2000年聖誕メッセージ第?講

王がお生まれになった

御言葉:マタイの福音書2:1?11

要 節:マタイの福音書2:2

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。

私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 私達は先週「インマヌエルのイエス様」について学びました。今日は「王としてお生まれになったイエス様」について学びたいと思います。今日の御言葉にはクリスマスカードでよく見掛ける東方の博士達が登場しています。彼らは遠い東の方からユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様を拝みにエルサレムまでやって来ました。彼らはイエス様に出会ってこの上もなく喜びました。今日の御言葉を通して第一に、東方の博士達の真理を探求する姿勢について、第二に、王としてお生まれになったイエス様について学びたいと思います。この時間、私達の王としてお生まれになったイエス様に出会い、この上もなく喜ぶことができるように祈ります。

?。王としてお生まれになった方(1?8)

 1aをご覧ください。「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。聖書にはヘロデという名前がたくさん出ています。本文のヘロデは、「ヘロデ大王」と呼ばれていて、政治的にすぐれた手腕を持っている人でした。彼はローマからユダヤの王として任命され紀元前37年から紀元4年までおよそ40年間も治めた人です。彼はエルサレム神殿の再建に着手したり、飢饉の時には難民に援助の手を伸べたりしました。しかし、ヘロデの性格には致命的な欠陥がありました。それは狂気に近いほど疑い深いことでした。晩年には「殺意にみちた老人」とまで呼ばれ、その王位を脅かすと思うと、母も妻も長男とほかの二人の息子も殺してしまいました。それでローマ皇帝アウグストは「ヘロデの息子であるよりヘロデの豚である方が安全だ」と皮肉ったほどでした。彼は自分が死ぬ直前には、エルサレムの著名人達を反逆罪の理由で投獄し、自分が死ぬと同時に全員を処刑するように命じました。このようなことで、ヘロデは人々の恐れの的でした。民は暗やみの中、死の地と死の陰にすわっていました。イエス様はこのような暗い時代にベツレヘムという小さな村でお生まれになりました。ベツレヘムはダビデの生まれ故郷、ダビデの町として知られていました。このダビデの町ベツレヘムにダビデ王より偉大な子孫が生まれることをユダヤ人達は期待していました。

 1bをご覧ください。「見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」「見よ」この言葉は博士達が遠い東の方からエルサレムまでやって来たのが驚くべき事実であることを言っています。彼らはどんな人達でしたか。歴史家であるヘロドトスによると、彼らは本来はメディヤ種族で、メディヤはペルシヤ帝国の一部です。彼らはユダヤにおけるレビに当たる者達で、天文学に通じ、夢を解いたり、占いをしたりしました。また哲学、薬学、自然科学にも優れていました。彼らは高潔な真理を探求する賢人でした。彼らは当時最高の知識人でした。

 彼らがエルサレムにやって来た目的は何ですか。2節をご覧ください。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私達は、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」ここで「ユダヤ人の王」はメシヤの別名です。博士達はメシヤを捜して遠い東のほうからエルサレムまでやって来ました。それはその方の星を見たからです。民数記24:17節を見ると、ヤコブから一つの星が上ると預言されています。それに基づいて当時メシヤの星が現われるといううわさが所々に広がっていました。博士達は星を観察するうちにメシヤの星を見つけてその星に従ってエルサレムまでやって来たのです。私達は彼らの真理を探求する姿勢を学ぶことができます。

 第一に、彼らには真理を捜し求める姿勢がありました。神様はメシヤの誕生を星を通して現わされました。神様はなぜ星を通して現わされたのでしょうか。星は夜しか見られません。星は世界のどこからも見る事ができます。ユダヤ人だけではなく異邦人も見ることができます。しかし、メシヤの星は誰もが発見できたのはありません。東方の博士達がメシヤの星を見つけたのは偶然な出来事ではなく絶えず星の動きを観察していたからです。彼らが星を観察する生活は決して易しいことではなかったでしょう。彼らは人々がみな寝ている間、眠りと戦いながら星を観察しました。

神様は東方の博士達のように真理を捜し求める人々にご自分の現わしてくださいます。エレミヤ書29:13は「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」と言っています。2000年前に神様が星の出現を通してメシヤの誕生を知らせてくださったように、神様は今日の人々に聖書の御言葉や多くのクリスチャンの証しを通してメシヤの誕生を知らせてくださいます。使徒の働き8章を見ると、真理を捜し求めているエチオピアの高官のところに主の使いがピリポを遣わしました。ピリポは彼に福音を宣べ伝え、彼はイエス様を信じるようになりました。また、使徒の働き10章を見ると、真理を捜し求めていたコルネリオという百人隊長のところに神様はペテロを遣わしてくださいました。真理は何もしていない人が見つけるのではなく、捜し求める人が見つけるのです。神様が私達を真理を捜し求めている人々に遣わしてくださり、救い主イエス様の誕生を知らせることができるように祈ります。

 第二に、彼らには真理のために投資する勇気がありました。博士達はメシヤの星を見つけた事で満足しませんでした。彼らは星の主人公に会うために直ちに旅立ちました。彼らは行動する知性でした。彼らは真理のために投資することができる勇気を持っていました。多くの人々が聖書に関心を持って読んだり学んだりしています。ところが、聖書の御言葉に従えば自分自身を失うのではないか、損するのではないか、仲間外れになるのではないかと恐れています。その結果、真理を見つけるせっかくのチャンスを見逃してしまいます。このような人は賢い人のようですが、実は愚かな人です。一生を決算してみると、何も残るものがないからです。

人々はみな何かに自分が持っているものを投資しています。それに投資する理由はもっと多くのものを得る事を期待しているからです。年末宝くじを買う人はみな3億円が当たることを期待しています。東方の博士達は星に従うために多くのものを投資しました。彼らは遠い旅をしました。山を越え、川を渡る時もあったでしょう。暑い砂漠の中を通らなければならない時もあったでしょう。彼らにはいつも強盗の危険、獣の危険、病気の危険が伴いました。彼らがこのように自分の財産といのちを投資して星に従ったのは、それが自分の人生において一番価値があり、尊いものだと思ったからです。私達も自分の持っている財産、時間、熱情、いのちをどこかに投資しています。私達が一度しかない自分の人生を一番価値がある主と福音のために投資することができるように祈ります。主と福音のために投資することは決してむだではありません。

 3節をご覧ください。博士達のもたらしたニュースを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑いました。エルサレム中の人も王と同様でした。彼らはなぜ待ち望んでいたメシヤがお生まれになったのに恐れ惑ったのでしょうか。ヘロデは王なるメシヤのためにユダヤ人達による大革命が起きて、王位がくつがえされるのではないかと恐れ惑いました。エルサレム中の人々は、ヘロデ王がこのニュースをつきとめて、このような革命を未然に防ぐために残忍な処置をとることに脅えました。彼らは生活基盤が揺れることより独裁者に支配されることを望んでいました。

 そこでヘロデは、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。彼らはミカ書5:2の御言葉に基づいてキリストがベツレヘムでお生まれになることを知らせてくれました(5,6)。彼らはメシヤの誕生の知らせを聞きましたが、メシヤに会いに行きませんでした。彼らは聖書を知識的にはよく知っていましたが、御言葉に聞き従うことはありませんでした。救い主がお生まれになりましたが、人々の反応はそれぞれ違いました。東方の博士達のように遠いところからメシヤに会いにやって来た人々もいました。反面、ヘロデや民のように恐れ惑った人々もいました。知識的にはメシヤが誕生したのを知っていましたが、メシヤを受け入れない人々もいました。私達がどんな姿勢を持ってクリスマスを迎えたらいいでしょうか。東方の博士達のような純粋な心と切なる霊的な望みを持って王としてお生まれになったイエス様に出会うクリスマスになるように祈ります。

 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めました。そして彼らをベツレヘムに送りながら自分も行って拝むから幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてくれるように頼みました。ヘロデ王は、イエス様を殺す計画を立てたのです。しかし博士達は夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行きました(12)。

?。拝む博士達(9ー11)

 博士達は王の言ったことを聞いて出かけました。すると、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまりました。星は彼らの導き手でした。彼らがメシヤに会えたのは星に導かれたからです。

 信仰生活は星に導かれる生活とも言えます。今日私達にとっての星は聖書の御言葉と聖霊です。今の時代は情報が氾濫する時代です。毎日多くの本が出版されています。しかし、すべての本がただ読めばいいというものではありません。その中には人々を誤った道に導く本もたくさんあるからです。たとえば幸福の科学やエホバの証人などから出版されている本は多くの人々を惑わし、誤った道に導いています。ですから私達は本も選別して読む必要があります。私達が少しでも油断すると道を迷うようになるからです。聖書は世界のベストセラーとして多くの人々に読まれています。聖書は神様の言葉が書かれており、人々を真理の道、いのちの道に導きます。神様の御言葉は私達に進むべき道を示してくれます。詩篇119:105節は次のように言います。「あなたの御言葉は、私の足のともしび、私の道の光です。」また私達が正しい道に導かれるためには聖霊の導きに頼られなければなりません。イエス様はヨハネの福音書16:13節で言われました。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きいれます。」私達が御霊に従って生きる時、御霊は私達をすべての真理に導きいれます。御霊は真理の御言葉を悟らせてくださいます。

 博士達は星に従う途中星を見失ってしまいました。その時、彼らは喜びを失いました。どこへ行けばいいかわかりませんでした。私達も信仰生活をする間、博士達のように星を見失ってしまう時があります。その時にはからだも心も疲れてしまうし、心に喜びがありません。何よりも疑いや不信の黒雲が覆うと途中で諦めたくなります。しかし、博士達は途中星を見失ってしまいましたが、最後まで諦めませんでした。その時、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子イエス様のおられる所まで導きました。私達も博士達のように途中で諦めず最後まで従う時、真理の星が現われ、私達を導いてくれます。すると黒雲は消え去り、光が見えるようになります。その時の喜びはことばで言えないほど大きいのです。

 10節をご覧ください。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」星を見た博士達が子供のように喜びました。彼らの喜びは心の奥底から湧き出る喜びでした。彼らが今まで経験した喜びの中で一番大きな喜びでした。彼らの喜びは魂の喜びでした。霊的な喜びであり、天の喜びでした。このような喜びをどこから得る事ができるでしょうか。それはメシヤに出会う時に得る事ができます。博士達はそれほど捜し求めていた真理の王、真の礼拝の対象に出会った時にこの上もなく喜びました。ヨハネの福音書4章にはひとりのサマリヤの女が出ています。彼女は夫を五人も替えながら肉体の喜びを求めていました。しかし、肉体の快楽は彼女のたましいに深い傷と虚しさと絶望だけを残しました。そのような彼女がイエス様に出会いました。素の時、彼女は喜びに満たされて自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」イエス様は真の喜びの源です。私達は初めにイエス様に出会った時の喜びを覚えています。その年の聖誕はこの上もない喜びに満たされた聖誕でした。今年のクリスマスにも初めのクリスマスのような喜びを得ることが出来るように祈ります。 

 幼子イエス様に出会った博士達は何をしましたか。11節をご覧ください。「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」彼らは幼子イエス様を見、ひれ伏して拝みました。それは王に対する献身と服従を現わしています。彼らは幼子イエス様を自分の王として受け入れたのです。 

 そればかりではなく彼らは宝の箱をあけて、黄金、乳香、投薬を贈り物として捧げました。その宝の箱を幼子イエス様に捧げる彼らの心には感謝と喜びが溢れていました。私達は24日クリスマス礼拝を捧げます。私達が博士達のようにイエス様の誕生による感謝と喜びを持ってメッセージや所感、演劇や踊り、合唱や演奏なそのプログラムを用意し、主に捧げることができるように祈ります。何よりも150人の人々が参加し、救い主イエス・キリストに礼拝を捧げることができるように祈ります。

 それでは東方の博士達がひれ伏して拝んだ幼子イエス様はどんな方でしょうか。2節を見ると博士達は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と聞きました。「ユダヤ人の王」とは、ユダヤ地方とユダヤ人だけを治める王を言うのではありません。それはユダヤ人を通して生まれた王、即ち、メシヤを意味します。東方の博士達の捧げた贈り物からイエス様がどんな方であるかがわかります。黄金は変わらない忠誠と服従を表し、王への贈り物でした。イエス様は私達が忠誠し、服従するべき王として生まれた方です。乳香は、祭司への贈り物です。芳しい乳香は、神殿において礼拝と犠牲が捧げられる時に用いられました。祭司の努めは、人が神様のもとに行く道を開くことです。祭司のラテン語は「ポンティフェクス」で、橋をかける人という意味です。祭司は神様と人との間に橋をかける人です。聖なる神様と罪ある人間の間には越すことのできないギャップがあります。このギャップは人間のあらゆる努力によっても渡ることができません。神様は神様と人とを隔てているこのギャップに橋わたしをするために、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。イエス様は私達が神様に行く道を開かれました。私達は大祭司であるイエス様によって神様の御前に出て行くことができるようになりました。イエス様は言われました。「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。投薬は死者への贈り物です。没薬は死体にぬるためのものでした。イエス様はこの世に来られ、人のために生き、そして最後に人のために死なれました。没薬はイエス様が私達の罪のために死なれる救い主となることを意味します。博士達の捧げ物はイエス様がやがてまことの王、完全な大祭司、最高の救い主になることを予告したのです。イエス様は人々から永遠に誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい王の王、主の主です。

 どんな点でそうですか。6節をご覧下さい。「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者達の中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」ここで「治める」は羊の群れを牧する意味です。イエス様は牧者となられ私達を治めて下さいます。誰が治めるか、どのように治めるかは非常に大切な問題です。それは誰が治めるかによってその国の性格が変わるからです。それは国だけではなく個人や家庭や集まりも同じです。感情的で暴力を振るう父親が治める家庭は不幸です。最近親が子供を虐待して殺した事件がありました。このように誰が治めるかによって幸福と不幸が左右されます。

ヘロデが治めていた時、民は恐れと不安に満ちていました。世の王達は軍隊の力や法律の力によって治めます。権力を持って治めます。しかしイエス様は良い牧者として愛と平和と柔和によって治められます。イエス様は羊のためにご自分の命を捨てる良い牧者です(ヨハネ10:11)。イエス様は私達のわずらいを身に引き受け、私達の病を背負われました(マタイ8:17)。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。イエス様はいたんだ葦のような人も折ることもなく、くすぶる燈心のような人も消すこともない方です(マタイ12:20)。このイエス様に治められる人は真に幸いな人です。

 この時間、御言葉を通して私達は東方の博士達の真理を捜し求める姿勢について学びました。今年のクリスマスを迎えながら私達の牧者であり、王であるイエス様に出会い、東方の博士達のようにこの上もなく喜ぶことができるように祈ります。