1998年新年修養会 第2講

 

神様の希望

 

御言葉:イザヤ2:1ー3

鍵 句:イザヤ2:3a

多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に

上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。」

Happy New Year! 世の中は不景気のために非常に暗くなっていますが、神様が私たちに神様の希望をつかんで明るい1998年を出発するようにしてくださり感謝します。昨日は、エリヤのチャレンジ精神と信仰、彼の祈りの力について学びました。今日は神様の希望について学びたいと思います。皆さんはどんな希望をもって新年を迎えましたか。今年は就職しよう、今年は進学しようという希望を持っている方もいるでしょう。今年こそ、弟子養成の実を結ぼうと決心している方もいることでしょう。では神様が私たちに置かれた希望は何でしょうか。今日の御言葉を通して神様の希望を心に刻むことができるように祈ります。

 

?。ああ。罪を犯す国、咎重き民

1節をご覧ください。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。」イザヤはイスラエルの偉大な預言者のひとりです。イザヤはイスラエルの歴史上一番難しいとき、預言者として召されました。イスラエルの初代の王はサウルでしたが、彼が残したのは、不従順の罪がいかに大きな罪であるかという教訓だけです。しかし、第二代の王ダビデの時はイスラエルの国力は最高潮に達しました。彼はイスラエルの十二部族を統一しました。さらにその領土を拡大し、エジプト、メソポタミア地域の国々まで広がりました。ダビデの統治の下でイスラエルは世界の中で一番影響力のある国になりました。ダビデがこの偉大なみわざに用いられたのは、彼自身が神様を敬い、神様を愛する生活をしたからです。彼は何をしても神様に尋ねたし、その行いは右にも左にもそれることなく、神様に御言葉に従いました。また、彼は謙虚な王でした。罪を犯したときにも、「わしは王であるぞ」と思って自分の罪を隠すようなことをしませんでした。神様の御前で自分の罪を告白し、涙をもって悔い改めました。彼がこのように神様を敬い、愛したからこそ、神様は彼と彼の国を祝福してくださいました。ダビデは本当に神様の御心にかなった人だったのです。

しかし、イザヤが召された時のイスラエルにはダビデのような人を見つけることが非常に難しい時代でした。第?講のメッセージを通して分かるようにダビデ以後のイスラエルの王たちはますます神様の御前で悪を行いました。結局、北のイスラエルはアッシリアによってすでに占領され、南のユダも隣国のアッシリア、エジプト、アラム、バビロンなどによって脅かされていました。

このように緊迫した状況に処せられた時にはには、神様に帰って来なければなりません。私たちが神様を信じる理由の一つは緊迫した時、危機の時に神様に助けてもらうことでしょう。ところが、ユダの民は緊迫した状態の中でも神様に帰ろうとしませんでした。アラムとエフライムの同盟国がユダを攻めて来ると告げられても恐れるばかりでした。王の心も、民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺しました。イザヤは恐れないで神様に求めるように勧めましたが、アハズ王は「私は求めません。」と言って拒みました(イザヤ7:12)。彼らは神様のしもべイザヤが教える神様の御言葉と方向に耳も傾けませんでした。その代わりに力があるように見える周辺の大国の助けを求めました。それで周辺の国々に貢ぎを捧げながら屈辱を受けなければなりませんでした。ダビデ王の時はそんなに影響力のある国だったのに…、牧者の国の民として立てられたのに…、こんなにも惨めになってしまったのです。

彼らはどうしてこんなに悲惨になってしまったのでしょうか。彼らはまるで親が子どもたちを育てることのように彼らを愛し、救ってくださった神様に反逆したからです。彼らが神様の大きな救いの恵みに反逆した時、彼らの頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てていました(イザヤ1:5)。そんな彼らにとってもはや神様は以前の神ではなく、数多くある偶像の一つにすぎませんでした。神殿は祖先たちが残してくれた宗教的な遺跡地にすぎず、神様に捧げるいけにえも形式的なものにすぎませんでした。神様はこんな彼らを責められました。「あなたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。」…・「あなたがたはわたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ。とあなたがたに求めたのか。」(イザヤ1:11、12)彼らの生活も全く腐敗してしまいました。「おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」(イザヤ1:22、23)

ユダの指導者たちはこのように腐敗していたために彼らの次の世代をリーダーする牧者を養成することができませんでした。若者たちは羊飼いのいない羊のようにさまよい、わがままでした。エルサレム大学の学生たちは、国と世界の牧者になるために祈り、学問の十字架を担わなければなりませんでした。彼らは若者らしく、体も心も健やかで神様の希望に満ちていなければなりませんでした。しかし、神様がご覧になった彼らの姿はどうでしたか。神様は嘆息せざるを得ませんでした。「ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。彼らの酒宴には立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」(イザヤ5:11―12)若者たちは時代の問題、国の問題を避けて鋭い利己主義者と快楽主義者になっていました。彼らはラブホテルに行ったり、夜遅くまで強い酒を飲んだりしながら淫乱な世界に身を投げました。彼らはパーティに何が必要なのかはよく知っていても神様については知ろうともしませんでした。彼らは人生を楽しめることについてはよく考えましたが、神様が彼らの人生を通して成し遂げようとすることについては考えませんでした。もちろん、彼らの中に勉強に熱心な人もいたはずでしょう。しかし、神様のなさることとその力に関心を持つ人はほとんどいなかったのです。若い時は人生において本当に良いときです。人生の黄金期と言われています。しかし、ちょっと間違えばとても危険な時でもあります。心の病にかかり、腐敗しやすい危険な時も若い時です。ところが、ユダの若者たちはその若さを無駄使いをしていました。彼らの若いたましいは限りなく、病にかかり、腐敗し続けていました。

一言でユダはみなが、大人も、若者も神様を捨てたので、神様が彼らに与えようとされたすべての祝福を失ってしまいました.神様は嘆息せざるを得ませんでした.「ああ.罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら.イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った.」(イザヤ1:4)

 

?.さあ、主の山に上ろう

神様はご自分の民の腐敗を見て嘆かれました.しかし、神様は嘆くことがあっても絶望することはありません.だからこそ神様は希望の神様です.神様は絶望の中にいるイザヤに神様の希望とビジョンを教えられました.神様の希望とビジョンとは何ですか.

第一に、世界のすべての人々が神様の御言葉を慕い求めてシオンに集まってくる希望です.

2節をご覧ください.「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る.」ここで「終わりの日」とは、ただ終末論的に使われたのではありません.やがて、神様の御言葉が成就するその日を意味します.その日にはすべての国々が主の家の山、すなわち、シオンに流れて来ます。彼らはなぜシオンに流れて来るのですか.主の家の山は、山々の頂に堅く立つと言いました.主の山は他の山々の頂よりも高く、その上に立つからです。主の家の山とは神殿があるシオン山を意味します.神殿は神様の御言葉がある所です.終わりの日には御言葉があるシオン山がすべての山々の頂の上に立ちます.人々はこのシオン山に集まって来ます。神様はイスラエルが堕落し、腐敗していても、やがて主の日には世界中の人々がこのシオンに集まって来るビジョンをご覧になりました。

世にあるものは、すべてが移り行く影のようなものです.世の中には、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともないものは何もありません.この世には、人々が信じて頼りに思って上ろうとする山々があります.日本一の標高を持つ山(3776m)は「富士山」です.多くの人がこの山に登って見ようと思っています.私も山頂まで上ってみました。ところが、世界一の標高を持つ山はエベレスト山(8848m)です.この山に比べれば、富士山は小さな山にすぎません.エベレスト山はすべての山の上に立っています.このように世の中に数多い山々があります.学問の山、名誉の山、富の山、権力の山などがあります.また、思想の山、哲学の山があります.この山々はあれもこれも自分の山が一番上に立っていると威張っています.また、人々は自分なりに一番高いと思う山に登るために頑張っています.富の山、名誉の山などに上れば絶対的な幸福を手に入れるだろうと思って必死的に努力します.しかし、いざと登って見ると虚しいものです.私と一緒に富士山に上った宣教師たちは二度と上りたくないと言いました。山頂に上ってみればそんなものでしょう。川端康成は青春の感傷を洗練された筆致で描いた小説を通して多くの人々に感動を与え、ついにノーベル文学賞の山に上りました.しかし、彼は受賞して四年目に自殺してしまいました.ヤコブは名誉の山、愛の山、富の山に上るために血を流すほどに闘争しました.しかし、ヤボクの川の渡りで限界にぶつかった時、彼は自分が命懸けで上ろうしていた山々が、自分のたましいに本当の満足と幸福を与えてくれるものではないことを深く悟るようになりました.そうです。世のすべてのものは小さな山々にすぎません.

現代は、数多い情報が氾濫している時代です。しかし、それらの情報の中で人間のたましいにいのちを吹き込んでくれる情報はほとんどありません。また、豊かな物質と科学文明の発達のために便利な生活ができるようになりました。しかし、今日のように精神的に、霊的に渇き、疲れている時代は今までありませんでした。かつてアモス預言者は次のように預言しました。「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見出せない。」(アモス8:11、12)

現代人にとって一番大きな問題は、何よりも御言葉がない深刻なききんの中にいることです。人が心の奥底から本当に求めているのは神様の御言葉です。数多い山に上ってみた人々はその数々の経験を通して神様の御言葉に従って生きることこそが本当の生き方であることを悟ります。 中国が産んだ世界的なジャーナリスト林語堂(Lin Yü-tang)は30年間ヒューマニズムの山に上りました。しかし、その山は人の内面に本当の自由といのちを与えてくれないことを悟り、結局神様の御言葉だけがすべての人々が従わなければならない絶対的な真理であり、いのちであることを受け入れました。そうです。神様の御言葉だけが私たち人間に真のいのちの道を教えてくれます。主の御言葉だけが完全で、たましいを生き返らせ、わきまえのない者を賢くします。人間に御言葉がなければ肉にすぎない存在です。人間は体とともにたましいを持つ存在だからパンだけで生きることはできません。神様の口から出る一つ一つの御言葉によって生きるときにこそ、真の満足と幸福があるのです。人々は愚かで御言葉の絶対性と優越性を悟っていませんが、やがて主の日にはすべての人々が神様の御言葉だけが真理の道であり、いのちの道であることを悟ります。神様はイザヤを通して人間がいつかは神様の御言葉を学ぼうとし、神様の道に歩もうと集まって来る神様の希望を啓示されました。

3節をご覧ください。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えて下さる。私たちはその小道を歩もう。』それはシオンからみおしえ、エルサレムから主のことばが出るからだ。」

第二に、ご自分の民が聖書先生になる希望です。

その日にすべての国々がそこに流れて来ると言いました。「そこ」というのは本文でシオンとエルサレムを指していますが二つともイスラエルを意味しています。どうして人々がイスラエルに流れて来るでしょうか。それは、イスラエルからみおしえが出るからです。ではなぜみおしえがイスラエルから出るのですか。イスラエルは神様が信仰の人、アブラハムに与えられた約束の上に立てられた国です。神様はアブラハムを通して一つの国を立て、その国を祝福の源にして全世界を救うと約束されました。また、神様はイスラエルを出エジプトさせて祭司の国にすると約束されました。ところが、この国がイザヤ時代に来て深刻な罪に陥り、腐敗してしまいました。あまりにも腐敗してしまったイスラエルのために神様は嘆息し、イザヤは絶望しました。それでは、神様は彼らを通して世界を救おうとされた本来の計画を捨てられたのでしょうか。いいえ。イスラエルは失敗しました。しかし、神様は失敗されませんでした。イザヤは自分の国の罪のために絶望しました。しかし、神様は絶望されませんでした。むしろ、大きな希望を持っておられました。神様はイスラエルが罪を犯し続けたにもかかわらず、アブラハムに約束された通りに救い主イエス・キリストを遣わされたのです。そして、イエス・キリストによって新しいイスラエル、新しいシオンの歴史を始められました。

本来、異邦人たちは罪悪、かたくなさ、そして霊的な無知のためになんの役にも立たない人たちでした。彼らがどうやって聖なる国民、祭司の王国の民になれるでしょうか。どうやって不従順の子らが聖なる神様の道を教える民になれるでしょうか。神様は言われました。「『さあ、来たれ。論じ合おう』、『たとい、あなたがたの罪が緋のようにように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても羊の毛のようになる』」(イザヤ1:18)神様はその民たちに切なる御心をもって悔い改めを促しておられます。私たちの罪が緋のように赤く、紅のように赤くても神様の御前に出てきて罪を告白し、悔い改めるなら、主は私たちのすべての罪と咎を雪のように、羊の毛のように白くしてくださいます。私たちをキリストにあって新しく造られた者にしてご自分の希望を成し遂げられます。私たちは足りなくてもいいです。神様の目には私たち一人一人が高価で尊い存在です。私たちのありのまま主の前に出て行き、イエス様の十字架による罪の赦しを信じるなら、神様は私たちを赦して神様の子ども、神様のしもべにしてくださいます。そして、私たちを通して日本と世界を変化させます。イエス様は十二弟子を召された時、彼らは田舎者だったし、収税人や漁師たちでした。しかし、 イエス様は彼らが救われて他の人たちを神様の道に導く偉大な牧者になるという希望を持たれました。そして彼らに、御言葉を教え、訓練されました。すると、イエス様の希望の通りに彼らは自立的な聖書先生として成長し、全世界に出て行って、福音を伝える牧者であり、宣教師になりました。

このように神様はイエス・キリスト信じる一人一人を新しいイスラエルのシオンにされます。ですから、イエス・キリストの以後、シオンの意味が変わりました。地理的に固定された場所を意味するのではないのです。イエス様を救い主として信じ、神様の御言葉が満ち溢れている個人や集まりが本当のシオンなのです。

神様は私たち一人一人をイエス・キリストの血によって救うだけではなく、御言葉を与えてくださり、偉大な聖書先生となり、羊たちに仕える牧者、世界に仕える宣教師になる希望をもって育てておられます。だれでもキリストを信じるなら、新しく造られた者になります。そして、神様の御言葉を昼も夜も口ずさみ、学んで従う生活をするとき、偉大な人生、実を結ぶ人生を生きることができます。神様は私たちにこの希望を置かれたのです。ですから、私たちは一人一人がまさに“Working zion,Living zion”と言える存在なのです。

去年は私は、神様の恵みによってMSU国際修養会に参加させていただきましたが、大きな恵みを受けました。特にサムエル宣教師の講義を通して大きな恵みを受けました。彼は世界の国々から集まって来た宣教師たちに「聖書の達人になれ。」という方向を与えてくださいました。サムエル宣教師はUBFのシオンであると言えるでしょう。シカゴセンターは一年中世界の国々からサムエル宣教師に会うために集まってくる宣教師や牧者たちのためにいつもにぎやかであるそうです。サムエル宣教師は彼らと話し合い、訓練しますが、どんなに厳しい訓練をさせても、いくらひどく責めても逃げないそうです。むしろ、近づいて来るそうです。それはサムエル宣教師御自身に御言葉があるからだと言いました。サムエル宣教師は生きているシオン(Living zion)になっているのです。そうです。御言葉があるところがシオンです。私たちが力ある御言葉のしもべになる時、大学生たちは「さあ、行きましょう。東京UBFへへ行きましょうよ。そこから御言葉が出るから。さあ、寺崎牧者に会いましょう。彼からから主の御言葉が出るからだ」と言いながらこのセンターに流れて来るでしょう。やがて日本だけではなく、多くの白人、黒人、黄色人たちがここに雲のように流れ来るのです。私は本文の御言葉を準備しながらそのビジョンを見ました。去年、聖誕礼拝には牧者、兄弟たちの家族が多く参加しました。萩原姉妹のご両親は遠い四国から飛行機に乗って来ました。兄弟姉妹たちが御言葉を通して恵みを受けるので、友達や家族たちの招いて来たのです。私はこれらのことと本文の御言葉を黙想しながら神様は御言葉があるこのUBFをシオンにして日本の若者たちを救い、世界を救う希望を持って働いておられることを深く悟りましたた。この希望は神様がイザヤを通して啓示してくださった神様の希望です。ペテロは言いました。「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(?ペテロ1:24b、25)。そうです。神様の御言葉は必ず成就します。何よりも今も、神様の熱心が私たちのうちに神様の希望を成し遂げておられます。

神様はこの希望を持っておられたから、イスラエルがひどい罪の中にあっても、霊的なこと、聖書に無関心なその時代であっても絶望することがありませんでした。私たちもこの希望を持つ時、どんな状況の中でも絶望せずに立ち上がることができます。また、神様の希望があるからこそ、もっと頑張って御言葉の研究に励むことができます。もっと積極的に神様のために戦うことできます。新年を出発する私たちの心の真ん中にこの神様の希望が深く刻まれるように祈ります。

 

結論的に神様は私たちひとりひとりをこの時代のシオンにされました。私たちがこのシオンの使命を果たすためには何よりもすぐれた聖書先生にならなければなりません。そのために弱い自分のことや絶望的なこの時代だけを見ていてはなりません。イザヤのように神様を仰ぎ見、神様の希望を堅くつかんでいなければなりません。心から神様を求め、その御言葉を慕い求めなければなりません。その時、全能の神様が私たちをこの時代の御言葉のしもべとして育てられ、ご自分の希望の通りに尊く用いられることを信じます。1998年は新しく私に置かれた神様の希望を堅くつかんで、私たちひとりひとりが神様を深く愛する生活、その口から出る御言葉を慕い求める生活を通して世界的な聖書先生、聖書の達人として成長する年となるように祈ります。