつも不安と恐れにさいなまれていました。自分の政権維持に邪魔者だと思えば、自分の妻でも息子でも殺しました。マタイ2:16によると、ベツレヘムの近辺の二歳以下の赤ちゃんでさえ一人残らず殺させるほど残酷な人でした。こんな指導者のゆえに民は平和な生活ができず、不安と恐れと悲しみに満ちていました。

さらにその時は、霊的にも暗黒の時代でした。いつの時代でも、神様の御言葉は預言者たちを通して語られ、民たちにいのちの光となっていました。ところが、預言者マラキ以後四百年間も神様の御言葉を語る預言者が現れませんでした。民たちを生かし、民たちを導き、民たちを照らす御言葉が語られなかったのです。まるで神様は彼らを見捨てられたかのように思われる時代でした。神様の灯火は消えてしまい、民は暗い監獄に入れられた囚人たちのようになっている実に絶望的な時代でした。しかし、夜が明ける直前、最も暗くなることと同様にそれは希望に満ちた新しい時代が始まる兆しでした。

5b、6節をご覧下さい。「彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」当時、大多数の祭司たちは政治と結託して富と権力を得ていました。彼らは人々に見せるために敬虔そうに見せかけていましたが、実は偽りの者たちでした。しかしザカリヤとエリサベツは人の前ではなく、神様の御前に正しい生活をしていました。彼らはいつも神様が何を求めておられるかを考え、神様に喜ばれるために最善を尽くしていました。「落ち度なく踏み行なった」とは「いい加減にしなかった」ことです。彼らは神様の御言葉を軽んじ、いい加減にすることはありませんでした。

正しいことが正しく評価されない所で正しく生きることは非常に難しいことです。ところが、その時代の人々の価値観は曲がっていました。独裁者ヘロデの気に入る人は出世し、彼の気に入らない人は何もできない時代でした。また、人々は苦しい生活のゆえに隣人に気を配る余裕もなく、何が正しいか考えることもできませんでした。「このままではいけないのに」という良心の声を聞きながらも「今の時代がこんな時代だから仕方がない」と合理化しながら生きていました。しかし、ザカリヤとエリサベツはこの世と調子を合わせず、神様の御言葉に聞き従いました。夜明けに起きて主の御言葉を黙想し、祈る生活をしました。また、実際生活の中で与えられた御言葉を実践する生活をしました。隣人を愛し、御言葉を教える生活をしました。また、欲望を捨てて、神様のしもべとして敬虔な生活をしました。 

このように神様の御言葉に聞き従って生きる時、本当の喜びと生きがいがあります。この世では御言葉なしに世の人々と調子を合わせて生きる人がうまく生きているように見えますが、実際に彼らは不安と葛藤、罪意識にさいなまれています。しかし、神様の御言葉通りに生きる人には真のいのちと平安があります。ですから、この恵みがわかっているクリスチャンは夜明けから主の御言葉に聞き従うために励みます。正しく生きようとする人にとって神様の御言葉はなくてはならないライフラインだからです。神様の御言葉は救いに至る智恵を与えます。この世で正しく生きて行く智恵と力を与え、真の望みを与えてくれます。ザカリヤとエリサベツはこれらを体験しながら徹底に御言葉中心の生活をしました。健やかな時にも、病める時にも主の御言葉に聞き従いました。彼らは昼も夜も主の御言葉を口ずさむ生活をしました。その時、主の御言葉は悲しみと孤独の中では慰めとなり、患難と迫害の中では力となりました。主の御言葉は彼らを生かし、彼らを導き、彼らを励ましてくれました。 

もちろん、神様の御前で正しく生きようとする時、誤解されたり、迫害されたりする痛みも伴いました。けれども、御言葉に従う生活には水路のそばに植わった木のような生命力があり、義の実を結ぶ喜びがあります。また、外面的に見ると、この生活は巨大なローマ帝国の軍事力に比べれば本当にみすぼらしく無力に見えますが神様は御前に正しく生きている人たちを通して世界の歴史を導かれます。実際にザカリヤ夫婦が心を合わせて祈り、聖書勉強をしても時代の状況は全然変わりませんでした。むしろ、彼らの行動は時代遅れのように見えました。しかし、神様がご覧になった時、彼らの聖書勉強、主の御言葉に従って正しく生きる生活は、ローマの軍事力にまさる力強いものでした。神様は彼らの祈りと信仰のゆえにその時代を守られ、彼らを通して暗黒の時代を照らしておられました。神様は彼らを時代の見張り人として暗黒の時代を照らす灯火として用いられたのです。

では、彼らの信仰生活には何の問題もなかったのでしょうか。いいえ。7節をご覧下さい。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」彼らは神様の御前に正しく生きていましたが、年寄りになるまで子供がいませんでした。これは実に深刻な問題でした。子供は親にとって喜びと慰めとなります。特に年寄りには大きな頼りになります。旧約の思想では、正しい人は神様から祝福を受けます。たとえば、子供がたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを、神様の祝福のしるしと見ていました。ところが神様の御前に正しく生きていたザカリヤ夫婦には、子供がいませんでした。それは理解できないことでした。「どうして私をお見捨てになるのですか」と言いたくなるでしょう。彼らは、自分たちは神様からのろわれたように思っていたかも知れません。人々から「それほど熱心に神様を信じていても仕方がありませんね。」と言われたりしたでしょう。そのような話を聞くと、恥ずかしくなり、神様の御前に正しく生きる生活が揺れるようになりやすいです。しかし、ザカリヤとエリサベツは人々の非難にも揺れることなく、神様の御前に正しく生きていました。彼らはその問題を通してますます神様に近づき、神様に望みをかけて生活しました。その時、神様は彼らの信仰生活を非常に喜ばれ、時になると彼らの恥を取り除き、祝福して下さいました。

 8、9節をご覧下さい。「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の努めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった。」当時、エルサレム神殿で働く祭司は24組に編成され、その中の各組は年に二度、一週間ずつ神殿で働いていました。ところが、この福音書が書かれた当時は祭司が二万人もいたので、くじを引いて当たった祭司だけが神殿での務めをしました。それは一生のうち一度当たるかどうかと思われる機会でした。ですから、ザカリヤが神殿にはいって香をたくことになった日は彼の生涯において最高の日でした。香をたくことは聖徒の祈りを意味します。ザカリヤは神殿に入って民たちの代表として祈り、民たちは外で祈りました。何のために祈ったのでしょうか。おそらく彼は国の将来と人類の問題のために祈ったでしょう。またひとりひとりの羊のために祈り、最後には自分の家庭に子供を与えてくださるように祈ったと思います(10)。ところが、彼が懇切に祈っている時、主の使いはザカリヤに喜びの知らせを伝えました。11ー13節をご覧下さい。「ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」神様はザカリヤの祈りを聞かれ、ついに男の子をくださると約束されました。「ザカリヤ」とは「主は覚えておられる」という意味の名前ですが、その通りに神様は、ザカリヤのことを覚えておられました。そして、彼にヨハネを与えられます。「ヨハネ」とは「主の恵み」という意味です。主はザカリヤとエリサベツの家庭に、イスラエルに、そしてこの世界に恵みを施されたのです。

ここで「あなたの願いが聞かれたのです」という御言葉はザカリヤがどんなに祈っていたのかをよく教えてくれます。ザカリヤが祈り始める時は確信を持って祈ったとしても1年が過ぎ、5年、10年が過ぎても応答されなかった時、祈り続けることはなかなか難しかったと思います。しかし、彼は決して祈り続けるのを諦めませんでした。白髪が一本、二本増え、顔にはしわが増えても祈りを諦めませんでした。年老いて人間的に子供を産む望みがなくなっても諦めませんでした。彼は神様の全能の力と愛を信じて祈り続けました。大抵、人々は自分の思いの通りに祈りが答えられなければ神様の愛を疑ったり、つぶやいたりします。信仰がない人は祈りは弱い人がすることだと思っています。世の人々が見るとき、祈るザカリヤ夫婦がばかばかしく見えたかも知れません。しかし、神様がご覧になる時、彼らは救いの御業においていなくてはならない歴史の主役でした。彼らの祈りは新しい歴史を始めさせる力がありました。神様は彼らの祈りに答えられ、時になると、メシヤの先駆者を産む器として用いられました。

中国には信仰の自由がありません。それでもそこに8千万人のクリスチャンがいると言われています。ですから、霊的にはリバイバルが起こっているのです。それに比べると日本は信仰の自由があります。私達がイエス様を信じるからと言って逮捕されたり、追放されたりすることはありません。ところが、クリスチャンがあまりにも少ないです。教会に通っているクリスチャンは27万人くらいいると言われています。これは全国民の1%にもなりません。100人の人がいればその中に一人のクリスチャンがいるかいないかほどです。それを考えて見ると、この国はザカリヤ夫婦が住んでいた時代のように霊的に暗い時代であると言えます。このような時代に私達は何をすればいいかザカリヤ夫婦を通して学ぶことができます。私たちがザカリヤ夫婦のように神様の御前に正しく生きるために励み、祈り続ける時、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。祈りには力があります。私達が諦めず祈り続けばこの国にもリバイバルが起こります。神様が私達をザカリヤ夫婦のようにこの暗い時代を照らす灯火として用いてくださるように祈ります。

?。バプテスマのヨハネの誕生予告(14ー25)

 

14,15a節をご覧下さい。御使いは続けてバプテスマのヨハネの誕生がザカリヤにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜ぶと言いました。なぜなら、彼は主の御前にすぐれた者となるからです。では、彼はどんな点ですぐれた者になりますか。

第一に、彼は世の人々とは区別されたきよい生活をします。15b節をご覧下さい。「彼は、葡萄酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、」当時の人々はぶどう酒や強い酒をよく飲みました。人々はストレスを解消するためにお酒を飲みました。また、心の苦しみや罪意識を忘れるためにお酒を飲みました。人々は楽しいから一杯、悲しいから一杯、悔しいから一杯など機会があればいつでも飲みました。しかし、バプテスマのヨハネはぶどう酒も強い酒も飲まず、聖霊に満たされた生活をしました。人々はお酒を飲まず、人生に何の楽しみがあるかと言います。しかし、聖霊に満たされた生活をすれば、世の人々が知らない喜びと楽しみがあります。詩篇の著者は「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」(119:103)と告白しました。私たちの心に主の御言葉が満たされている時、神の国の喜びと希望に溢れるようになります。聖霊に満たされた生活は私たちに本当の喜びと楽しみを与えてくれます。バプテスマのヨハネは生まれる時から聖霊に満たされて世の人々と区別されたきよい生活をしました。彼の霊的な力はこのような霊的な生活から出ました。

第二に、彼は多くの人々を神様に立ち返らせます。16節をご覧下さい。「そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。」イスラエル人は神様の選民として神様を愛し、神様に仕えなければなりませんでした。しかし、彼らは神様から離れて罪を犯していました。その結果、彼らは不幸になりました。彼らがこのようになった根本原因は神様から離れたからです。彼らが救われるためには神様に立ち返るしかありません。神様に立ち返る時、すべての問題は解決されます。バプテスマのヨハネは多くの人々を神様に立ち返らせる使命を果たすのです。

第三に、イエス様の先駆者として主の前ぶれをする使命を果たします。17節をご覧下さい。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供達に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」親が子供を愛することは当たり前のことです。しかし、その時代の親たちは心を子供たちに向けていませんでした。その結果、子供達は愛に飢えて反抗的になりました。若者達は無条件的に大人に逆らいました。そのような時代にバプテスマのヨハネは預言者エリヤのように民たちの罪に挑戦しました。預言者エリヤは神様に対する特別な熱心と力を持って偶像礼拝に陥っていた多くの人々を神様に立ち返らせました(?列王記18:21,36-39)。ヨハネはこのようなエリヤの霊と力で民たちに悔い改めのバプテスマを授けました。すると、罪のために苦しんでいた数多くの人々が悔い改めてバプテスマを受けました。こうして彼はメシヤの前ぶれをしました。彼は多くの人々を神様に立ち返らせることによって世々限りなく、星のように輝く人生を過ごしました。

私達も「主の前に最もすぐれた人として賞賛されたい」と思っています。一回きりの人生を意味ある人生、生きがいのある人生、偉大な人生として過ごしたいと思っています。それは私達がヨハネのように聖霊に満たされてきよく生きる時、可能になります。また、自己中心的な生活を捨てて多くの人々を神様に立ち返らせる使命を果たす時こそ、夜空に輝く星のような人生を過ごすようになります。私達が聖霊に満たされ、多くの人々を主に立ち返らせる使命を果たし、主の御前にすぐれた者となることができるように祈ります。

18節をご覧下さい。そこで、ザカリヤは御使いに言いました。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」彼は自分の人間的な条件を考えて不信に陥りました。それで、彼はヨハネが生まれるまで10ヶ月もおしになる訓練を受けるようになりました。人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思いました。やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができませんでした。彼は努めの期間が終わったので、おしのまま自分の家に帰りました。

それから年老いたエリサベツにどんな驚くべきことが起こりましたか。24節をご覧下さい。その後、エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。彼女はこれを通して神様について何を知るようになりましたか。25節をご覧下さい。「主は、人中で私の恥じを取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」神様の御前に正しく生きて来たのに、それにふさわしい現実がやって来ないと思われる時があります。パウロが、このとげを私から去らせてくださいと、三度も主に願いましたと書いてあります(?コリント12:7,8)。パウロの苦しみは病気の苦しみではなく、なぜ病気をするのか、なぜ治らないのかという苦しみでした。ほとんどの苦しみは、苦しむべき原因がわからない時です。苦しみに意味を見出せないときに、本当の苦しみを味わいます。パウロが祈っているとき知ったことは、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」でした。金テモテ宣教師の右の手首がなかなか治らないのを見て、校長先生は「どうして神様が治してくださらないのか。もっと献金をしたらどうか」と冗談を言いました。私達も神様を信じているのになぜこのような苦しみがあるのか、なぜこのような恥を受けるのかと思われる時があります。ザカリヤとエリサベツ夫婦にもこのような考えがあったでしょう。しかし、神様はご自分の御前に正しく生きていたザカリヤ夫婦の恥を取り除いてくださいました。そして、彼らをイエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネを産む器として救いの御業に貴く用いてくださいました。私達にはどんな恥がありますか。長年の間、霊的な子供を産むことができなかったことに対して恥と思う人もいると思います。すでにそれを諦めて恥とも思わない人もいるかも知れません。しかし、私達が諦めず、主に祈りつづけ、主の御前に正しく生きる生活に励むと、主は私達の恥を取り除き、私達を主の救いの御業に貴く用いてくださることを信じます。

 結論、神様は歴史の主管者として救いの御業に用いられる人を探し求めておられます。私達がこの時代に神様の御前に正しく生きたザカリヤとエリサベツのようにバプテスマのヨハネのような主のしもべを産む器として用いられるように祈ります。また、バプテスマのヨハネのように多くの人々を神様に立ち返らせる偉大な使命を果たす人生を過ごすことができるように祈ります。特に今年のクリスマスに罪のために苦しみ、さまよっている若者達にクリスマスの福音を伝えて神様に立ち返らせることができるように祈ります。