1999年弟子修養会主題講義第1講

先祖アブラハムの信仰

御言葉:ヘブル人への手紙11:8ー19、(創世記12ー22章)

要 節:ヘブル人への手紙11:8

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、

これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

今度の弟子修養会のタイトルは一言で「信仰」です。私たちは神様を信じることを「信仰」と言います。この信仰は、アブラハムから始まりました。それでアブラハムは信仰の父、信仰の先祖と呼ばれます。では、アブラハムはどうやって信仰の先祖と呼ばれるようになったのでしょうか。これを知るのはとても大切なことです。アブラハムについて注意深く学んでみると,彼が従順な信仰の人であったことがわかります。アブラハムは神様に命じられたことは何でも,心をこめて従いました。次に,アブラハムは,自分のたった一人の息子イサク以上に神様を愛した人であることがわかります。彼が神様の命令に従って自分の一人子イサクよりも,神様を愛した時,彼は信仰の先祖となりました。先祖アブラハムの信仰を学ぶことによって豊かに祝福されますように,そして,私たちもまた,信仰の先祖となるように祈ります。

一番目,神様の召しを受けた時,アブラハムは従いました。(8,11-12)

ヘブル人への手紙11:8節をご覧ください。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」この御言葉は,神様がどのようにアブラハムを召され,アブラハムが神様の命令にどのように従ったのかを一言で表しています。

人間が罪を犯した時,全能で創造主であられる神様は,人類を滅ぼしてしまうこともできたはずです。しかし,神様は大いなるあわれみを持って,すべての民の祝福となることができる人を見つけるためにあらゆる所を探されました。そして、子供のいない75歳の男の人を見つけました。神様はその人は信仰の先祖になるには年を取り過ぎていると思われました。それでも,神様はその人が従順で真実な人であったので,その人を選ばれました。神様はその人に創世記12:2,3節で次のような約束を与えられました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」これらの約束は,アブラハムにはあまりに素晴らしくてとうてい信じられないものでした。神様の約束は, もう年とっているのに後継ぎもなく普通の人に過ぎない彼にはあまりにも素晴らしすぎました。神様がアブラハムに与えられた約束を探ってみると,この約束が非常に意味深いことが分かります。神様は「私はあなたを大いなる国民とし」と言われました。子供が一人もいないのに,国民となるほどの子供が増えるとは,アブラハムにとっては素晴らし過ぎる約束です。また,神様は「地上のすべての民族は,あなたによって祝福される」とも言われました。アブラハムはこれまで「自分は誰よりも呪われた者だ。」と思いながら生きて来ました。しかし,神様はアブラハムを祝福の源として,地上のすべての民族の祝福とすることを願われたのです。神様の約束は,アブラハムにはとても受け入れられないものでした。しかし,神様は間違いなくこれらの約束をアブラハムに下さったのです。これらの約束は,神様とアブラハムによって結ばれた「契約」と呼ばれています。

アブラハムに与えられた祝福は素晴らしいものです。ところが,アブラハムがこの素晴らしい約束を受け取るためには神様の命令に従わなければなりません。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創12:1)アブラハムにとって,住み慣れた故郷と,親類を後にすることは簡単なことではありませんでした。しかし,後ろ髪を引かれるような思いを断ち切って,アブラハムは神様の命令に絶対的に従いました。アブラハムは妻のサライを連れて神様に言われたとおり直ちに出発しました。信仰は従順によって表現されます。信仰があると言いながら実際の生活の中で従順しない人は信仰がないのです。従順は頭で理解され、将来が完璧に保証されてからやるものではありません。アブラハムが従う時、どこに行くのかを知らず旅立ちましたが、保証となるのは何もなく,神様の約束の御言葉だけでした。アブラハムは,神様が下さると言われた土地は,パラダイスのような所に違いないと思ったかも知れません。しかし,カナンの地に到着したアブラハムはすぐに,その地がすでに巨人のようなカナン人によって点領されていることを知りました (創12:7) 。しかし,アブラハムは神様の御言葉を信じました。こうして恐れを克服し,故郷に帰ろうとはしませんでした。結局アブラハムが従った時,神様は約束を果たされました。アブラハムの従順は見事なものでした。最初の人アダムは多くの祝福を受けましたが神様に不従順してすべてを失いましたが,アブラハムは希望のない年老いたおじいさんに過ぎませんでしたが神様に従順して全てを得ました。アブラハムの神様への従順は,神様に従おうとするすべての人の模範と言えます。アブラハムの信仰は,目に見えない神様の約束への従順から出ていました。神様が私たちに与えて下さった約束は何ですか。神様は私たちを通して日本の500キャンパスの学生たちに祝福を与えることを望んでおられます。福音によってこの日本が祭司の国となり,世界を食べさせる聖書先生の国となることを望んでおられます。私たちに置かれた神様の望みは素晴らしいものです。ところが、多くの人が,「就職して安定的になったら,神様の約束を信じてその時従います。」と言います。または,「75歳になったら,神様の約束を信じよう」と言う人もいます。しかし,私達は,アブラハムのように祝福の源となるためには,アブラハムのように神様の約束に従わなければなりません。

二番目。訓練の中でも,アブラハムは真実な神様を信じました。 (9-16)

アブラハムは従順な人でした。しかし,信仰の先祖,すべての民族の祝福となるためには,それだけでは足りませんでした。アブラハムには神様による訓練が必要でした。それで,神様はアブラハムを訓練されました。この訓練は,神様の日に偉大な人となるためには,欠かせないものでした。訓練の目的は,アブラハムが真実な神様を信じること,即ち信頼することでした。アブラハムは,なつかしい父の家,故郷,親戚を後ろにすることによって,すぐ息子を授かり,国民となるほとに後から子供ができるのだろうと思いました。しかし,異国の地に来て,神様の約束によって生活し始めてから,10年経っても一人の子供も授かりませんでした。アブラムはいらいら思い始め,心に刻まれていた神様の約束を疑い始めました。それで,天幕の中に閉じこもって横になっていました。彼はこう考えたでしょう。「俺は全てを捨てて,神様の御言葉を信じて来たのに騙されたのではないのかな。」そこへ神様が現れ,アブラムを外に連れ出してこう仰せられました。「さあ,天を見上げなさい。星を数えることができるなら,それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムに言われたことは,冗談のように思われます。アブラムは10年間も神様の約束に従って生活して来ましたが,まだ一人の子供も授かっていませんでした。それにも関わらず,神様は星のような多くの子孫を与えるとおっしゃったのです。疑いのため落ち込んでいたアブラハムが神様の御言葉を聞いた時、信仰が生じました。アブラムは神様の約束を再び信じ始めるようになったのです。創15:6はこう言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」からしの種のような小さな信仰によって,アブラムは神様によって義と認められたのです。ヘブル11:11,12をご覧ください。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」アブラハムは死んだも同様な者であり,サラは子を宿すことの出来ない者でした。しかし,彼らはどんな神様を信じましたか。彼らは約束を下さった神様は真実な方であることを信じました。彼らは「神様の御言葉は信用できる」と考えました。彼らがこの真実な神様を信じた時,彼らは力を得ました。そして、不可能な彼らからイサクが生まれ、天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように数多い子孫が生まれました。真実である神様を信じる信仰、それは私たちに力を与えてくれます。アブラハムの神様は一度約束したことに対しては必ず守って下さる真実な方です。ですから、私たちもこの真実な神様と神様の約束を信じることが出来ます。神様の力、福音を信じる使徒パウロは強大国ローマを征服することが出来ました。真実な神様を信じる信仰は人を強くします。そして、神様を信頼する人は現実の問題や状況に縛られず、力ある人生、歴史を創造する偉大な人生を過ごすことが出来ます。私達がアブラハムのように神様を全幅的に信頼する信仰の人となるように祈ります。

ヘブル11:9節をご覧ください。「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」彼は神様の約束と古くなった天幕を遺産として残しました。ほとんどの両親たちは子供たちだけは苦労させたくないので信仰より物質を遺産として残そうとします。しかし、アブラハムは約束の地において,流れる乳や蜜を楽しむあまり神様を忘れてしまうことはありませんでした。むしろ,息子のイサクや孫のヤコブにも天幕生活をさせながら神様の約束を信じ続けたのです。彼はなぜこのような生き方をしたのでしょうか。ヘブル11:10をご覧ください。「彼は,堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」。彼は地上での生活は巡礼の旅に過ぎないことを知ったからです。彼の本当の故郷は神様の国でした。13ー16節をご覧ください。彼は彼の出てきた生まれ故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はいくらでもありました。多分アブラハムも信仰によって生きることが難しく思われると生まれ故郷のことを思ったでしょう。しかし彼はさらに優れた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたので、この誘惑に勝つことが出来ました。彼には神様の約束は真実であること、そして神様が地上の天幕より素晴らしい天の都を与えてくださることを確信していました。この確信のゆえに彼は息子にも、孫たちにも天幕生活をさせることが出来たのです。神様はこのような彼らの神様と呼ばれることを恥と思いませんでした。世の人々は彼を無視したり恥と思いましたが、神様は彼のことを尊く思い、彼の神様となりました。神様は神様を尊ぶ者を尊び、さげすむ者は軽んじられる方です。(出6:3) 

三番目,神様と契約を結び、割礼を受けました。(創17章)

創世記17章を読んでみると,アブラムは息子を待つのに疲れ果てて,神様の約束を信じることができなかったことがわかります。それでアブラムははしためを通じて息子イシュマエルをもうけました。すると,神様はアブラハムのもとに来られて厳しくこう仰せられました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創17:1,2) 神様は彼が不信仰の道を歩む時、厳しく叱られました。神様の約束を固く信じないなら,私達は不信仰な者となってしまいます。神様の約束を信じないなら,悲しみの人となります。しかし,神様はアブラムを尋ね,契約を再確認してくださいました。契約とはアブラムを多くの国民の父とすると言う事です。神様は,アブラムにはビジョンと心の変化が必要であることを御存じでした。それで、「高貴な父」という意味の「アブラム」の名を「多くの国民の父」という意味の「アブラハム」と言う名に変えてくださいました。また、「主婦」という意味の「サライ」の名も、「多くの国民の母」という意味の「サラ」という名に変えて下さいました。神様はアブラハムとサラの名前を変えることによって,彼らに素晴らしいビジョンと新しい約束をくださいました。

神様はまた仰せられました。「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」(創17:11) 割礼は男性の生植器の包皮を切り取ることです。神様は,アブラハムとの契約を堅く立ててくださいました。その後,神様はアブラハムに割礼を受けるように言われました。これは,心を清めなさいと言う意味です。神様は,アブラハムが純粋な心で神様の約束を信じることを望まれました。それでパウロは外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼であると言いました(ローマ2:28,29)。信仰の先祖となるためには,私達は聖なる神の御前に清い心を持つことができるように心の割礼を受けなくてはなりません。

四番目,アブラハムは神様の祝福より、神様を愛することによってテストに合格しました。 (創22章)

アブラハムが召されてから25年目にイサクが生まれました。私たちがアブラハムのようになりたいと願うならば,たとえ何も見えるものがなくても,アブラハムのように疑いや失望を克服して,神様の約束を少なくとも25年間は信じなければなりません。アブラハムもサラも,イサクを目に入れても痛くないほどに可愛がっていたことは間違いありません。しかし,親が自分の子供を神様よりも愛するとき,信仰の先祖にはもちろん,偉大な神様の僕となることはできません。それで、神様はアブラハムを試練に会わせられました。神様はアブラハムに仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創22:1,2) なんという驚くべき試練を神様はアブラハムにお与えになったことでしょうか。アブラハムが,一人子イサクを山の上で全焼のいけにえにするなど,まったく理にかなっていません。このような命令に喜んで従う人などどれだけ探しても見つかるはずがありません。一億円かけてもいいです。これはどう考えてもアブラハムには不可能なことです。神様は彼を本当に愛しているのでしょうか。それとも彼を苦しめるためでしょうか。彼は25年間訓練の実として得たかわいい息子と約束の神様のどちらかを選ばなければなりませんでした。いったいどちらを選んだら良いでしょうか。アブラハムは心配のため一晩中まんじりとも出来なかったでしょう。しかし、アブラハムは翌朝早く、イサクを連れて全焼のいけにえを捧げる山へ行きました。そして、その所に祭壇を築き、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。そして手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。 (創22:3-10) 何と恐るべき従順でしょうか。アブラハムの従順の物語りは聞いているだけでも冷や汗が出てきます。それでも,アブラハムは従いました。どうして,息子のイサクに向かって刀を振り上げることなどできたのでしょうか。気でも狂っていたのでしょうか。いいえ,アブラハムがそうしたのには理由があったのです。アブラハムは復活信仰があったし、神様を愛していたので,神様の言われる事にはどんなことでも喜んで従ったのです。アブラハムは自分の息子よりも,神様の祝福や神様の賜物よりも,神様ご自身を愛していたからです。アブラハムの神様に対する愛は一人子イサクをほふるまでに成長していたのです。こうしてアブラハムは試練に合格しました。

創世記22:12bで,御使いがアブラハムに言った「今,私は,あなたが神を恐れることがよくわかった。」という表現には深い霊的な意味があります。ここで『神を恐れる』とは,神様を神様として敬い,神様からの祝福であり賜物である一人子イサクよりも神様自身を愛すると言うことです。この理由で箴言1:7は「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」と言っています。神様を恐れる時,私達はこの世の何ものをも恐れる必要がありません。逆に主を恐れないなら,私達は世のすべてのものを恐れるようになるのです。

アブラハムが神様を愛した時,神様は彼が必要なものをすべて与えてくださいました。アブラハムが見上げると,角をやぶに引っ掛けている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って,その雄羊を取り,それを自分の子の代わりに,全焼のいけにえとして捧げました。この出来事を通して,アブラハムは,自分が信頼して従うなら,神様は必要なものをすべて与えてくださる方であると学びました。アブラハムの神に対する恐れは,この世とサタンを打ち負かし、神に栄光を捧げました。こうしてアブラハムは信仰の先祖となりました。主の御使いはアブラハムを呼んでこう言いました。「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創22:17、18)

私の名前は朴アブラハムです。アブラハムを信仰の先祖として立てられた神様が私を日本の祝福の源として立ててくださると約束してくださいました。私は私を通して日本にイエス・キリストの命の福音が伝えられ、また私を通して日本が祝福されると信じました。それで、私はこの約束を信じて4年前生まれ故郷を離れ、約束の地この日本に来ました。しかし、この祝福を望む私には神様の厳しい訓練が待っていました。今までの4年間は決して順調ではありませんでした。来日した年、同労者と私は学生だったので親戚から借金しなげればなりませんでした。次の年、同労者が看護婦国家試験に落ちてしまいました。私は、物質の問題のため進学を一年延ばしました。そして、その時指導教授が変わりました。来年は何とかなるんだろうと思って頑張りました。次の年、同労者は又落ちってしまいました。それで、病院から貰った奨学金220万円を全部返さなければならなくなりました。私の変わった専攻はうまく進まず、先生との関係も堅くなり、結局大学院の受験に失敗してしまいました。夜通し工場で働き、仕事が終わると学部の授業に行かなければなりませんでした。ある日は疲れて鼻血を流しました。体が痛くて薬を飲んでから行く時が多くなりました。その時、私は自分が何をしているのか分かりませんでした。借金は多くなって行くのに、学費高い東海大学に残ろうとする自分が愚かで、無駄な苦労をしているように見えました。神様は私をこの日本で、東海大学で祝福の源として立てて下さると約束したのに、始めから辛いことばかりでした。これが訓練なのか、訓練であるならいったいいつまで続くのか、本当に神様を信頼して良いのか分かりませんでした。韓国の家族に電話するとすぐ帰って来るように言われました。神様が私に下さった命令と約束の御言葉がなかったなら私は約束の地を離れたい心でした。私はバイトに行く度に「誰も否認できない」というゴスペル・ソングをいつも聞きました。この曲こそ私の心を良く表していました。どこに行けば良いのか、何をすれば良いのか、疲れ果ててさ迷っている時も、私のそばにおられ守って下さる生きておられる神様、その神様を誰も否認できないと言う歌でした。私はこの曲を聴くたびに涙が出そうでした。「神様は真実である」という事を信じるための訓練は辛い訓練でした。

しかし、時になると神様は私を祝福してくださいました。今年3月神様は同労者をいよいよ看護婦国家試験に合格させて下さいました。そして、5月には元気な子供「ヨハネ」ちゃんも与えて下さいました。8月にはハンナ宣教師が病院で勤め始め、私も大学院に合格するようになりました。私はこれらのことを2年前に貰って欲しかったのです。ところが、アブラハムを訓練された神様は私も訓練してくださいました。それは、どんな状況に処せられても真実である神様を信じる者とならせるためでした。私は訓練を通して真実な神様を学ぶことができました。神様に感謝と賛美を捧げます。神様は私を通して東海大学の4万人の学生たちに祝福を与えようとしておられます。私は私と約束を結ばれた神様は真実な方であることを信じます。どころが、私はこの御言葉を準備しながら神様が今の私に願っておられるのは祝福より神様ご自身を愛することであることを学びました。この神様は私のために、一人子イエス・キリストをお与えになるほど、私を愛してくださる神様です。私がアブラハムのようにイサクを捧げるような信仰まで成長して行く事が出来るように祈ります。

アブラハムについて学ぶことによって,私達は,どうすれば神様の目に大いなる者となり,他の人々の祝福の源となることが出来るかを学ぶことができました。それは,神を恐れること,すなわち,神様ご自身を,神様が下さる祝福よりも愛することです。私達は世において成すべきことがたくさんあります。しかし,神様がアブラハムに雄羊を与えてくださったように,私達は神様が私たちに必要なものをすべて与えてくださる方であると信じることが出来るまで,神様を愛する心を育てなければなりません。創22:14のように「アドナイ・イルエ、即ち主の山の上には備えがある」と言う信仰がない限り,神様を心から信じることが出来ません。私達は神様を恐れなくてはなりません。そして,神様に対する愛によって神様に従わなければなりません。アブラハムの信仰によれば,もし私たちが神様を信じるならば私達は信仰の人として成長し,祝福となることが出来るということです。神様はご計画に従って召された者には全てを働かせて益として下さる方です。たくさんの訓練を通して,神様の約束を信じる信仰を育てるなら、この日本が聖書先生の国となることを信じることが出来ます。神様の約束とおり,私達によってこの日本が聖い,祭司の国,聖なる国民として立てられますように祈ります。