2005年?列王記第5講

繁栄されたソロモン王国

御言葉:列王記第一9、10章
要 節:列王記第一10:23,24「ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。全世界の者は、神が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めた。」

前回、私たちはソロモンが主の契約の箱を神殿に運び入れ、神殿奉献式を行なったことを学びました。ソロモンは神殿奉献式を通してイスラエルの神、主を地上のすべての国々の民が知り、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るように祈りました。このようにソロモンが神様の御言葉を第一にし、神様に祈った時、神様は彼を大いに祝福し、繁栄させてくださいました。ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさり、全世界の者は、神様がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めるほどになりました。彼の名声は、当時の先進国、強大国であるシェバの女王にも伝えられました。女王は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、エルサレムにやって来るほどになりました。
ここで、私たちは神様が私たちに本当に願っておられることは何かを学ぶことができます。また、はるばるエチオピアからエルサレムにやって来たシェバの女王から求道者の姿勢を学ぶこともできます。どうか、今日の言葉を通して、神様が私たちに願っておられることを悟って、一時的に繁栄される人生ではなく、永遠に繁栄される人生を生きるように祈ります。また、常に真の知恵であるイエス様を慕い求め、イエス様を学ぶ生活ができるように祈ります。

?.神様がソロモンに一番願われること(9章)
1、2節をご覧ください。ソロモンが、主の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成したときのことです。先週、8章で、学んだように、ソロモン王は契約の箱を建築された神殿の至聖所に安置させました。すると栄光の雲が宮に満ちました。そこで、ソロモンは両手を天に差し伸べて祈りました。その祈りの課題は三つにまとめることができます。一つ目は「神様!夜も昼も御目を開いてくださって、主のしもべ、主の民が主の宮に向かってささげる祈りを聞いてください。」ということです。二つ目は「罪を犯した民が宮に来て祈る時、彼らの祈りを聞いて彼らの罪を赦してください。」ということです。罪のためにさまざまな問題を持っている人々が来て祈ると、その祈りを聞き、罪を赦してください。彼らの歩むべき道を教え、恵みの雨を降らせてください。どんな災い、どんな病気の場合にも、彼らの祈り、願いを聞いてくださいということです。三つ目は外国人についても同じく彼らの祈りを聞いてくださいということです。それによってこの地のすべての民が御名を知り、イスラエルと同じように神様を恐れるようになることのために祈りました。つまり、世界宣教のために祈ったのです。このような祈りの課題に対して神様はどうなさいましたか。
2、3節をご一緒に読んで見ましょう。「主は、かつてギブオンで彼に現われたときのように、ソロモンに再び現われた。主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。」とあります。そうです。神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。ダビデは詩篇65:2-4節で言いました。「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。神様は祈りを聞かれる方です。ソロモンのように、ダビデのように祈ると、神様は私たちの祈りと願いを聞き、聖なる宮の良いもので満ち足りるようにしてくださいます。特に、私たちは貴いイエス・キリストの血潮によってすべての罪が赦され、きよめられています。私たち自身が生ける主の宮となりました。ですから、神様の御目と御心は、いつも生ける宮である私たちにあります。私たちがひざまずいて祈る時も見ておられ、祈りと願いをくださるのです。私たちの罪を赦し、傷ついた心を癒してくださいます。どんな病も癒してくださいます。仕事の問題、子どもの問題、人間関係の問題など、どんな問題の場合にも神様は聞いてくださいます。上からの知恵を与えられ、すべての良いもので満たしてくださいます。
実際に神様はソロモンの祈りと願いを聞いてくださいました。ソロモン王国が満ち足りるようにしてくださいました。それで、ソロモンは立派な神殿を建築し、自分の宮殿も建築しました。上からの知恵によって民たちを正しくさばき、平和に生きるようにすることができました。さらに、神様は再び現われて神殿建築してささげたその祈りも聞かれたこと、ご自分の目と心がある神殿にあることを明らかにしてくださったのです。そして、神様は3章の御言葉で彼と約束したことを新たにされました。
4,5節をご一緒に読んで見ましょう。「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』と言って約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に確立しよう。」 神様の約束にはソロモンが全き心と正しさをもって主の前に歩むなら、命令をことごとく実行するなら、その王国は確立される、という条件がありました。条件つき約束です。これだけできるなら、すべての祈りと願いを聞いてくださるということです。
私たち人間は神殿を建てたり、神殿のみわざに仕えたりすると、神様のためによいことをやったという自慢に陥りやすいものです。私はこれだけ主のためにやったと自慢しやすいのです。しかし、目に見える働きより心が大切です。もちろん、毎週、シンアロンや賛美、伴奏などに仕えること、日ごとの糧の出版や掃除などのために働くことはとても素晴らしいことです。多くの仕事をすると、何もやらないときよりも指摘されたり、非難されたりすることが増えます。それでも忠実に主のために働く時、神様はどんなに喜ばれるでしょうか。神殿を建てることも、主のみわざに仕えることも心がなければできないはずです。ところが、人は仕事をやってから心が高慢になりがちです。ですから、初めての愛、その心を守ることは大切です。実は多くの働きよりは心が大切なのです。また、目に見える神殿建築より御言葉を実行して神様を愛し、隣人を愛して御言葉を守ることが大切です。神様のために一生懸命に働いても世の中で慈善事業をしたり、ボランティア活動をしたりする人たちのようにするなら、ただ自己満足のためにやったことになってしまいます。どんなに素晴らしい神殿を建てたとしても、その後に高ぶってしまうなら、むしろ惨めになってしまいます。ですから、神様はさらに警告の言葉を与えられました。
6-9節をご覧ください。「もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ。』と言うようになる。」
神様への全き心、御言葉の実行、守りがなければ、神様は宮も、約束の土地もみな投げ捨てられてしまいます。本当に厳しいお言葉です。私は先週、この御言葉とともに来週伝える御言葉の基礎勉強も準備しましたが、本当に神様は厳しい方だなあという思いがしました。神様への恐れも生じました。事実、この神様の御言葉はあの昔、イスラエルの民だけに与えられた御言葉ではないからです。神様の御言葉は、今日私たち東京UBFに与えられ御言葉であり、ソロモンだけではなく、私に与えられる御言葉であるからです。神様は「あなたがたは世の人々の間で、物笑いとなるな、なぶりものとなるな。」と言われます。「東京UBFが世の人々からあざけられる教会、あの教会に救いがあるものか、と言われる教会になってはいけない。何がキャンパスミッションだ、世界宣教だ、だれが祭司の王国、聖なる国民なのか。と言われてはならないと神様は警告しておられるのです。あの人は、本当に大きな恵みを受けていたのに、もう捨てられてしまったのか、と言われてはならない。あの人は、神様の祝福によって妻に恵まれ、子どもたちに恵まれ、仕事も恵まれていたのに、もう高ぶっていて神様に捨てられたのかと世の人々から言われてならないと神様は警告しておられるのです。
私は17年前カバン一つ持って金ヨハネ宣教とともに日本宣教のために来ました。当時は礼拝する場所もなく、四畳半の部屋、六畳の部屋で、四、五人集まって礼拝をささげました。しかし、今はこんなにきれいな礼拝堂があるし、今年からCBFルームも与えられました。私個人的には安定的な職場が与えられ、妻にも、四人の子どもにも恵まれるようになりました。良い同労者たちに恵まれて同労の問題で心を痛めることもなく、主のみわざに仕えるようになりました。しかし、もし、私が神様の祝福だけを誇り、心が高慢になって御言葉に従う生活を怠けるなら、人々の間に物笑いとなってしまいます。なぶりものとなってしまいます。それで、私は先週の水曜日、子どもたちと今年は聖書通読を約束しました。子どもたちに今年聖書通読ができるなら、来年は御年玉をアップしてあげると約束しました。私たちは神様に祝福された時、ますます全き心を持って神様の御言葉を愛して実行し、守らなければなりません。一時的な祝福にとどまらず、続けて祝福されて何をしても栄え、いつも勝利するためです。何よりも神様が私たちに神様を恐れ敬い、御言葉に従う生活を求めておられるからです。
9:10-28節はソロモンが主の宮と自分の宮殿以外にエルサレムの城壁、周囲の町々の建設事業にとりかかったことに関する記録です。

?.シェバの女王のソロモン訪問と賞賛(10章)
10章1節をご覧ください。「ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。」とあります。今から約三千年前ですが、ソロモンに与えられている知恵を慕い求めてシェバの女王がソロモンのところにやって来ました。シェバは今のエチオピアとも言われますが、当時の領土は今のイエメン、エジプトまでも広がっていたそうです。とても強大な国家でした。ですから、シェバ女王は天皇陛下より金持ちであって、富と権力、軍事力においても世界最大級の力を持っていました。そんな彼女にも難しい問題がありました。その難問を解くために、彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来ました。そして、彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問しました。人は金持ちであっても、天下の権力を握っていても難しい問題を持っていることが分かります。私たちはこれだけあれば満足だとか、これだけ解決されればもう問題なしとか言いますが、何の問題もない日が来るでしょうか。個人にも、国家にも次々に問題が生じます。先週、北朝鮮は核保有国であることを公式的に認めましたが、アメリカにとっても、日本にとっても難問ですね。どう解決すればいいでしょうか。人間は貧富、男女関係なく、だれでもさまざまな問題を持っているのです。
たまに、テレビで動物の世界を見ますが、体が小さく弱い動物たちがとてもかわいそうに思われます。いつもやられるばかりで、大きな動物たちに脅かされているからです。では、ライオンや像、河馬などの大きな動物には何の問題もないでしょうか。いいえ。体が大きい動物にも敵があります。自分の力では勝てない、いつも自分を苦しめる勢力があります。何かご存知でしょうか。多分、知らないでしょう。私のような田舎者は分かるはずです。ジャングルの王たちも自分の力では勝てない敵がありますが、まさにそれは蚊やハエです。ハエたちが像やライオン、牛のような動物たちを苦しめます。子どもの時、見ましたが、あの大きな牛でもハエたちが体にくっついて苦しめると、モーモーと泣きながら体を振り回します。ジャングルの王者であるトラも、ライオンもハエたちのために苦しめられるそうです。ところが、学者たちによると、そのハエのために長生きするそうです。動くから、体を振り回すから、運動ができて健康になるそうです。私たち人間も小さなことで傷つけられますが、それによって成長するものです。ある人は傷つけられるだけ成長すると言いました。考えてみると、イエス様は数多く傷つけられ、最後に全身が傷だらけになって十字架にかかられました。
私たち人間は誰も自分を苦しめるハエの問題を持っています。金持ちになっても、成功しても自分の力では解決できない難問があるのです。私たちクリスチャンにもないわけがありません。クリスチャンもさまざまな問題のために、苦しみ、悲しみます。しかし、私たちクリスチャンはどんな場合にも、いかに難しい難問であっても解決してくださる方がおられます。まさに、私たちの主イエス・キリストです。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と約束しておられます。私たちはすべての重荷をイエス様にゆだね、どんな問題もイエス様のところに持って行くことができます。すると、イエス様は私たちの重荷を担い、すべての問題を解決してくださいます。何よりも傷だらけのイエス様の十字架を仰ぎ見る時、私たちの心は癒されます。ですから、使徒パウロは言いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8;35、37)」これがパウロの確信でした。私たちもパウロのように確信して信仰によって生きるといつも勝利します。圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。イエス様は私たちにあるさまざまな問題を解決してくださるだけではなく、私たちに知恵を与え、人生そのものを大いに祝福してくださるからです。
シェバ女王は自分にある難問を持ってソロモンのところに来ました。エチオピアからエルサレムまで約2400kmを歩いてきました。あの昔、電車も、自転車もない時代に何ヶ月も歩いたでしょう。それほど、彼女には学びたいという熱情がありました。知恵を慕い求める渇きがありました。彼女は霊的に渇いていて心の貧しい人でした。心の貧しい者は幸いです。彼女がソロモンのところに来た時、ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つありませんでした。シェバの女王は神殿があるソロモンのところに来てすべての問題を解決していただいたのです。ところが、イエス様は自分を受け入れようとしないユダヤ人、何もイエス様から学ぼうとしないユダヤ人に対して、異邦人であるシェバ女王の例を引き合いに出しています。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。(マタイ12:42)」シェバの女王が、遠いところから来て知恵を認めるその求道心は、ユダヤ人であるあなたがたよりも、なお強かったのですよ、ということです。同時に、このみ言葉はソロモンよりもまさったイエス様のところに来るならどんな難問でも解決される、イエス様に告げるなら、何でも解決されると言うイエス様の約束です。ですから、私たちは「つげよ主に,つげよいま,うちにある,なやみをー,みめぐみに,とめる主は,ききたまわん,したしくー、主のもとにおろせなが,おもき荷の,すべてをー,みめぐみに,とめる主は,とりたまわん,のこらずー」(聖歌423)と歌うことができます。
シェバの女王は、携えてきた問題を解決していただけるだけではなく、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりでした。そこで、彼女はソロモン王に何と言いましたか。6-9節をご覧ください。「彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行なわせられるのです。」」とあります。シェバ女王はソロモンをとても高く評価しています。素晴らしい光景ですね。彼女はソロモンをほめたたえて賞賛し、励ましています。「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。」と賞賛しています。今の世の中は、テレビやインターネットなどを通してうわさ話、陰口、悪口などが多く流されている時代です。先週、読んだ本の中には、あるアンケート調査によると、74%の人が朝から気持ち良くない言葉を聞いて一日を始めているそうです。でも、人をさばき、非難し、陰口で言うことは神様から与えられる恵みではありません。堕落した人間の本性です。イエス・キリストによって生まれ変わったクリスチャンは人をほめて、励まし、愛することのために励まなければなりません。どうか、私たちの心にある憎しみ、不平不満、人をさげすむ心などは聖霊の炎によって焼き尽くして私たちの心に愛と感謝、励まし、互いに尊く思う思いやりが満たされるように祈ります。
10-13節を見ると、たくさんの材木と宝石がオフィルからやって来ました。そして、このような海外からのものを含めて豊かになったソロモンは、シェバの女王にも望みのままに与えました。
14-29節までは神様がソロモン王に与えられた富や栄華、知恵は、どの位だったのかが記されてあります。特に23、24節をご一緒に読んで見ましょう。「ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。全世界の者は、神が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めた。」ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていました。全世界の者は、神様が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めたほどでした。ところが、28、29節を見るとソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品でした。ここに、ソロモンの妥協を見ます。馬をエジプトから買い取っているのです。それは、モーセを通して主から具体的に禁じられていたことです。申命17:16節によると「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない。』と主はあなたがたに言われた。」とあります。ソロモンは、父ダビデのお陰で、また、自分自身の神様への愛と献身、祈りによってとても繁栄されたソロモン王国を確立しました。富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていました。王は銀をエルサレムで石のように用い、杉の木を低地のいちじく桑の木のように大量に用いるほどでした。しかし、彼は主から禁じられていたことを行ない始め、栄華を極めた繁栄は徐々に、徐々になくなっていきました。彼は神様を愛しているけれども、多くの富を持ち、その富によって知らないうちに心が神様から離れていったのです。ヘブル書に、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(2:1)」という言葉があります。ここの「押し流される」という言葉は、漂流する、という意味です。自分は大丈夫と思っているうちに、舟は沖へ押し流されます。気づいたときは取り返しもつかない状況になっています。これがソロモンに起こりました。来週、私たちはソロモンの失敗とソロモン王国の分裂を見るようになります。ですから私たちは、自分が大丈夫だと思っているときでも、心を神様に向け、常に謙遜になってイエス・キリストを学び、イエス様にとどまる生活に励む必要があります。この世の価値観に押し流されないためです。

以上で、私たちは見せかけの仕事より、全き心、御言葉を実行し、守ることを切実に願っておられる神様の御心を学びました。私たちが本当に真実に神様を愛し、御言葉を愛して守り続けるなら、一時的に祝福されるのではなく、永遠に祝福された人生、何をしても栄える人生を生きるようになります。また、ソロモンの知恵を求めて遠い国からやって来たシェバの女王を通して求道者の姿勢を学びました。私たちはソロモンにまさる知恵そのものであられるイエス様を慕い求め、イエス様を学ぶ生活に励みましょう。どうか、私たちひとりひとりがイエス様が再び来られるその日まで信仰の中心を守ることができるように、いつも私の心を見ておられる主の御前で真実に、謙遜に知恵を求めて御言葉を実行し、守ることができるように祈ります。