1999年ルカの福音書第2講

 

使命人の生活

 

御言葉:ルカの福音書5:1-11

要 節:ルカの福音書5:10b「イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』」

 

 今日の御言葉は、イエス様が漁師であるシモン・ペテロを人間をとる漁師として召された出来事です。この出来事は平凡な出来事のようですが、この召されを受けた後、田舎の漁師であったシモンはすべての人々が慕う人類の先生となりました。このようにイエス様の召されは役に立たない者を役に立つ者に変え、無意味な人生を意味ある偉大な人生に変えます。今日の若者達は段々小市民化しています。偉大な使命人の生活を送るより利己的で偏狭な人生を送ります。自分だけの幸せを求めます。今日の御言葉を通して私達を使命人として召されるイエス様について学ぶことができるように祈ります。

 

?.神様の深い世界(1-7)

 

 本文の背景は美しい一枚の絵のようです。イエス様は有名なゲネサレ湖の岸辺に立っておられました。この湖は長さが20キロメートル、幅が12キロメートルの広い湖でした。この湖の水はいつもきれいでおいしい魚がたくさん取れる所として有名でした。ユダヤ人達はこのきれいな湖が好きでした。しかし、この湖がもっと有名になったのは、イエス様のゆえです。イエス様はここで福音を宣べ伝え、ここで弟子達を召されました。イエス様はここを弟子達を訓練する場所として使われました。後によみがえられたイエス様はここで弟子達と再び会ってくださいました。

 1節をご覧下さい。群衆がイエス様に押し迫るようにして神のことばを聞いていました。彼らは貧困と病気の問題、罪の問題などを持って朝早くからイエス様の所に来ていました。彼らは鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神様の御言葉を慕いあえぎました。彼らはイエス様に押し迫るようにして神様の御言葉を熱心に聞こうとしたのでイエス様は湖に落ちるところでした。

 2節をご覧下さい。イエス様は岸べに小舟が二そうあるのをご覧になりました。そこには夜通し働いた漁師たちが、その舟から降りて網を洗っていました。漁師達は回りのことなど全然気にしないで一生懸命自分の仕事をしていました。彼らは神の言葉とか信仰とかいうものよりも、魚一匹とるほうを大事にする人々でした。彼らはみんながイエス様に神の言葉を求めている時に、背を向けていました。彼らは早く仕事を済ませて家に帰り、食べて寝ることだけを考えていたでしょう。その時、イエス様は、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。シモンは自然に舟に座ってイエス様の御言葉を聞くようになりました。夜通し働いたので疲れ果てていたシモンの心にも徐々に主の御言葉による恵みが与えられました。すると、いつの間にか疲れは解け、お腹がすいていることも忘れてしまいました。このように神様の御言葉は疲れている人に力を与えます。神様の御言葉は人々の霊的な無知を悟らせ、罪と死の力から救い出し、新しいいのちを与えます。人生の目的と意味を悟らせ、新しく生まれさせます。ここで私達はなぜイエス様が朝早くから群衆に御言葉を教えておられたかがわかります。

 話が終わると、イエス様は何と言われましたか。4節をご覧下さい。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」なぜイエス様はシモンにこのように言われたのでしょうか。

 第一に、彼の失敗を挽回させてくださるためでした。イエス様は群衆を教えながらもシモンひとりに深い関心を持たれました。彼の舟に何もないことをご覧になりました。彼の暗い顔と疲れは果てている姿からさまよっている一匹の羊の苦しみをご覧になりました。それでイエス様は彼の失敗を挽回させてくださろうとされました。イエス様は彼の現実の問題を助けてくださろうとなさいました。イエス様は彼が敗北の人生を送ることを願われませんでした。イエス様は彼がもう一度挑戦して失敗を挽回し、勝利の人生を送ることを願われました。

 第二に、彼を霊的な深い世界に導くためでした。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」というイエス様の御言葉はシモン・ペテロを霊的な深い世界に招く御言葉でした。シモンは今まで浅い世界にとどまっていました。彼は常識や経験や理性の世界しか知りませんでした。しかし、イエス様は彼を理性を超えた霊的な世界、信仰の世界、神様の世界、真理の世界に導こうとされました。霊的な世界は人間の合理的な考えや理性で悟ることができない深い世界です。イエス様は彼が深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとることによって主の力を体験し、霊的な目が開かれイエス様がどんな方であるかを知ることを願われました。

 イエス様は今日も私達を深い御言葉の世界に導こうとされます。御言葉の世界は深いです。人々の中には聖書を少し読んで見たり、常識的に知ることだけで聖書の世界を知っているかのように思います。そのような人はまるで岸辺に立って海を知っているかのように言う人と同じです。しかし、海は深いところに入ってみると、美しく神秘な世界が開かれます。そこには数え切れないほどの珍しい魚がいます。太平洋のような海には鯨のような大きな魚もあります。このように御言葉の世界も深みに漕ぎ出して入って見ると今まで私達が経験したことがない新しい世界が開かれます。そこには確かな人生の意味や目的があります。罪の赦しの恵みがあり、永遠のいのちがあり、天の御国への生ける望みがあります。また、御言葉の世界には生き生きとした人生、勝利の人生、意味ある人生を送ることができる奥義が隠されています。神様の御言葉は畑に隠されている宝のようです。主は私達が御言葉の深みに漕ぎ出して豊かな宝を得ることを願われます。 

 信仰生活とは一言でイエス様を見習う生活です。もし私達が信仰生活をすると言いながらイエス様を見習う生活をしなければすいかの皮だけをなめてみて中身は味わっていないことと同じです。その人は信仰生活の本質を知らない人です。私達の信仰生活が事業的になり、イエス様を見習うことを見逃してしまいがちです。そうなると、信仰生活は疲れるしかありません。しかし、何をしてもイエス様を見習おうとすると、私達の生活はどんな状況の中でも喜びと力に満たされるようになります。失敗を通しても主を学ぶことができます。その人は段々熟練したクリスチャンとして成長して行きます。使徒パウロがどんな状況の中でも力強く信仰生活をすることができたのは、彼にイエス様を見習おうとする熱望があったからです。彼は獄中でピリピの教会の人々に次のように証ししました。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10、11)。彼が獄中でもキリストに見習う生活をした時、彼はいつも喜びに満たされていました。それゆえ、ピリピ人への手紙は喜びの手紙と言われています。彼は信仰生活のすべてのフォーカスをイエス・キリストに合わせました。彼はイエス・キリストの人格や思想、彼の死や復活などすべてを知ることを願いました。彼はこのキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されていると言いました(コロサイ2:3)。私達はイエス・キリストから無尽蔵の宝を掘り出すことができます。イエス様の深い謙遜と柔和を学ぶことができます。彼の無限な恵みと愛を学ぶことができます。また、イエス様の仕えや犠牲、聖さと忠実、赦しの愛を学ぶことができます。そればかりではなく、イエス様の十字架の意味と復活の力を学ぶことができます。イエス様は私達が一生学ぶべき方です。イエス様は浅い岸辺に立っていたり、少し漕ぎ出して波を見ただけで恐れて戻ってしまう人々を招かれます。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」

 イエス様の御言葉を聞いたシモンは何と答えましたか。5節をご覧下さい。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

ここで私達は御言葉に謙遜に聞き従うシモンについて学ぶことができます。シモンがイエス様の御言葉に聞き従うことは難しいことだったでしょう。彼は夜通し働いたが、何一つとれなかったので体も心も非常に疲れていたでしょう。早く網を洗って家に帰り、朝ご飯を食べてから休みたい考えで一杯だったでしょう。ですから、洗っていた網を再びおろすことは面倒くさいことでした。また、夜通し働きましたが、何一つとれなかったので、いくらやってもできないという考えがあったでしょう。体験から形成された否定的な考えは御言葉に聞き従うのに大きな障害物になります。また、彼がイエス様の御言葉に聞き従うのに大きな障害物になるのは、自尊心だと思います。人々は自尊心が傷つけられると怒ります。ゲネサレ湖のベテラン漁師であるシモンが大工出身のイエス様から言われて魚をとることは自尊心が許さないことです。また、彼には漁師としての固定観念があったと思います。魚は夜良くとれるが、朝はとれないとか、深いところには魚がないとかなど自分の経験による固定観念があります。しかし、シモンは自分の常識や理性、経験、疲れ、自尊心、固定観念などを捨ててイエス様から言われたとおりにしました。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」彼には謙遜に学ぼうとする心がありました。それによって彼は深い世界に漕ぎ出し、御言葉の力を体験することができました。

 私達が御言葉の力を体験するためにはイエス様の御言葉に聞き従って見なければなりません。 現代人が深い信仰の世界に漕ぎ出すのに一番邪魔になるのは、理性に基づいた合理的な考えだと思います。人々は理性的に考えて理解できないと信じようとしません。理性を判断の最高の権威者として考えます。しかし、不完全な人間の理性がすべてのものの絶対的な判断基準になることはできません。カントは純粋理性批判で人間の理性の限界を論じました。ところが、人々はすべてのことを理性に照らして判断しようとします。甚だしくは神様の御言葉も理性によって判断し、批判しようとします。しかし、神様の御言葉は人間の理性によっては理解できないそれ以上の深い奥義が隠されています。神様の御言葉は聖霊の感動によって書かれたので、聖霊に助けによらずには正しく悟ることができないのです。

 また、人々が深い世界に入りにくいことは自分を失うのではないかという恐れがあるからです。人々は大抵冒険より安定を求めます。それゆえ、クリスチャンを見てキリストの世界、信仰の世界に何かあることを知っていながらも恐れのために浅い世界にとどまっています。深い世界に入るためには、確かに冒険が必要です。信仰生活はある面で冒険です。しかし、これは確実な保証が約束されている冒険です。

 シモン・ペテロが御言葉どおり、網をおろして見た時、どんな驚くべきことが起こりましたか。6節をご覧下さい。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」彼は自分の経験や能力に頼って夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。しかし、イエス様から言われたどおりにすると、たくさんの魚を取ることができました。誰でも御言葉の通りに網を下ろして見ると、必ず豊かな恵みを体験することができます。キリスト教は約束の宗教であり、その約束を行なうことが一番大事です。そのとおりにしてみた時に、はじめて聖書の御言葉がほんとうかうそかがわかります。それを約束であると信じて、それに従うなら、そこで、私達は今も生きておられる神様にふれるのです。その神様にふれるところから信仰生活が始まります。御言葉に聞き従うことによってのみ、私達の信仰生活は開かれて行くのです。

 昨日洪ヨセフ宣教師と安藤マリヤ牧者の婚約をお祝うパーティがありました。二人は創世記12:2とヨハネ12:24節の御言葉に従って信仰の結婚を決断し、2月5日婚約をしました。洪ヨセフ宣教師は家族の反対がありましたが、信仰によって決断した時、神様が家族の心を動かしてくださったと言いました。安藤牧者も婚約しようとした時、祖父がなくなりましたが、神様は一人のたましいに対する哀れむ心を与えてくださいました。彼らが主の御言葉に聞き従うのに難しいことがありましたが、シモンのように聞き従いました。私は彼らの所感を聞きながら彼らが御言葉に聞き従って信仰によって決断することによってもっと深い信仰の世界に入ることができたと思いました。私達が日々主の御言葉に聞き従うことによって御言葉の力を体験することができるように祈ります。

 

?.使命人の生活(8-11)

 

 それではイエス様の大きな能力を体験したシモンの反応はどうでしたか。8節をご覧下さい。これを見たシモン・ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。彼がこのように言った理由は何でしょうか。

 第一に、イエス様がどんな方であるかを知るようになったからです。5節でシモンはイエス様を「先生」と呼びましたが、御言葉の力を体験してからは「主よ」と呼んでいます。シモンはイエス様が創造主としての能力と神性を持っておられることを悟りました。今まで彼はイエス様を一人の偉大な先生として見ましたが、神様として告白したのです。また、自分のような罪人を救うキリストであることを告白したのです。

 第二に、罪人である自分を知るようになったからです。シモンはイエス様の足元にひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言いました。彼はまじめな人であり、礼儀正しく謙遜な人だったと思います。もし彼が誰から「あなたは罪人です」と言われたら腹を立てたと思います。しかし、シモンは自分を罪深い人間だと告白しました。彼はどんな点で罪人でしょうか。罪は的から外れたことを意味します。すなわち、人間が神様の栄光に至ることができず、神様の御旨と本来の創造目的から外れたことです。シモンが今までいくらまじめに生きてきたとしてもそれが神様の栄光のためではなく、自分の栄光のために生きてきたなら彼は罪人なのです。創造主である神様から離れて神様なしに生きた人生は罪人の人生です。一般的に人々は目に見えない憎しみ、嫉妬、悪い考え、恨み、貪欲,、淫乱な考え、不信などは罪として考えません。それらは気にしません。しかし、罪とは神様との関係で定められた絶対的な概念です。神様に拝まず、仕えず、従わないことが罪です。シモンはイエス様の前で自分がどんな罪人であるかを悟るようになりました。使徒パウロもイエス様に出会う前はパリサイ人として自分が義人だと思いました。しかし彼がよみがえられたイエス様に出会ってからやっと罪人としての自分を悟り、自分は罪人のかしらだと告白しました。イザヤも聖なる神様に出会ってから自分が罪人であることを悟り、「ああ。私は、もうだめだ。私は汚れた者だ」と叫びました(イザヤ6:5)。このように人はイエス様を人格的に出会った時、自分の本来の姿を知るようになるのです。

 シモンが自分の罪を告白した時、イエス様は彼にこう言われました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」(10b)。「こわがらなくてもよい」この御言葉はシモンに与えられた赦しの恵みです。シモンが自分の罪を告白した時、イエス様は彼のすべての罪を赦してくださいました。そればかりではなく彼に新しい人生の方向と使命を与えて下さいました。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」「これから後」この言葉は過去どんな人生を送ったかと関係なく、これから新しい人生を送るように方向を与えられた御言葉です。シモン・ペテロは魚を取る人生からこれから後、人間をとる人生に大きく転換するようになったのです。

 シモンは今まで魚をとる生活を送って来ました。彼の職場はゲネサレ湖でした。彼は毎日ここに出勤して熱心に魚をとりました。彼は魚がたくさん取れた時には喜びましたが、そうでなかった時には失望しました。彼は魚によって泣いたり笑ったりする人生でした。彼には仕事による疲れやストレス、人生の無意味と虚しさがいつも伴いました。

 それでは「人間を取る」とは具体的にどのようにすることですか。人間をとることは神様の栄光のために使命人として生きることです。これは罪と死の海に溺れ死んで行く人々にいのちの綱、すなわち、福音を宣べ伝え、いのちを生かし、神様に用いられる人として育てることです。一言で言えば、牧者としての生活です。この生活には苦労もありますが、真の喜びと満足があります。人を生かし、育てることこそ世のどんな仕事よりも価値があります。シモンが魚をとる仕事で成功し、金持になったとしてもいのちを生かすこととは比べられません。それは人間をとることがこの世のどんなことより神様に喜ばれることだからです。箴言24:11には「捕えられて殺されようとする者を救い出しなさい」という御言葉があります。人々は罪と死の勢力に捕えられて殺されようとしています。このような人々を真理の御言葉によって救い出し、イエス様の弟子として育てることこそ一番偉大なことであり、栄光あることです。

 先週早稲田UBFの新入生オリエンテーションに一人の兄弟が参加したと聞きました。パイオニアチームとヨハネチームの牧者達を中心に一生懸命に新入生を募集して40人近くの学生達から住所や名前を書いてもらい、彼らをオリエンテーションに招きましたが、一人だけが参加したのです。今までの苦労を考えるとあまりにも少ない人が参加したのではないかと思われます。しかし、決してそうではありません。一人は世のすべてのものとも変えられないほど尊い存在だからです。神様は私達の祈りと労苦を受け入れてくださり、尊い一人の兄弟を送ってくださったのです。彼が聖書を学び、イエス・キリストを信じ、救われるならどれほど大きな喜びでしょうか。

 人間をとるためには何よりも人に関心を持たなければなりません。過去シモン・ペテロの関心は魚にありました。彼はどうすればもっとたくさんの魚がとれるか、どうすれば取った魚が高い値段で売れるかをいつも考えていたでしょう。しかし、これから彼の関心の対象は人に変わります。これから彼はどうすれば人をイエス様に導き、生かすことができるか、どうすれば神様に用いられる弟子として育てることができるかを考え、祈る人になるのです。しかし、人を助けることはやさしいことではありません。人間の力や経験や知恵に頼ると失敗してしまいます。人を正しく助けるためには私達の牧者であるイエス様の愛と犠牲を学ばなければなりません。イエス様の哀れむ心と柔和、謙遜などを見習わなければなりません。それに聖霊の働きが必要です。私達は助けている人々に聖霊が働きかけてくださるように祈らなければなりません。子供を産む時に大きな苦しみがあるように人を助ける時、産みの苦しみが伴います。しかし、子供を産んだ母親に産みの苦しみにまさる喜びがあるように一人の人が罪から救われる時に牧者に大きな喜びがあります。また、神様はそれを喜ばれます。

 イエス様に召された彼らの反応はどうでしたか。11節をご覧下さい。彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエス様に従いました。彼らは何もかも捨てましたが、宝であるイエス様を得ました。彼らは自分の人生をイエス様に投資しました。彼らは真理を見つけた時、それに従うことができる勇気ある人々でした。

 結論、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」この御言葉の中には「わたしがあなたを人間をとる使命人として育てる」という意味が含まれています。また、「あなたを通して死の海に溺れて死んでいる人々を救う」というイエス様のビジョンが含まれています。イエス様のビジョン通りにシモンは偉大な主のしもべになりました。今日もイエス様は浅い海辺で魚をとっている人々を呼ばれます。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」