1997年聖誕メッセージ?

 

救いの角・日の出のイエス様

 

御言葉:ルカの福音書1:57ー80

要 節:ルカの福音書1:69「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」

 

 先週はインマヌエルのイエス様について学びました。今日は救いの角・日の出のイエス様について学びたいと思います。救いの角・日の出のイエス様が私達にとってどんな意味があるのかを学び、このイエス様に出会う時間となるように祈ります。

 

?。バプテスマのヨハネの誕生(57ー66)

 

 57節をご覧ください。月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きな哀れみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜びました。というのはエリサベツは不妊の女だったのに、神様のあわれみによって子供を産むようになったからです。ヨハネはザカリヤとエリサベツが神様の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた信仰の実であり、祈りの実でした。それを通して神様は生きておられることとご自分を求める者には報いて下さる方であることを現わされました(ヘブル11:6)。信仰によって生きる人には決して敗北がありません。一時的に敗北に見えることがあっても結局生きておられる神様によって必ず勝利します。

 59節をご覧ください。さてヨハネが生まれてから八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしました。しかし、母エリサベツは答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と言いました。彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません。」と言いました。そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。すると、ザカリヤは書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚きました。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神様をほめたたえました。そして、近所の人々はみな恐れました。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行きました。聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう。」と言いました。主の御手が彼と共にあったからです。

 ヨハネの名をつける出来事を通して私達はザカリヤ夫婦の神様に対する絶対的な従順と信仰を学ぶことができます。1:13節を見ると祭司ザカリヤが神殿に入って祈っていた時に、御使いが現われて彼に言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」そこでザカリヤはそれを信じることができなかったので「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と言いました。彼は不信仰のゆえにヨハネが生まれるまでおしになる訓練を受けました。一言不信の言葉を言ったことでいきなりにおしになったザカリヤには多くの苦しみがあったでしょう。しかし、その苦しみは決して無駄ではありませんでした。彼は神様の訓練によって神様がどんな方であるかを深く学ぶことができました。それで幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた時、ためらうことなく「彼の名はヨハネ。」と書きました。彼は訓練を通して神様の御言葉に従うことを学びました。彼は従順を通して生きておられる神様、全能なる神様を体験することができました。ザカリヤ夫婦はメシヤの先駆者を誕生する器として尊く用いられました。

 ここで私達は偉大な人物の後ろにはその人を産んだ器があることを忘れてはなりません。ヨハネは信仰の父と祈りの母から生まれました。この時代もバプテスマのヨハネのような神様に用いられる人を誕生させる器が必要です。名古屋センターの神名隆史兄弟は中学校の時から大学の時まで万引きしたり、毎日喧嘩したりする人でした。彼は今年李ヨハネ宣教師に出会った時に「私は仏教徒です。」とうそをつきました。ところが、彼は今年の夏修養会に参加してから変わり始めました。学校の成績が悪くて何年も留年していた彼が勉強もよくできるようになりました。また、暗い顔が明るくなりました。神名兄弟のご両親は変わって行く息子を見て驚き、息子を新しく変えるキリスト教に関心を示すようになったそうです。神様は李ヨハネ宣教師とエステル宣教師家庭を通して神名兄弟を主のしもべとして育てておられます。シカゴUBFの近くにある有名な高校では毎年首席卒業生がUBF出身だったそうです。ある年には上から何番目まで成績が一番良い学生達がみなUBF宣教師達の子供達だったそうです。それでその学校ではUBFでどのように子供達を育てているかを研究するようになったそうです。宣教師達はみな忙しい生活をしているのでそれほど子供達の面倒を見る時間がありませんでしたが、祈りと信仰によって育てた時に神様は立派な第2世代の宣教師達として成長させてくださいました。私達がこの国の人々を主に立ち返らせるバプテスマのヨハネのような主のしもべを産む信仰の父、祈りの母となることができるように祈ります。

 

?。救いの角であるイエス様(67ー71)

 

 ザカリヤは口が開け、舌は解け、ものが言えるようになった時、どうしましたか。彼は10ヶ月間もおしの訓練を受けさせた神様につぶやきませんでした。67節をご覧ください。彼は、聖霊に満たされて、預言して言いました。彼はヨハネの誕生を通して神様の恵みと愛、あわれみと力を深く体験しました。彼はヨハネの誕生を通してメシヤの誕生が近づいていることを悟り、神様を賛美しました。彼が神様を賛美する理由は何ですか。

 第一に、主がその民を顧みてくださったからです。68節をご覧ください。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、」「顧みる」とは「助けてあげるために様子を探ってみる」という意味です。「訪れる」「探し出す」などの意味が含まれています。それはいきなりにしばらくよったことではありません。いつも助けてあげるために深く関心を持っていて時になると訪ねて来ることを意味します。人々は権力者やお金持ち、社会的な地位が高い人のところにはよく訪ねて行きます。韓国では今週大統領選挙がありますが、この前世論調査を行った時、支持率が高くなる候補者の家には朝から晩まで訪れる人々でいっぱいになったそうです。しかし、イエス様は正しい人を招くためではなく罪人を招くためにこの世に訪れました。イエス様は貧しい人、病んでいる人、悪霊につかれた人、見捨てられた人、役に立たない人、罪人のところに訪ねて来られました。傷んだ葦のような人、くすぶる燈心のような人のところにイエス様は来られました。らい病人、中風の人、取税人、遊女達の友となってくださいました。イエス様はこのような彼らを訪れ彼らを癒し、慰め、希望を与えてくださいました。何よりも彼らの罪を赦し、真のいのちを与えてくださいました。

 聖誕は私達だけが集まって楽しむ日ではありません。救い主がお生まれになったのにも関らず罪と死の陰に座っている人々のところに訪ねて行って彼らを招き、彼らと一緒に救い主イエス・キリストの誕生を喜び、お祝うクリスマス礼拝となるように祈ります。

 第二に、イエス様は私達の罪を贖ってくださいました。「贖う」とは「救い」「解放」「自由」などの意味で、奴隷の状態にいる者を代価を払って解放して自由にする意味を持っています。ですから贖いという言葉は本来人間が奴隷状態にあったことを教えてくれます。奴隷には主人がいます。では誰が人間の主人でしょうか。人間は罪を犯し、サタンの奴隷となりました。元々人間は神様が造られた神様の所有であり、神様の目に宝のような存在でした。神様はそのような人のためにエデンの園を造られ、真の自由と永遠のいのちを持って幸せに暮らせるようにしてくださいました。しかし人は罪を犯したのでサタンの所有となり、サタンの奴隷となりました。サタンの奴隷となった人はエデンから追放され顔に汗を流しながら働き、食べ物を得なければなりませんでした。そして恐れと不安と罪の意識にさいなまれ、ついには死ななければなりませんでした。サタンの奴隷から解放されるためには高い代価を払わなければなりません。まるで誘拐犯が巨額の身代金を要求することのようです。ところがサタンが要求する身代金はその人のいのちです。私達は自分の犯した罪の代価を払うために死ななければなりませんでした。神様はこのような人々をあわれみイエス様を遣わしてくださいました。そしてイエス様は私達の罪の代価を払うためにご自分の尊いいのちを捨てられました。神様は私たちを代価を払って買い取られただけではなく私たちをご自分の愛する子供としてくださいました。このようにして私達はサタンの奴隷から神様の子供となったのです。身分が完全に変わりました。ここに私達に向かう神様の驚くべき贖いの愛があります。ですから昔の主人をなつかしく思う必要がありません。

 第三に、ザカリヤが神様を賛美した理由は神様が救いの角を、私達のために、ダビデの家に立てられたからです。69節をご一緒に読んで見ましょう。「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」神様はダビデに約束してくださった通りに彼の子孫の中から救いの角を立てられました(?サムエル7:13、使徒13:22、23)。それではなぜイエス様を救いの角と言うのでしょうか。救いの角はサタンの角に対照する言葉です。人間の敵はサタンです。ヘブル2:14、15を見るとイエス様がこの世に来られた目的は死の力を持っている悪魔を滅ぼし、一生死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」ということばがあります。相手の兵力、長短を知り、味方の兵力、長短を知って、その優劣を考えた上で戦えば、百回戦っても負けることはないという教えです。ですから私達は敵でサタンと戦って勝つためにはサタンの正体を知る必要があります。悪霊とも言われるサタンは力があります。黙12:3を見るとサタンは七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっています。冠は自分の栄光を現わすものです。サタンは神様の栄光を奪い、自分の栄光を求めます。サタンは七つの頭を持っています。その七つの頭によって巧妙に人をだまします。一つの頭のIQが100だとしても七つの頭を合わせるとIQが少なくても700になります。ですから頭一つの人間の知恵によってはどうしてもサタンに勝つことができません。

 また、サタンは十本の角を持っています。角は力や能力を象徴します。それはサタンがどれほど力強いものであるかを言ってくれます。サタンは十本の角の強力な力によって人間の弱点を突き刺します。一度に一回だけ突き刺すのではなく、何本ものの角で突き刺します。その角に突き刺された人は致命的な傷を受け、いのちを失います。サタンは情欲の角で若者を突き刺します。若者だけではなく年寄りも突き刺します。ある牧師先生は自分の奥さん以外の人は車の助手席に座らせないと言いました。それはサタンの力と自分の弱さを知っているからです。また、サタンは虚しい考えの角で人々を突き刺します。その角に突き刺されると「熱心に働いて何の得があるか。どうせ死ぬのに。」と思い、無気力になります。お金を愛する角に刺されれると寝ても覚めてもお金だけを考え、そのお金によって滅びます。絶望と挫折の角に刺された人は現実から逃げるためにアルコール中毒者になったり、麻薬を使ったりします。その他にもサタンは高慢、恐れ、安逸、ねたみ、眠り、不信など多くの角を持ってその人の弱いところを突き刺します。サタンの角は強くて誰もその角から逃れることができません。曙や貴乃花のような力持ちもすぐ押し倒されます。このサタンの角に打ち勝つためにはもっと力強い角の助けが必要です。

 イエス様はサタンよりもっと強い救いの角です。サタンの角が山羊の角だとしたらイエス様の角は像の角のようです。救いの角はサタンの角より何万倍、何百万倍強いです。ですから私達が救いの角であるイエス様に頼る時、イエス様は私達をサタンの角から救ってくださいます。福音書を見ると救いの角であるイエス様の姿がよく現われています。イエス様はサタンより知恵が優れた方です。イエス様がイザヤが預言したように知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊に満ちた方です(イザヤ11:2)。また、イエス様は人間を苦しめる悪霊の力や病と罪と死の力を打ち破り、新しいいのちを与える力を持っておられる方です。イエス様は人々を感動させる御言葉の力を持っておられ、悪霊を追い出す霊的な権威者であり、嵐を静める自然界の権威者であり、どんな病も癒す癒し主です。何よりもイエス様は私たちの罪を赦してくださる権威を持っておられます。死の力を打ち破り、永遠のいのちを与える復活の主であり、いのちの主です。イエス様は天と地のすべての権威を持っておられる方です。私達が信じるイエス様は私たちの敵からの、すべて私たちを憎む者の手から救ってくださる救いの角です。救いの角であるイエス様をほめたたえます。

 

?。救いの目的(72ー75)

 

 神様が、この救いを施して下さった目的は、何ですか。74、75節をご覧ください。「我々を敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」この御言葉は神様が私たちをサタンの角から救ってくださった目的が何かを教えてくれます。私達が救われたのは神様に仕えるためです。ところが神様に仕えることを縛られることのように思う人がいます。それは神様に仕えることがどれほど祝福であるかを知らないからです。

 過去私達は神様に仕えたくても罪と恐れのために聖なる神様の御前に出て行くことができませんでした。旧約の時代には祭司が聖なる神様の御前に出て行く時に動物の血を流して清められなければなりませんでした。そうしなければ死にました。ところが動物の血はその時しか効果がなかったので神様の御前に出て行くたびに動物の血を注がなければなりませんでした。しかしイエス様は神様の小羊として尊い血を流してくださったので毎度動物の血を流す必要がなくなりました。私達はイエス・キリストの贖いのゆえにいつでも神様の御前に出て行くことができるようになりました。そして、私達の生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることが許されました。

 生涯のすべての日に、「きよく、正しく、恐れなく」、神様に仕えることができるのは、どれだけ大きな祝福でしょうか。最近日本の経済も難しくなって金融機関が倒産することが次々と起こりました。山一証券は自主廃業となれば、7千500人の社員は全員解雇される見通しです。この前山一証券の社長はその事実を発表するとき、涙を流しながら「一人の社員でも雇ってくれるように」お願いしましたが、それもなかなか難しいそうです。解雇されるようになる人々はどんなに不安な日々を過ごしているでしょうか。ところが私達は生涯のすべての日に主に仕えることが許されています。途中首になることがありません。人が不幸なのは環境や状況より心と力を尽くして仕える対象を知らないからです。聖なる使命がないからです。しかし私達には生涯のすべての日に仕える方があり、聖なる使命が与えられています。これは何と大きな祝福であり、恵みでしょうか。私達がこの神様の恵みを覚えてきよく、正しく、恐れなく主の御前に仕えることができるように祈ります。

 

?。日の出(76ー80)

 

 76、77節はバプテスマのヨハネの歴史的な位置と使命について言っています。彼はメシヤの先駆者として主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えます。今日の人々は情報の洪水の中で多くの知識を得ていますが、罪の赦しによる救いの知識には無知です。それは神様の御言葉である聖書を知らないからです。聖書は救いの知識を与える本です。聖書は私達に知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて、神の御霊によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です(?テモテ3:15、16)。私達はこの聖書の御言葉をどうしても人々に宣べ伝えなければなりません。そのようにする時、救いのみわざが起こります。

 78、79節をご覧ください。「これはわれらの神の深い哀れみによる。その哀れみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者達を照らし、われらの足を平和の道に導く。」この御言葉は日の出が訪れる前の人々の霊的な状態がどうであるかを教えてくれます。人々は暗黒と死の陰に座っています。座っているとは完全に希望を失って疲れ果てている状態、絶望的な状態を意味します。立ち上がる力もない無気力な状態を意味します。イエス様はこのような人々に日の出として訪れました。太陽の光はバイキングを殺し、生物にいのちを与えます。日の出は罪によって病んでいる人をいやします。人々は暗く、運命的な考えによって苦しんでいます。死の力によってさいなまれています。しかし、日の出であるイエス様を心に受け入れるとすべての暗闇と死の陰にすわっている人々にいのちの光が照らされます。暗黒と死の陰は消え去り、平安と希望に満たされます。この世の暗闇の力は強くて灯火や蛍光燈のような光によっては解決することができません。強烈な力を持って上る日の出であるイエス様だけが人類の闇の問題を解決することができます。このイエス様はこの国の希望、人類の希望です。日いずる国であるこの国に日の出であるイエス様が上り、人々がこのイエス様のところに集まって来るように祈ります。救いの角、日の出であるイエス様をほめたたえます。