1999年ルカの福音書第8講

イエスとは誰か

御言葉:ルカの福音書9:18?27

要 節:ルカの福音書9:20

「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

 イエス様の弟子教育は大きく1学期と2学期に分けられます。第1学期の教育を「イエス様とは誰か」を知るイエス様の人格に対する教育だとすれば、第2学期は「イエス様がなさることが何か」を知るイエス様のみわざに対する教育です。今日学ぶ御言葉は1学期の期末試験のようなところです。この時間、イエス様とは誰かについて学びたいと思います。また、イエス様について行く者の姿勢について学びたいと思います。この時間、聖霊が一人一人に働きかけてくださり、イエス様はどんな方であるかを悟らせてくださるように祈ります。

?.神のキリスト、イエス(18-22)

 18節をご覧下さい。さて、イエス様がひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいました。ルカの福音書には祈っておられるイエス様に関する内容が多く出ています。特にイエス様は大切なことを前にしてひとりで祈っておられました。イエス様は多くの仕事の中でも祈る時間を大切にし、いつも祈りに励まれました。この時、イエス様は何を祈られたのでしょうか。イエス様は人間の知恵や知識によっては知ることができない神秘的な方です。ですからイエス様を正しく知るためには神様から知恵と啓示の御霊が与えられなければなりません(エペソ?:17)。そのためイエス様は弟子達の霊的な目が開かれ、イエス様が誰であるかを悟り、キリストとして告白することができるように祈られたでしょう。すなわち、イエス様は弟子達が試験に合格できるように祈られました。 

 祈り終えられたイエス様は彼らに二つの大切な質問をされました。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この二つの質問はイエス様の人格に対する質問です。イエス様が誰であるかを知ることはなぜそれほど重要なことですか。それは唯一のまことの神と神様の遣わされたイエス・キリストを知ることが永遠のいのちだからです(ヨハネ17:3)。ここで知ることは単純に頭で知ることではなく、その方との人格的な交わりを通して体験的に知ることです。私は小渕総理を知っています。しかし、人格的な交わりを通して知っているのではありません。ですから、本当に知っているとは言えません。しかし、サラ宣教師とは十年近く一緒に住んでいるので互いに良く知っています。

 人間は罪を犯す前、エデンの園で暮らしていた時には神様を良く知っていました。その時には神様との交わりを通して幸せな生活をしました。しかし、アダムが罪を犯すことによって神様との関係性が切れてしまいました。その結果、人は真のいのちを失い、肉的にも霊的にも死ぬようになりました。人はぶどうの木から切り離された枝のようになったのです。花瓶の中の花はいくら美しくても根元が切られているので、段々しおれてしまいます。このように神様との関係性が断絶された人は死んだも同様な人です。神様はこのような人々を哀れみ、ご自分との関係性を回復させるために仲介者であるイエス・キリストをこの世に送って下さいました。私達はイエス様を知ることによって神様を知ることができます。イエス様を知ることはぶどうの木であるイエス様に結び付けられることになります。私達が聖書を学ぶことは神様を知るためです。

 それでは人々はイエス様を誰だと言っていましたか。19節をご覧下さい。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」バプテスマのヨハネやエリヤはその時代の罪と戦いながら暗い時代を照らす偉大な主のしもべたちでした。彼らは人々から尊敬された霊的な指導者であり、牧者でした。しかし、イエス様はそれ以上の方です。人々はイエス様の本当の姿を知りませんでした。彼らはイエス様を直接的に、人格的に体験してないからです。

 イエス様は群衆の見解に満足せず、今度は弟子達に質問されました。20節をご覧下さい。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」この質問は個人的で、人格的な答えを要求する質問です。これは他の人々がイエス様をどのように考えているかを問題にしていません。私が学び、体験したイエス様がどんな方であるかを聞く質問です。すると、ペテロが答えて言いました。「神のキリストです。」この答えは短いですが、イエス様が要求しておられる正確な答えでした。それでは「神のキリスト」とはどんな意味でしょうか。

 第一に、神様が約束し、預言されたメシヤ、すなわち、救い主という意味です。人間は神様に対する不従順によって罪とサタンの奴隷となりました。地上で苦労しながら食べ物を得て結局は一握りの土に戻らなければならないむなしい存在になりました。それだけではなく死んだ後には罪の代価として裁かれ、第二の死を免れることができなくなりました(黙21:8)。罪とサタンの力は強くて人間は自らの力によってはそれから免れることができません。神様はこのような人をあわれみ、アダムが罪を犯した後、すぐメシヤを送ってくださることを約束してくださいました。それから預言者達を通してその約束を確かめ、時になると約束通りにメシヤをこの世に送ってくださいました。イエス様は聖書で約束しているメシヤです。このイエス様は神と人との間の唯一の仲介者です。誰でもこのイエス様を信じるなら滅びることなく、永遠のいのちが与えられます。また、神様の子供となる特権が与えられます。

 第二に、イエス様は真の礼拝の対象です。イエス様は神の御子、キリストですが、神様の小羊として世の罪を背負って十字架につけられ死なれました。そして、三日目に死者の中からよみがえられ、主の主、王の王となられました。このイエス様こそ私達の真の礼拝の対象です。なぜなら、イエス様は十字架と復活によって人々の罪と死の問題を解決してくださったからです。このイエス様こそ人々から誉れと栄光、賛美を受けるにふさわしい方です(黙5:12)。

 20節をもう一度ご覧下さい。「神のキリストです。」歴史家であるルカはイエス様が唯一のキリストであることを強調しています。これがキリスト教と他の宗教との違う点です。今日の多くの人々は、すべての宗教は結局同じであり、どんな宗教でも救いがあるが、経典が異なるだけだと言います。キリスト教、仏教、創価学会、神道、イスラム教などみな同じだと言っています。それでいろいろな宗教の教えを混ぜて新しい宗教を作ります。オウム真理教さえ聖書の言葉を引用するほどです。もちろん、いろいろな宗教にもそれぞれの教えは人々を引き寄せる魅力があります。しかし、聖書ははっきりとこう言っています。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(?テモテ2:5)。他の宗教には私たちを救ってくれる仲介者がいません。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。」というとりなしの祈りを捧げられるイエス様と神様の赦しの愛がありません。すべてが自分の行ないで救いを完成して行く宗教です。ですから、自分が救われた確信を得ることもできません。しかし、聖書は語っています。「神は実に、その一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。私達がイエス様を自分の救い主として告白さえすれば救われます。どんな状況の中でも揺れることなく救いの確信と喜びを持つことができます。

 それではなぜペテロは群衆とは違ってイエス様をキリストとして告白することができたのでしょうか。人々はイエス様に何か求める時には食事もせずについて行きました。イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられた時には、「私達の王になってください」と要求しました。しかし、イエス様が罪を悔い改めるように促す時には、顔を背けました。結局彼らは神のキリスト、イエス様を十字架につけて殺しました。このような人々がイエス様を正しく知っているはずがありません。今日も大抵同じです。高校の倫理の時間にはイエス様を宗教の創始者として学びます。ある教育者はイエス様が漁師たちを偉大な指導者として育てられたので、一番偉大な教育者として尊敬しています。カール・マルクスはイエス様を共産主義の創始者として敬いました。このようにイエス様はどんな面で見ても一番偉大な方であることには違いありません。しかし、イエス様は相対的に評価される方ではありません。私達が恐れ敬うべき神のキリストなのです。

 弟子達は喜びの時にも、悲しい時にも、揺れることなくイエス様に見習う生活をしました。突風が吹き荒れる湖に「黙れ。静まれ。」と叱りつけられると風も波もやんでなぎになる事件を通して自然の世界を治められる創造主に出会いました。死んだ青年に「青年よ。起きなさい」と命じて生き返らせた事件を通してよみがえりであり、いのちである主に出会いました。弟子達はイエス様とともに生活しながらイエス様の力、人格、愛を体験しました。弟子達はイエス様がただの立派な人間ではなく、神様の御子であることを悟るようになりました。「あなたは、キリストです。」これはペテロがイエス様をいのちの救い主として、また、真の礼拝の対象として受け入れるという信仰告白です。この信仰告白は救いと関わる大切なことです。(ローマ10:9、10)。ペテロはイエス様が神のキリストであるという偉大な発見をしました。それは彼の生涯において実に偉大な発見でした。私達もこの偉大な発見をしなければなりません。そのためには私達も聖書勉強や実生活の中でのいろいろな出来事を通してイエス様を人格的に、また、体験的に学ばなければなりません。

 21節をご覧下さい。イエス様は弟子たちに、ご自分が神のキリストであることを誰にも話さないようにと、戒めて命じられました。それはキリストに対する世の人々の理解が間違っていたので福音のみわざが完成されるまで邪魔されないためでした。イエス様はペテロの信仰告白に基づいてご自分がキリストとして受けなければならないことを言われました。22節をご覧下さい。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」人々は誰でも苦しみを受けることをいやがります。しかし、イエス様は必ず多くの苦しみを受けなければなりません。また、人々はいじめられたり、捨てられることを願いません。しかし、イエス様は人々からさげすまれ、捨てられなければなりません。また、人々は死んでも穏やかに死ぬことを願います。しかし、イエス様は十字架につけられ刺し通され、悲惨に死ななければなりません。イエス様はなぜこのような苦難を必ず受けなければならないのですか。力がないからでしょうか。そうではありません。イエス様は突風を静められ、死んだ青年を生き返らせた全能なる方です。イエス様が苦難を受け死なれることは神様の御心でした。人間の罪は恐ろしくてその代価として死を要求します(ローマ6:23)。人間は罪を犯し、その結果、多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。イエス様は十字架の上で、私達の罪をその身に負われました。それは、私達が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、私達は癒されたのです(?ペテロ2:24)。

?.イエス様について行く者の覚悟と姿勢(23-27)

 23節をご覧下さい。イエス様は、みなの者に言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」この御言葉はイエス様について行く者は誰でも自分を捨て、自分の十字架を負わなければならないことを教えてくれます。それでは自分を捨て、自分の十字架を負うことは何を意味するでしょうか。

 第一に、自分を捨てなければなりません。それは自分の人格や個性や自分の存在を捨てることではありません。自分を捨てるとは神様に喜ばれることより自分を喜ばせようとする自己中心的な考えや生活を捨ててイエス様を中心に考え、生活することです。私達には自分が願うことと神様が私に願われることがあります。それは一致する場合もありますが、一致しない場合もあります。そのような時に、神様の御旨を優先させることが自分を捨てることです。

 御使いガブリエルが、神様から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。この処女は、ダビデという人と婚約していたマリヤでした。マリヤはヨセフとの結婚の日を夢見ながら住んでいました。ところが、御使いは驚くべきことを知らせてくれました。それはマリヤが聖霊によってみごもって、男の子を産むという知らせでした。結婚の前に姦淫したことがばれると石に打たれ殺される厳しい律法社会においてマリヤはこの神様の御旨に聞き従うことはそれほど簡単なことではありません。しかし、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と自分を捨てて神様の御心に従いました(ルカ1:38)。それによって彼女は救い主イエス様を産む器として尊く用いられました。

 アブラハムは歳が75歳でした。彼は生まれ故郷を離れず、残りの人生を平安に暮らしたいと思っていたでしょう。ところが、神様は彼に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と言われました。その時、アブラハムは自分の計画や考えを捨てて、神様に言われたとおりに従いました。神様は彼を祝福し、彼を大いなる国民とし、彼の名を大いなるものとされました。

 イエス様は十字架につけられ死なれることがどれほど大きな苦しみであるかをご存知でした。それでケツセマネで汗が血のしずくのように落ちるほど切に祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)。イエス様はできるなら、十字架を避けたいと思いましたが、自分を捨てて神様のみこころに従われました。それによって人類を救われました。自分を捨てることはやさしくありません。しかし、私達が自分を捨てなければ神様のみこころを知ることも、神様の御心に従うこともできません。また、霊的な世界の奥義を知ることもできません。何よりも神様に用いられる人となることができません。

 第二に、自分の十字架を負わなければなりません。イエス様が負われた十字架は人類の罪を贖う十字架ですが、私達の十字架は使命の十字架を意味します。御言葉を宣べ伝えること、羊を養うこと、世界宣教の使命はクリスチャンだったら誰でも負うべき十字架です。十字架を負うことは祝福であり、恵みです。人々はできるだけ十字架を避けようとします。人々は十字架のネックレスを飾ることは好みますが、十字架を負うことは好みません。しかし、信仰生活が長くなればなるほど十字架を愛し、積極的に十字架を負わなければなりません。十字架を避けようとするから重く感じるだけで、実際に負う生活をすれば恵みがあります。人々は食べて生きるためにどれほど多くの苦しみを受けていますか。世の名誉や権力を得るためにどれほど苦労していますか。ところがこのような十字架は神様の御前では何の意味もありません。しかし、使命の十字架は命を与えます。

 また、使命の十字架は人を強くします。私は過去体も心も弱い者でした。胃腸病にかかって食べ物を楽に食べられず、苦しみながら横になっている時が多くありました。しかし、使命の十字架を負うことによって今は霊的にも肉的にもかなり強くなりました。使命の十字架は一度の人生を価値ある人生にします。何よりも使命の十字架はその人を能力ある人、偉大な人にします。能力ある人となるとは、多くの十字架を負うことを意味します。また、霊的に成長するということは以前より多くの十字架を負うことを意味します。

 イエス様は「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われました。自分の十字架は他の人が代わりに負うことができません。日々自分の十字架を負うことは、私達が毎日食事をしているように十字架を負うことです。その時、霊的に成長することができます。生き生きとした信仰生活を送ることができます。私達が自分を捨て、日々自分の十字架を負うことができるように祈ります。

 24 節をご覧下さい。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」人々は自分のいのちを尊く思っています。事実私達のいのちは世の何物ともかえられないほど尊いものです。それでイエス様は25節で「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」と言われました。私達は一度しかない尊い自分のいのちをどのように使うことが有益であるかを深く考えて見なければなりません。自分のいのちをどのように使うかによって永遠のいのちを得ることも、永遠に滅びることもできるからです。私達の生涯は短いです。繰り返して試行錯誤する時間的な余裕がありません。人々は自分のいのちを救おうと思って一生懸命に働きますが、残ったものは何もなく、死とともにすべてを失ってしまいます。土から来た体も土に戻ります。しかし、主と福音のために自分を捨て、自分の十字架を負う人は、地に落ちて死ぬ一粒の麦のように多くの実を結ぶことができます(ヨハネ12:24)。また、主はその人の人生を祝福してくださるので、人生を決算して見るとすべてのものを得るようになります。

 26節をご覧下さい。「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」

イエス様は栄光の主、裁き主として再び来られます。イエス様は弟子達の心に神の国に対する栄光ある望みを植え付けてくださいました(27)。

 イエス様は神のキリストです。いのちの主です。誰でもこのイエス様を自分のキリストとして告白し、イエス様のために自分のいのちを失う者は、救われます。私達がイエス様を神のキリストとしえ告白し、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってイエス様に従うことができるように祈ります。