1999年ルカの福音書第1講

 

誘惑に勝つ方法

 

御言葉:ルカの福音書4:1‐15

要 節:ルカの福音書4:8「イエスは答えて言われた。『あなたの神である主を拝み、主にだけ

    仕えなさい。』と書いてある。」

 

 桜が満開する春になりました。戸山公園にも花見をする人々でにぎやかになっています。若い時は人生の春だと言われています。春のように生命力が躍動する時だからです。反面、若い時は誘惑も多い時です。その誘惑は偶然に来るものではなく、裏に誘惑者である悪魔がいるのです。世界的な英雄だとしても誘惑に打ち勝つことができず、破滅する人々が多くいます。ですから、誘惑に打ち勝つ人こそ真の勝利者だと言えるでしょう。それでは私達はどうやって悪魔の誘惑に打ち勝ち、勝利の人生を送ることができるでしょうか。本文の御言葉はイエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれた内容です。このイエス様を信じる私達も悪魔の誘惑に打ち勝つことができます。今日の御言葉を通して悪魔はどういうふうに誘惑するのかについて、また、どうやってその誘惑に打ち勝つことができるかについて学びたいと思います。

 

?.物質に関する誘惑(1‐4)

 

 イエス様は福音の御業を始められる前に、まずその準備としてヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。その時、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、イエス様の上に下られました。また、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という声がし、イエス様がメシヤであることが宣布されました(3:21、22)。4:1節をご覧下さい。聖霊に満ちたイエス様は、ヨルダンから帰られました。そして、御霊に導かれて荒野で悪魔の試みに会われました。荒野はどんなところですか。荒野は砂や岩だらけの険しいところです。昼と夜の気温差が激しいところです。誰からの助けや慰めを受けることもできないところです。イエス様はこのような荒野で悪魔の試みに会われました。それはイエス様がメシヤとしての働きをするための準備のようなものでした。ここで「聖霊に満ちて」「御霊に導かれて」という言葉は試みられる時のイエス様の霊的な状態を現わしています。聖霊に満たされる時、聖霊の助けによって悪魔の誘惑に勝つことができます。また、イエス様は受動的に試みに会われたというより、積極的に悪魔の試みに挑戦されたのです。

 それではイエス様はなぜ悪魔の試みに会われたのでしょうか。

 第一に、メシヤとしてアダムの失敗を挽回するためでした。悪魔は狡猾な誘惑者です。彼の誘惑はとても甘く説得力も強くて人間の力や意志によっては勝つことができません。悪魔は私達に幸せを与えそうに誘惑しますが、その目的は人を堕落させ、結局は自分の奴隷にし、死に至らせることです。人類の先祖、アダムはこの悪魔の誘惑に陥り、すべての人々は悪魔の奴隷となりました。虚無と恐れ、死の力に苦しみながら結局は死ぬ惨めな運命に処せられました。このような人類を罪とサタンの勢力から救うためにイエス様は悪魔に挑戦して必ずアダムの失敗を挽回しなければなりませでした。アダムひとりが悪魔の誘惑に負けることによって人類が悪魔に支配されるようになりました。同じく、ひとりの人イエス・キリストが悪魔の試みに勝つことにより、すべての人々が勝利の人生を送るようになるのです。

 第二に、試みられている弱い人々を助けるためでした。私達はきよく、正しい生活を送りたいと堅く心を定めますが、三日坊主になってしまう時が多くあります。それほど人間は弱いです。イエス様は試みられている弱い人々を助けるために悪魔の試みに会われました。悪魔の試みに会われたイエス様は私達の弱さを知って助けてくださることが出来る方です(ヘブル2:18,4:15)。イエス様は試みられている私達を罪に定めず、哀れみを持って助けてくださいます。ですから、私達が悪魔に試みられる時、主の助けを求めて主の御前に出て行くべきです。すると、主の助けを受けて悪魔の試みに勝つことができるのです。

 それではイエス様は悪魔からどんな試みに会われましたか。悪魔はまず食べる問題で試みました。2節をご覧下さい。「その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」他の福音書を見ると、イエス様は40日間何も食べておられませんでした。私達は一日だけ何も食べなくても非常に苦しみを覚えます。イエス様の目には荒野の石が焼き立てのおいしいパンのように見えたでしょう。その時、悪魔はイエス様に対して、神の子の力を使ってパンの問題を解決するように誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」(3)。

 パンの問題は体を持っている人間にとって一番基本的で深刻な問題です。食べ物がなくて飢えている人はどれほどかわいそうですか。悪魔はパンの問題で多くの人々を自分の奴隷にしています。今の時代、このパンの問題は経済の問題だと言えるでしょう。最近多くの国々は経済問題で苦しんでいます。経済問題に失敗した指導者は追い出され、政治家は経済問題を一番大きく扱っています。経済問題がきっかけになり、国と国の間に戦争も起こります。まるで経済問題、すなわち、パンの問題が人の幸せを左右しているようにも見えます。お金さえあれば何でもできると思われます。それで人類はこのパンの問題を解決するために何千年も努力して来ましたが、いまだにその問題は解決されず、むしろ深刻になっています。この問題はこれからも解決できないでしょう。日本は先進国で飢えて死ぬ人々はあまりいないです。それではパンの問題に縛られてないでしょうか。そうではありません。人々はパンの問題を解決するために朝から晩まで忙しい生活をしています。大学生達は純粋に真理を探求するより将来良い職場に就職して安定的な生活を送るために勉強します。金持ちは金持ちなりに、貧しい人は貧しい人なりに物質の奴隷になっています。お金のために体を売り、お金のために良心を売り、お金のことで人を裏切り、殺人さえします。お金のことで利己的になり、愛がなくなります。大きな夢を持つべき若者達も夢を失ってしまいます。この事実は人々がパンの問題に縛られていることを現わしています。そして、その背後には人々をパンの奴隷にして自分の子分にしようとする悪魔の企みがあることを知らなければなりません。物質の豊かさは快楽を生み、人々を堕落させることが多くあります。大抵麻薬を使ったり、賭博をしたりする人々は金持の子供達が多いです。彼らの考え方はお金さえあれば何でもできると言う考え方を持っています。そして、もっと刺激的な快楽を求めて結局麻薬や賭博に陥るのです。結局大事に思っていたお金がその人の人生をだめにしてしまうのです。もしイエス様が空腹の問題を解決するために石をパンにしたなら瞬間の空腹の問題は解決されたものの物質の問題に縛られている人々を救うことはできなかったでしょう。何よりも悪魔の言うことに聞き従ったので悪魔の奴隷になってしまいます。しかし、イエス様はこの試みにどのようにして打ち勝たれましたか。4節をご覧下さい。イエス様は答えられました。「・人はパンだけで生きるのではない。・と書いてある。」この御言葉は申8:3節を引用した御言葉ですが、人がどんな存在であるかを教えてくれます。

 第一に、人は体と魂を持っている存在です。人は体を持っているのでパンも必要です。イエス様もパンを食べられたし、五千人の群衆を食べさせられました。主の祈りの中でも「日ごとの糧をお与え下さい。」と祈るように教えてくださいました。しかし、人はパンだけで生きる存在ではありません。動物はお腹が満たされると満足します。しかし、人はいくらおいしいものを食べてもすぐ飽きてしまいます。それは、人は神様のかたちに似せて造られた霊的な存在だからです。それで人は魂の満足のために霊的なパンを食べなければなりません。ここに人間の尊厳性と尊さがあります。カール・マックスは人が魂の所有者であることを否認して肉のものだけを追及する経済動物として見ました。それによって人間を動物の次元に転落させ、人間を生産の道具として利用し、役に立たないとごみのように捨ててしまいました。しかし、人は一日三食食べるために苦労する存在ではありません。人は聖なる神様と交わりながら神様の栄光のために生きる尊い霊的な存在なのです。

 第二に、神様は実際の問題の解決者です。4節の御言葉は元々申8:3節から引用したものです。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」イスラエル人はエジプトから脱出して荒野に着いた時、食べ物がないと神様とモーセにつぶやきました。何もない荒野にいる彼らには食べ物が一番大切な問題であり、深刻な問題でした。これから何を食べるか、何を着るかを考えると夜眠れないほどだったでしょう。それではなぜ神様はイスラエル人を何もない荒野に導かれたのでしょうか。それは人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る御言葉によって生きる、ということを、彼らにわからせるためでした。そして、神様は200万人のイスラエル人を荒野で40年間食べさせられました。神様は天からマナを与えて食べさせられました。水がない時には岩から水を出させて飲ませてくださいました。肉が食べたいと言う時にはうずらを飽きるほど与えてくださいました。この荒野訓練を通して神様は何がもっと大事であるか、を教えてくださいました。そして、今までパンだけを求めて来たイスラエル人が霊的なパンである神様の御言葉を求めるようにしてくださいました。そのようにすると、神様は食べ物の問題を解決してくださることを教えてくださいました。この神様は物質の問題、すなわち、実際の問題の解決者であり、供給者です。信仰生活をすると、「イエスを信じると食べ物が解決できるのか。イエスを信じると就職ができるのか。」と言われる時があります。このような話を聞くと「信仰生活をするのが食べる問題を解決するためではありません。それよりもっと大切なもの、つまり、永遠のいのちがあり、人は神様を信じて神様に仕えることが義務であり、当たり前なことです。」と確信を持って答えます。ところが、一人で静かに考えると「そうか。このままでいいのか。私の将来はどうなるのかな。」と恐れが生じる時があります。しかし、神様の御言葉に従って生きると、食べ物の問題を主が解決してくださいます。就職もできます。神様は私達の実際の問題も解決してくださるのです。イエス様は約束されました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神様は愛する子供達を食べさせ、着せてくださいます。主は将来の問題を心配している弟子達に言われました。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」(マタイ6:30)。私達は神様の口から出る御言葉によって生きる存在であることを信じなければなりません。

 

?.世の権力と栄光についての誘惑(5‐8)

 

 第一ラウンドで負けた悪魔は第二ラウンドが始まると、イエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言いました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(6、7)。今度の試みは世の権力と栄光についての誘惑です。世の権力と栄光はどれほど魅力的ですか。人々はこの権力と栄光を得るためにどれほど力を尽くしているでしょう。来週ある東京都知事選挙に18人の候補者が出て激しい選挙戦を行なっていることを見ると、世の権力と栄光が魅力的であることは確かなことです。この魅力のために人々は世の権力と栄光を得るためにすべてを捧げます。東京都知事としての権力や栄光がそれほど魅力的なものだとすれば、国々のいっさいの権力と栄光はどれほど魅力的なものでしょうか。悪魔はこのように魅力的なものをただ自分を拝むなら、すべてくれると言いました。選挙戦もしないでただでそれをくれるとは、何とすばらしい提案でしょう。ところがここには恐ろしい悪魔の悪巧みが隠れています。

 第一に、拝む対象の問題です。悪魔は世の権力と栄光をえさにして自分を拝むようにしようとしました。悪魔の狙いは神様との関係性から離れさせ、悪魔を拝み、悪魔に仕えるようにすることです。悪魔は私達に幸せを与えそうな甘い言葉で誘惑します。世の権力と栄光を得ることができれば幸せになれると思わせます。しかし、世の権力と栄光は草の花のようでそれを得て見ると虚しいものです。世の権力と栄光を得たソロモンは「空の空。すべては空。」と嘆息しました。

 私達の拝む対象が誰であるかは非常に大切な問題です。ここには神様に拝むか、悪魔に拝むかの二つしかありません。多くの人々が世の権力と栄光と妥協して悪魔の奴隷になってしまいます。神様に拝むか、サタンに拝むかは霊的ないのちにかかわる大切な問題です。日本では有名な人には神社を立ててその人を祭ります。去年はプロ野球の横浜の斎藤選手のために神社が立てれたと聞きました。この前は、読売ジャイアンツ選手の激励会でオーナは牧原選手が今年35セーブを達成すると神社を立ててあげると言いました。それはその人を神として拝むことです。偉いジャイアンツのオーナさんも拝む対象の問題はどれほど大切な問題であるかを知らないのでそのように言ったでしょう。私達が拝むべき対象は生きておられる主なる神様のみです。

 第二に、簡単な方法によってキリストになりなさいという誘惑です。イエス様は罪人に仕え、十字架につけられ死なれるためにこの世に来られました。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てて自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われるのです。鞭に打たれ、十字架に釘つけられ死ぬことは考えるだけでも恐ろしいことです。できるなら十字架のない道を選ぶのが人間の本性です。しかし、イエス様が十字架の道を歩まなければ罪人を救うメシヤになることはできません。十字架を負わないで栄光を得るのは聖書の教えとは違います。悪魔は常に十字架なしに簡単に栄光を受ける方法を選ぶように誘惑します。しかし、十字架のない信仰生活は生命力のない死んだ信仰生活です。十字架なしには復活の栄光もありません。

 それではイエス様は悪魔の二度目の試みにどのようにして打ち勝たれましたか。8節をご覧下さい。イエス様は答えて言われました。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」イエス様は少しも妥協せず、御言葉によって断固とした決断をされました。この御言葉から二つのことを学びたいと思います。

 第一に、拝む対象は主なる神様だけであるということです。主なる神様だけが天と地を創造された唯一の神様です。この方以外のすべてのものは被造物に過ぎません。ですから神様以外のどんな偉大な人や形も拝む対象にしてはいけません。そのように拝むことは神様が忌み嫌う偶像崇拝となります。創造主である神様だけが私達が拝む対象なのです。

 第二に、主なる神様にのみ仕えるべきです。これは神様にも仕え、他のものにも仕えてはならないという意味です。イスラエル人はカナンの地に入って神様にも仕え、バアルやアシュタロテにも仕えました。今の時代も同じです。たとえば、クリスチャンでありながら、家に神棚を置いたり、お正月には神社に行って拝んだりすることは神様に正しく仕えることではありません。イエス様は多くの神々を仕えることを排撃し、主なる神様にのみ仕えるように教えてくださいました。

 

?.信仰に対する誘惑(9‐15)

 

 イエス様が二回も御言葉によって悪魔の誘惑に勝たれたので、悪魔は今度は作戦を変更して自分も聖書の御言葉を引用して試みました。悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言いました。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」(9-11)。つまり詩篇91:11、12節の御言葉を引用しました。しるしを求めるユダヤ人にとってイエス様が神殿の頂から飛び降りて安全に着地するならメシヤとして公にデビューすることになります。

 するとイエス様は何と答えて言われましたか。12節をご覧下さい。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」もしイエス様が悪魔に言われたとおりに飛び降りると神様はイエス様を守られるでしょう。しかし、そのようにすることは神様が守ってくださるかどうかを試みることになります。悪魔はこの試みによって神様とイエス様との絶対的な愛と信頼の関係性を破壊しようとしました。イエス様は「あなたの神である主を試みてはならない。」と言われることによって神様に対する姿勢がどうであるべきかを教えてくださいました。神様は私達が試みる対象ではなく、信仰の対象です。私達は祈って答えがないと思う時やなかなか変化と成長がない羊を見る時、「神様はなぜ私の祈りに答えてくださらないのか。なぜ私の問題を解決してくださらないのか。」と神様の愛を疑いやすいです。しかし、これは神様に対する正しい姿勢ではありません。神様はどんな状況の中でも100%信頼しなければならない方です。少し難しくなると神様の愛を疑うことは神様に対する正しい姿勢ではないのです。もし子供が親の愛を疑って試みると喜ぶ親はいません。私達は神様を絶対的に愛し、信頼し、その御言葉を信じて聞き従い、仕えるのみです。イエス様は神様の力と愛を少しも疑いませんでした。御言葉を絶対的に信頼されました。それによって悪魔の試みに打ち勝たれました。13節をご覧下さい。悪魔は完全にケーオーで負けて、しばらくの間イエス様から離れました。イエス様を試みた悪魔は目に見えませんが、いつも人々を試みています。ですから目を覚まして私達は悪魔の誘惑を見分けなければなりません。

 以上から私達は悪魔の試みに打ち勝たれたイエス様から勝利の秘訣を学ぶことができます。第一に、イエス様はひたすら御言葉によって打ち勝たれました。私達が普段学んでいる御言葉は悪魔の誘惑に打ち勝てる霊的な武器です。神様の御言葉は悪魔の誘惑に打ち勝てる聖霊の剣です。第二に、イエス様は少しも妥協せず、断固として退けました。イエス様は悪魔の提案を聞いて少し考えて見たり、計算して見たり、悩んだりされませんでした。最初から断固として退けました。

サタンは今日も信仰によって歩んでいる私達を倒すために絶えず誘惑します。暖かい春、誘惑の季節です。私達が御言葉の武具を身に着け、悪魔の試みに打ち勝つことができるように祈ります。